選手 | 年俸 | 前年比 |
---|---|---|
成瀬 | 16000 | △3000 |
[注]金額は推定=万円、前年比△はアップ、▼はダウン。
ロッテ・成瀬が11日、契約更改に臨み、3000万円アップの1億6000万円でサインした。今季は28試合に出場し12勝11敗。パ投手では唯一、200投球回をクリアし、左腕では球団史上最高額となった。来季について「負け数を減らし、競った試合に勝てる投球をしたい。(来季で4年連続となる開幕投手を)譲る気はない」と抱負。新選手会長に就任し、契約交渉中にはファンサービスの充実も球団側に訴えた。
ロッテ・成瀬が契約更改交渉を行い、3000万円増の年俸1億6000万円でサインした。
今季はパ・リーグで唯一200投球回をクリアし、チーム最多の12勝。ただ、8月以降は2勝7敗と失速し「(終盤は)他球団の選手に球が遅くなったと言われた。基礎筋力がないからシーズン終わりに体が小さくなる。筋肉を大きくしたい」。筋力トレーニングに10月から本格的に取り組み、60キロだったスクワットは90キロでも回数をこなせるようになったという。来季は4年連続開幕投手が確実で「他の投手に譲る気はない」と意気込んだ。
ロッテ・成瀬善久投手(27)が11日、QVCマリンで契約更改交渉に臨み、3000万円増の1億6000万円でサイン。球団の左腕投手としては、99年の河本育之の1億5000万円を超え、最高額。「1年間ローテーションを守ったことと、200イニング投球を評価してもらえた」と、納得の表情を浮かべた。
今季はチームトップタイの12勝をマーク。ただ後半戦に5連敗するなど11敗を喫し、3年連続の2ケタ敗戦だった。「基礎体力が低下し、シーズン終盤はへばってしまうことがあった」と反省。体調面の改善に向け、すでにトレーニングをスタート。10月末から週2回ジムに通い、個人トレーナーの指導の下、筋肉の増量に励んでいる。「変化を感じる。スクワットも今までは60キロでやっていたが、今は90キロでできるようになった」と、手応えを口にした。
来季の開幕投手の最有力候補。4年連続は、村田兆治(75〜82年、86〜90年)、小宮山悟(91〜94年)に続き球団史上3人目となる。「もちろん譲る気もないし、言われなくてもそこ(開幕戦)に合わせている」と意気込んだ。プロ10年目を迎える来季も、チームを牽引する覚悟はできている。
ロッテの成瀬善久投手が11日、千葉市のQVCマリンフィールド内で契約更改交渉を行い、3000万円増の年俸1億6000万円でサインした。チームトップの12勝を挙げたが11敗を喫しただけに、来季へ「負け数を減らしたい」と抱負を語った。
今季はパ・リーグの投手で唯一200投球回をクリアしたが、シーズン終盤は疲労の蓄積を痛感したという。オフは筋力トレーニングに励み「一から鍛え直したい」と意欲的に話した。新たに選手会長に就任し、交渉中にはファンサービスの充実を球団に訴えた。(金額は推定)
ロッテ成瀬善久投手(27)が11日、QVCマリンで契約更改交渉に臨み、3000万円増の年俸1億6000万円でサインした。
今季は4年連続2ケタ勝利となる12勝を挙げたが、後半戦の失速で11敗と黒星も多く、貯金を1つしかつくれなかった。それでもパ・リーグで唯一、200イニングを投げて先発ローテを1年間、守り抜いた。選手会長にも就任し「チームを常勝軍団にするためにも若手を引っ張らないと」と自覚を見せた。(金額は推定)
日本野球機構(NPB)は11日、加藤良三コミッショナーが13日(日本時間14日)に米ウィスコンシン州ミルウォーキーで大リーグ機構のバド・セリグ・コミッショナーと会談すると発表した。
WBCやNPBが14年に開催を目指す米国での開幕戦などについて意見交換を行う。日米コミッショナーによる会談は、10年の大リーグ球宴の際に米カリフォルニア州アナハイムで行って以来、2年ぶり。
プロ野球のコミッショナーを務めた川島広守(かわしま・ひろもり)氏が9日に急性心不全のため死去したことが11日、分かった。90歳。川島氏は中大法学部を経て、旧内務省に入省。1973年に田中角栄内閣の内閣官房副長官も務め、98年に第10代コミッショナーに就任した。2003年にはアマ野球との関係改善を目指す、プロ選手による高校生対象のシンポジウム「夢の向こうに」を実現。2006年に特別表彰で野球殿堂入りした。
プロ野球コミッショナーとしての川島氏の最大の功績は、断絶状態にあった日本高野連との関係改善だった。プロとアマチュアの溝を埋める努力を惜しまなかった。
2003年に高野連の脇村春夫会長とトップ会談して以降、信頼関係を維持した。退任前の04年1月、高野連とプロ野球側で「高校生には自由獲得枠を設けない」などのドラフトについての覚書を結んだ。
07年に一部の球団による裏金事件が明らかになり、良好な関係にひびが入りかけたときもこの覚書の精神を大事にしようと双方の組織が関係維持に努めた。田名部和裕・元日本高野連事務局長は、社会人選手の獲得でプロとアマの関係が悪化するきっかけとなった1961年の「柳川事件」を挙げ「柳川事件以降、最も大きな関係改善の象徴だと思う」としのんだ。
また、セ・リーグ会長時代の97年には、プロ野球選手の脱税事件が発覚。告発された選手が贖罪の意味を込めて行っていたボランティア活動を吹聴していると聞くと、そんな活動は「人知れずやるものだ」と烈火のごとく怒った。
会津藩などが薩摩藩、長州藩を中核とする新政府軍と戦った歴史の話を好んだ。「どれだけ時間がたっても仲良くできない人もいるんだ」。故郷の会津若松市を愛した川島氏は、曲がったことが大嫌いな硬骨漢だった。
プロ野球の第10代コミッショナーで、内閣官房副長官なども歴任した川島広守(かわしま・ひろもり)氏が9日に急性心不全のため都内の病院で死去していたことが11日、分かった。90歳だった。葬儀は近日中に親族のみで行う予定で、来年1月21日に都内のホテルで「お別れ会」が開催される。
福島・会津若松市出身の川島氏は中大法学部を経て旧内務省に入省。警察庁警備局長、同警務局長などを歴任し、73年には田中角栄政権の内閣官房副長官となった。84年からセ・リーグ会長を務め、98年にプロ野球コミッショナーに就任。日米球界の関係強化に積極的で、00年には日本での米大リーグ開幕戦開催に関わった。04年の退任まで20年の長きにわたり球界の発展に力を注いだ功績が評価され、06年に殿堂入りした。
最大の功績はプロアマ問題への粘り強い取り組みで、絶縁状態だった日本高野連との関係を大きく前進させた。03年1月に高野連の脇村会長とトップ会談。同年12月には現役プロ野球選手による高校球児や指導者を対象としたシンポジウム「夢の向こうに」を開き、現役プロ野球選手による高校生への直接指導が実現した。その後も、退任直前の04年1月、高野連との間でドラフトについての覚書を交わし、歴史的な調印として話題になった。
都内の川島氏の自宅近くに住む男性は「1ヶ月前までは、川島さんが散歩する姿を見かけた」と話した。