わたしはかもめ2011年鴎の便り(4月)

便

4月25日

成田さん死去、ロッテ「下町のエース」[ニッカン]

ロッテのエースとして活躍した成田文男(なりた・ふみお)氏が21日午後6時36分、肝不全のため岐阜市内の病院で死去したことが25日、分かった。64歳だった。自宅は岐阜県山県市高木1525。葬儀・告別式は既に近親者で執り行われた。

成田氏は65年、ロッテの前身だった東京オリオンズに地元の修徳から入団し、「下町のエース」として台頭。右の本格派で、武器のスライダーには定評があった。68年から20、22、25勝と3年連続で20勝以上。70年には21勝の木樽正明、16勝の小山正明との3本柱でリーグ優勝に貢献した。68、69年には投球300回以上を記録。69年8月16日の阪急戦(ダブルヘッダー第2試合。西宮)では球団史上初のノーヒットノーランを達成している。

打撃センスを持ち合わせ、69年の3試合連続本塁打など通算15本塁打を放った。投手で満塁本塁打を2本打ったのはガルベス(巨人)と史上2人だけの記録。71年5月30日東映戦では満塁弾と2ランを打ち、3打数3安打、6打点だった。

79年の自主トレ中に転倒して右肩を強打し、1軍登板なし。80年に大沢啓二監督の日本ハムへ移籍したが3年間で6勝と成績を残せず、82年に引退した。

引退後は埼玉県内で運動具店を始めた後、建設会社の広報課長に就任。その後、好きなゴルフにのめり込み、90年代は羽田空港近くのゴルフ練習場でアシスタントプロになった。当時はプロ野球同期入団の尾崎将司(現プロゴルファー)に憧れ、シニアプロとして活躍する夢を語った時期もあったが、最近10年ほどは山県市で喫茶店を経営していた。

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ロッテ・成瀬、対オリ10連勝へ快投宣言[サンスポ]

ロッテのエース・成瀬が、26日のオリックス戦(QVCマリン)で、3年越しの対戦チーム別10連勝を目指し先発する。「今年の一発目の(対オリックスの)試合。苦手意識をもってもらえるような投球をしたい」。2009年から9連勝中の“お得意さま”相手に、快投を誓っていた。

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ロッテ、「サブローシート」継続[サンスポ]

ロッテは25日、2009年からQVCマリン(昨年まで千葉マリン)に設けていた「341シート」を、今季は「SABURO(サブロー)シート」と名称を変えて継続すると発表した。

「341シート」はサブロー外野手(34)と昨季まで在籍した小林宏投手(32)=現阪神=の背番号3と41にちなんだもの。2人は一塁側内野席35席(年間計1015万円相当)を用意して千葉県内の少年野球チームの子供達を招待しており、今季はサブローが単独で実施する。

最初のカードとなる29日からのソフトバンク3連戦はサブローがバスを用意し、東日本大震災で被災した千葉県旭市の小学生と保護者計100人を招待する。

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元ロッテ・成田文男さんが肝不全で死去[サンスポ]

2度の最多勝に輝くなどロッテなどで通算175勝を挙げた成田文男(なりた・ふみお)氏が21日、肝不全のため岐阜市内の病院で死去した。64歳だった。葬儀・告別式は既に近親者で執り行われた。

1965年に修徳高から東京オリオンズ(現ロッテ)に入団。69年の阪急戦でノーヒットノーランを達成し、70年に25勝、73年に21勝を挙げて最多勝を獲得した。80年に日本ハムに移籍し、82年に引退。通算成績は175勝129敗8セーブ、防御率3.20。

成田氏は東京・足立区で育ち、東京スタジアム(荒川区)を本拠地とするオリオンズの主戦投手として活躍。直球とスライダーを武器に「下町のエース」と呼ばれ、1歳年下の木樽正明(昨年まで巨人スカウト)とともに投手陣を支えた。

球団名が東京からロッテに変わった1969年は22勝を挙げた。8月16日の阪急とのダブルヘッダー第2試合(西宮)ではノーヒットノーランを達成。当時は連投が多く「肩が痛くて(試合中は)そればかり気になっていた」と振り返った。

