ロッテの伊志嶺翔大外野手(23)がオリオンビールのCMイメージキャラクターに検討されていることが30日、分かった。
沖縄に本社を置く同社はロッテとスポンサー契約を結んでおり、沖縄限定CMには過去に石垣島出身の大嶺や看板打者の井口らが出演。沖縄・宮古島出身の伊志嶺は1年目の今季126試合出場で打率.261、32盗塁の成績を残した。
本拠・QVCマリンには地元から応援団が駆けつけるほど沖縄での人気は高く、同社担当者は「当社には沖縄出身選手を応援したいという方針があります。伊志嶺選手は今年活躍されましたし、今後も活躍されれば可能性はあります」と話した。
伊志嶺自身も大のオリオンビール党だ。今年1月の入寮時には箱ごと持参。「オリオンビールデー」と銘打たれた6月12日の広島戦(QVCマリン)では福井からプロ初本塁打を放った。「地元ではみんなで飲みますからね。やっぱりオリオンビールが1番美味しいです」と伊志嶺。切れのあるプレーと爽快な笑顔はイメージにもぴったりで、CMデビューの日も近そうだ。
(敬称略)
エースとしてロッテを支えた成田さんは東京都足立区で育ち、荒川区にあった東京スタジアムを本拠として投げる姿から「下町のエース」と呼ばれた。
7月に42歳で急逝した伊良部氏より以前のロッテの18番を背負い、69年8月16日の阪急戦(西宮)ではノーヒットノーランを達成。70年には25勝を挙げて最多勝を獲得して、チームをリーグ優勝へと導いた。一方で3試合連続を含む15本塁打を放ち、2本の満塁本塁打は今も投手の日本記録として残るなど打撃でも非凡な力を発揮した。
問題児扱いされたが、彼ほど野球に情熱を注いだ人はそうはいない。印象に残っているのは、05年3月の引退発表から4年がたった09年6月のこと。当時、現役復帰を目指して独立リーグに参戦していた伊良部さんを取材した。
復帰の決め手になったのは同年3月の第2回WBC。日本−米国戦をネット裏最前列で観戦して「球場で野球を見るのは久しぶりだったんですけど、松坂君や岩隈君の投球を見て、凄くレベルが高いのに感心した。見ていて楽しかった」。
引退後はうどん店を経営するなど多忙で、ブランクは大きかったが「もう40歳だし、何でもやってみようとね。元来、投げるのが好きで、その基本的な部分を1番大事にしようってね」。
かつてのヒールアップのフォームをやめ、トレーニングも体幹強化に重点を置いた。稲尾、金田の時代にはなかったからと、アイシングもやめた。40歳にして全てが新しい試み。それでも復帰へのこだわりを語る彼の目は、輝いていた。あの日の明るく情熱的な伊良部さんを、私は忘れることはない。
2011年も球界を支えてきた関係者の訃報も多く飛び込んできた。7月、日米球界で活躍した屈指の剛腕、伊良部秀輝さん(享年42)のあまりにも早すぎる死には、対戦した現役選手も絶句した。また、11月には大毎、阪急、近鉄と3球団で監督を務めた西本幸雄さん(享年91)が心不全で逝去するなど悲しみに包まれた。
玄関前には約150人の熟年から老年の男女が列をつくっていた。阪急や近鉄のジャンパーを着た者や球団旗を振る者もいた。私服で駆けつけたファンの人々だった。
11月29日、西宮球場跡地にほど近い葬儀場。誰もが「監督・西本幸雄」に別れとお礼を告げにきていた。
静岡県から来た高校教諭(56)は野球部監督駆け出しの1980年当時にもらった手紙の返信を額に入れていた。
恋や勉強に悩んだ当時北海道の女子高生ももらった返信を「宝物」と抱いていた。阪急初優勝の67年、西京極球場グラウンドになだれ込み、胴上げに加わった男性(65)は受付で「これを監督に」と当日の入場券を手渡した。遺族の長女や次女は「父も喜ぶでしょう」と棺に入れた。
西本さんはよく話していた。「こつこつと努力していれば、いつか報われると証明したかったんや」。弱小の「灰色」阪急、「お荷物」近鉄をともに初優勝に導いた。人々はその姿に自分を重ね合わせ「いつかは」と日々の仕事や生活を頑張ってきたのだ。夢を与えた功績こそ最も大きい。
年が明けると、四十九日法要で故郷の和歌山に帰る。生前最後の帰郷となった08年11月、子供のころカブトムシを捕った山を眺めて「俺も長いこと生きてきたなあ」と懐かしんだ。「おまえがいてくれたからこそ」と愛した妻・和子さん(08年7月死去)が眠る墓に納骨となる。