わたしはかもめ2000年鴎の便り(3月)

便

3月26日

横浜6−22千葉ロッテ(川崎球場)

10本のアーチが乱れ飛ぶ乱打戦。合計39安打28得点は「川崎劇場」らしい。

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千葉ロッテ00146008322
横浜1300110006

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黒木収穫あり

23日に続きオープン戦2度目の先発マウンドに上がった黒木は、目標の5回を投げ切った。5回を9安打5失点。1、2回で計4失点だったが、3、4回は無安打。故障で調整が遅れていたものの、本人は収穫ありを強調した。

黒木
「ベースカバーを含め、120%の力を出した時に体が応えてくれた。結果より状況判断ができたことが良かった。」

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さよなら川崎球場!!

老朽化のため年内の取り壊しが決まっている川崎球場で、かつてここを本拠地にしている横浜(元大洋)とロッテが、プロ最後の試合となるオープン戦を行い、88年10月19日、ロッテ×近鉄ダブルヘッダー以来12年ぶりの大入り満員。52年4月3日の開場以来60年、数々の栄光を刻んだ球場が幕を閉じた。

始球式では、元大洋の平松氏と土井氏がバッテリーを組んだ。バッターには山本功児監督。平松氏は、日本一になった60年当時のデザインを再現した白いユニホームに身を包んだ。

平松氏
「201勝の4分の3をここで挙げた。ボロといわれるが、僕にとっては1番の球場だったのに。」

試合では、ロッテ打線が大爆発。10本のアーチを次々とスタンドに叩き込んだ。これが公式戦なら、1試合1チーム最多本塁打記録「9」を越すプロ野球新記録になっていたところだった。

4回表堀(満塁3号)
5回表バリー(2ラン2号)
初芝(2ラン2号)
堀(ソロ4号)
8回表小坂(ソロ1号)
バリー(ソロ3号)
立川(3ラン3号)
小坂(ソロ2号)
9回表初芝(2ラン3号)
福浦(ソロ2号)

10発のうちの1発目は堀。1−4で迎えた4回1死満塁からの逆転満塁ホームランだった。ロッテがオリオンズと名乗っていた平成元年3月22日、日本ハムとのオープン戦で、頬に死球を受けた三塁手・水上の代走を務めた当時プロ2年目の堀は、続く打席で初アーチ。そして、堀は、5回にも2打席連続アーチ。初芝・バリー(左右両打席)・小坂も2発ずつ。特に、小坂は、8回の1イニング2発。1イニング2発は野球人生で初めての小坂。立川と福浦の1発も含めチーム合計10本塁打。

「僕がプロ入り初めての1軍の試合でホームランを打ったのも、ここ。取り壊されるのは寂しいけど、最後の試合で打てていい思い出になります。」
小坂
「2本ともいくとは思ってなくて。ただ、強く打つことだけを考えてました。」

9回2死には、「小宮山、小宮山」とかつてのエースの登板を求める大合唱。これには普段はクールな小宮山も目頭を熱くした。

山本監督
「最後にいい試合ができた。お客さんも喜んでくれたでしょう。」

試合が終わった瞬間、スタンドからは色とりどりのテープが投げ込まれ、グラウンドには「ありがとう」の人文字が浮かび上がった。球場の周囲でも昔のビデオを流すなど、たくさんのテントが出て、まさに最後のお祭りだった。

◇川崎球場ブレイバック

川崎球場は51年の開設以来、張本勲氏の3000本安打、王貞治氏の700号本塁打など、様々な名場面の舞台になった。

80年4月、右ヒジ手術から復活した村田兆治投手(当時ロッテ)が1073日ぶりの勝利を手にした。88年10月19日には、球史に残る戦いが演じられた。近鉄の優勝がかかったロッテ×近鉄戦のダブルヘッダー。第1試合は近鉄が勝ち、第2試合で近鉄が勝てば優勝だったが、阿波野投手が高沢選手に本塁打を打たれ引き分けに終わった。これが翌年の近鉄の原動力になった?

60年には川崎球場を本拠地としていた大洋が三原監督の下で初の日本一に。76年は王貞治選手(当時巨人)が前人未到の700号本塁打を右翼席へ打ち込み、81年には安打製造機と呼ばれた張本勲選手(当時ロッテ)が3000本安打を放った。

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