この年は木樽も15勝を挙げ、翌70年はそれぞれ25勝と21勝。ロッテとしての初優勝に貢献した。

木樽は銚子商高で甲子園準優勝投手となってプロ入り。成田の修徳高は甲子園で初戦敗退しており、プロ入り後もいい意味でのライバルだった。ロッテを自由契約になった後、日本ハムのテストを受けて入団。救援で81年のリーグ優勝に貢献し、ロッテ時代から慕っていた大沢啓二監督を胴上げした。右腕は最後まで「雑草魂」で投げ抜いた。

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サブローシート、被災者100人招待…ロッテ[報知]

ロッテのサブロー外野手(34)が25日、東日本大震災により、津波などの被害を受けた千葉・旭市の小学生とその保護者を、本拠地・QVCの「SABUROシート」に招待するプランを発表した。

開幕直前の8日に西村監督をはじめ、選手数人で旭市の飯岡小を慰問した選手会長は、「元気な子供達の笑顔に、逆に勇気をもらった。今度は僕らがみんなに勇気、希望を与えられるようなプレーを見せたい」とコメント。招待するのは29日からのソフトバンク3連戦に計100人で、旭市から球場までのバスも特別チャーターする太っ腹ぶりだ。

「SABUROシート」とは、昨年までは「341シート」として阪神に移籍した小林宏と協力して、千葉県内の少年野球チームを招待していたもの。今季も単独で継続するファンサービスが、千葉の被災地の子供達を勇気づける。

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サブロー、1015万円「SABUROシート」[スポニチ]

ロッテのサブローが本拠地の主催試合で「SABUROシート」をプロデュースする。

09年から小林宏(阪神)とともにQVCマリンの一塁側内野席35席を購入。互いの背番号を合わせた「341シート」として千葉県内の少年野球チームを招待していた。小林宏の移籍に伴い名称を変更、今年は1015万円のポケットマネーを提供して継続する。29日からのソフトバンク3連戦はサブローがバスを用意し、東日本大震災で被災した同県旭市内の小学生と保護者計100人を招待することが決定。「開幕前に学校訪問したときは、元気な子供達の笑顔に逆に勇気をもらった。今度は僕らがみんなに勇気、希望を与えられるようなプレーを見せたい」とコメントした。

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20勝以上4度…ロッテ支えた成田文男さん死去[スポニチ]

元ロッテのエースとして通算175勝を挙げた成田文男(なりた・ふみお)氏が21日午後6時36分、肝不全のため岐阜市内の病院で死去。64歳。東京都出身。葬儀・告別式は既に近親者で執り行われた。

1965年に東京・修徳から東京オリオンズ(現ロッテ)に入団。翌66年から主力投手として活躍した。威力ある直球に加え、最大の武器である鋭く小さく曲がるスライダーを駆使して2桁勝利を9度、そのうち20勝以上を4度マーク。足立区で育ち、荒川区にある東京スタジアムを本拠として投げる姿から「下町のエース」と呼ばれた。1歳下の木樽正明氏と先発2枚看板を形成。成田氏からスライダーを伝授されて頭角を現した木樽氏は「今でいうカットボールのような鋭く速く曲がる球を投げていた。当時は財産となる技術は教えないものだったが、食事に連れて行ってくれたり公私ともかわいがってくれた。僕の恩人だし悲しい」とコメントした。

69年8月16日の阪急戦(西宮)ではノーヒットノーランを達成。70年は25勝を挙げて最多勝を獲得し、リーグ優勝に導いた。73年は21勝で2度目の最多勝に加え最多奪三振、ベストナイン、ダイヤモンドグラブ賞。74年は9勝と白星に恵まれなかったものの金田正一監督の下で球団名がロッテとなって初の日本一に貢献した。投手ながらDH制導入前のパ・リーグで3試合連続を含む通算15本塁打を放ち、うち2本の満塁本塁打は今も投手の日本記録として残っている。晩年は右肘痛に悩まされたが、80年にプロ入り後から慕っていた大沢啓二監督(故人)率いる日本ハムへ移籍。翌81年にはリリーフでリーグ優勝に貢献して大沢親分を胴上げし、82年に現役引退した。通算成績は175勝129敗8セーブ、防御率3.20。引退後は岐阜県内で少年野球などのコーチを務め、野球振興に尽力していた。

金田正一元監督
「本当にいい投手でした。私の監督時代、どれだけ助けられたことか。彼は野球人として輝かしい功績を残しました。心からご冥福をお祈りいたします。」
西村徳文監督
「ロッテで一緒にプレーしたり、お会いしたこともないのですが、素晴らしい実績を残された先輩なので本当に残念です。数々のタイトルを獲得し、ロッテを築き上げてくれた先輩に今はただ、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。」

◇同級生の星野監督「いい男だった」

星野監督も成田氏の死を悼んだ。リーグは違ったが、現役時代は同級生の投手として大きな刺激を受け「高校から有名で球が速かった。俺が認めた数少ない同級生。いい男だった」。64歳と早すぎる死には「同世代が亡くなることが多くなった」と神妙な面持ちだった。田淵ヘッド兼打撃コーチも「よく高校の時に練習試合をやった。スライダーがよくて、いい投手だった」と遠い目で故人をしのんだ。

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西村監督「本当に残念」[ニッカン]

ロッテで2度の最多勝に輝くなどした成田文男氏が21日に死去していたことが分かり、ロッテの西村徳文監督は25日、球団を通じて「素晴らしい実績を残された先輩なので、本当に残念」とコメントした。

西村監督は1982年に入団。80年に日本ハムに移籍した成田氏と一緒にプレーしたことはないが「ロッテを築き上げてくれた先輩に、今はただ、ご冥福をお祈り申し上げます」と語った。

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金田氏「どれほど助けられたことか」[ニッカン]

ロッテで2度の最多勝に輝くなどした成田文男氏が21日に死去していたことが分かり、関係者は25日、故人をしのんだ。

成田氏が現役時代に監督を務め、1974年には日本シリーズ優勝を果たした金田正一氏は「監督時代にどれほど助けられたことか。野球人として、輝かしい功績を残しました」とロッテ球団を通じて談話を寄せた。

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右ひじ痛のペンが練習参加[ニッカン]

ロッテのヘイデン・ペン投手(26)が25日、QVCマリンでの投手練習に参加した。右ひじの違和感を発症し19日に出場選手登録を抹消されたが、その後は回復は順調。この日は強めのキャッチボールもこなした。ペンは「日に日によくなっているし、早くチームに戻ってきたい」と早期復帰に意欲を見せた。

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元ロッテのノーヒッター、成田文男氏死去[ニッカン]

元プロ野球ロッテ投手の成田文男(なりた・ふみお)氏が21日午後6時36分、肝不全のため岐阜市内の病院で死去した。64歳。東京都出身。自宅は岐阜県山県市高木1525。葬儀・告別式は既に近親者で執り行われた。

1965年に東京・修徳高から東京オリオンズ(現ロッテ)に入団。69年の阪急戦で無安打無得点試合を達成し、70年に25勝、73年に21勝を挙げて最多勝を獲得した。80年に日本ハムに移籍し、82年に引退。通算成績は175勝129敗8セーブ、防御率3.20。

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サブローが旭市の子供を招待[ニッカン]

ロッテのサブロー外野手(34)が4月29日〜5月1日のソフトバンク3連戦(QVC)に、東日本大震災で被災した千葉県・旭市の小学生と保護者100人を招待する。昨年までは小林宏之投手(現阪神)と行っていた千葉県の少年野球チームの招待企画を、今年は「サブローシート」として単独で実施。その一環として旭の子供達を招待する。当日はサブローが球場までのバスを用意する。「開幕前に学校に訪問させていただいた時、元気な子供達の笑顔に逆に勇気をもらった。今度は僕らがみんなに勇気、希望を与えるプレーを見せたい」と話した。

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震災チャリティーチケット発売[ニッカン]

ロッテが25日、東日本大震災のチャリティーチケットを発売すると発表した。対象試合は5月13〜15日QVCマリンの楽天戦。5月3〜5日に幕張メッセで行われる日本最大級のフリーマーケット「どきどきフリーマーケット2011」に球団ブースを設置し、定価2300円の内野自由席を2000円で割引販売する。売り上げのうち、人件費やチケット印刷代などの経費を差し引き、1枚当たり1700円を日本赤十字社に寄付する。

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