わたしはかもめ2015年鴎の便り(1月)

便

1月1日

2015年は熱く燃え上がるシーズンに![千葉日報]

2015年が幕を開けた。千葉ロッテマリーンズは今年のチームスローガンを「翔破 〜熱く!勇ましく!!泥臭く!!!」とし、リーグ優勝、日本一に向けて突き進む。

翔破とは「鳥が空を飛び通すこと。飛行機などが、全行程を飛び終えること。目的地までの長い距離を飛びきること」で、日本一という目的地を目指す千葉ロッテマリーンズに相応しいスローガンとして2013年から採用している。その過程には様々な試練が待ち受けているが、それを乗り越え、目的地までたどり着いた時、最高の喜びを感じる事が出来ると信じている。

これに加え、2015年は「熱く!勇ましく!!泥臭く!!!」という伊東勤監督の強い想いが込められている。このスローガンを作る上で指揮官は何度も「荒々しくも見えるような気持ちのこもったプレーを2015年シーズンはファンの方々にお見せしたいという思いを込めたい」と力説し、この言葉が加わる事になった。伊東監督は「全身で喜び、悔しさを表現し、見ていただく人の胸に、その気持ちのこもったプレーが伝わるようなチームでありたいと考えている」と2015年のチーム像を語る。

キャプテンの鈴木大地もこの言葉に大きく頷く。「監督がミーティングでいつも強くおしゃっている言葉です。それがスローガンに入っている事で選手たちも強くその気持ちを持つことが出来ると思う。熱い気持ちで、勇気を出して、そしてどんな場面でも泥臭い気持ちを持って戦いたい」と誓った。

伊東監督は「ファンの皆さん一緒に熱く、燃えましょう。そして我々は日々の練習の成果とマリーンズの誇りを胸に勇ましくプレーをします。また、どんな時も泥臭く次の塁、1点を狙っていく、1点を守り切るそんな野球をお見せできればと考えています」とファンに向けてメッセージを送った。新たなシーズン、千葉ロッテマリーンズは熱く燃え上がるような戦いを見せる事を約束する。

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Mドラ2田中『京大頭脳』で猛者斬り![デイリー]

6人のノーベル賞受賞者を輩出した京大から、史上初のプロ野球選手が誕生した。ドラフト2位でロッテに入団した田中英祐投手(22)。最速149キロの速球を武器に、関西学生リーグで通算8勝を挙げた右腕だ。2015年、屈強な肉体を持つ猛者がそろうプロ野球の打者に、一流頭脳がどう挑むのか。22歳の飾らない素顔に迫った。

≫昨年は激動の1年だった。
田中
「入学したときはこんなふうになるなんて全く考えられなかった。1年前も今の状況を想像していなかった。」
≫何がプロ入りへ背中を押したのか。
田中
「純粋にもっと野球がやりたかった。その気持ちが強かったというのが1番。」
≫内定を断った商社に進んでいたら、どんな人生だったか。
田中
「僕(の専門)はバケガク(化学)なんで、化学品の部門に配属されて世界中に行って、最後また日本に帰ってきて、という人生だったかも。」
≫勉強がない生活が始まる。
田中
「今まで野球だけに集中した期間がそんなにない。練習時間は中、高は平均1時間半、長いときで3時間半くらい。大学は3〜4時間。もうちょっとやってたかなあ。土日、夏休みが5、6時間。」
≫野球漬けになる。
田中
「より長く野球と向き合える。考える時間、費やせる時間も増える。1個1個のメニューも丁寧にできる。うまくなる環境はある。周りのレベルが高くなる分、学べることも多いと思う。」
≫昨年8月に阪神2軍と交流戦があった。
田中
「あの前に、ほとんど(プロ志望は)決まっていた。力試しという意味の試合だった。」
≫初めてプロの打者と対戦し、前半は真っ直ぐ主体で5失点。後半は抑えた。
田中
「最初はかなり力が入ってましたね。ああいうチャンスが巡ってきたところで、自分の力を出さないと。」
≫自信になった部分は。
田中
「同じ野球をやっているっていうイメージが持てた。僕らがやっている野球とプロ野球は別の競技みたいなイメージだったので、それがつながっただけでもすごい収穫。」
≫単に通用した、通用しない、ではない。
田中
「アウトを取れて、これを繰り返しできれば、それが成績につながる。そういう意味では、僕らがやっている野球と変わらない。」
≫鳴尾浜の雰囲気は。
田中
「京大を応援してくれた。空振りやアウトを取ると拍手。嬉しかった。“ホーム”に感じました。」
≫兵庫県出身。阪神ファンか。
田中
「阪神の試合はよく見ていました。めっちゃファンという訳でもないですけど。昨年は生で1度だけ見ました。(7月29日の)ヤクルト戦で先発は岩田さん。関西学生リーグの先輩です。」
≫目標の選手、好きだった選手は。
田中
「みんなが憧れるダルビッシュさんとか藤川さん。藤川さんの真っ直ぐとか、中学生ながらにすごいなあと。」
≫これからは常に「京大」がついて回る。
田中
「あんまり京大だからっていうのも意識しない。自分のために成功したいし、長く投げたい。」
≫旧帝大卒でも東大出身者は大成していない。先駆者になりたいということか。
田中
「単に長く野球をやりたいだけ。野球で活躍して取り上げられるようになって、実は京大だったんだよ、と言われるのが、僕の1番目指すところかな。」
≫プロ入りの決断にあたり、お父さんから「地獄を見てこい」という話をされた。
田中
「父の言った意味は、いいことばかりじゃなく、その下には努力、大変な思いがあるよということだ思う。どの世界でも、つらく苦しいことがいっぱいある。大変な思いをいっぱいするだろうな、というふうには考えてますね。地獄…インパクト強いですね(笑)。父から見たら、僕は全然、苦労してないように見えるみたい。」
≫2015年のビジョンは。
田中
「先にビジョンを考えたら、本当はここまでせなあかんのに全然足りてないとか、逆に、案外こんなもんでいいって考えたりする。実際にプレーし始めて自分のレベルを理解してから、目標を立てようと決めてます。」
≫すごく現実的。
田中
「言われますね。理屈っぽいんですかねぇ。感情でいったらいいところを論理的にいっちゃうので、めっちゃ面倒くさいらしいです(笑)。」
≫対戦を熱望する日本ハム・大谷を打ち取るイメージは。
田中
「必死に待ち球を外すんですかね。」
≫10年後の自分は。
田中
「目の前のことを1個1個やっていって、気付いたら10年たっているかも。何かしら形が見えているのかな。本当に活躍できていたら、すごく嬉しい。」
≫野球も勉強もない日は何をしている?
田中
「家でテレビとか映画を見たり。京大の図書館って、DVDがいっぱい置いてあって無料。ハリーポッター1から全部見直したり(笑)。ジブリでも何でもあります。」
≫普段はおしゃれしたり、今どきな格好はするのか。
田中
「それを悟られないように、ずっとジャージー姿で取材受けているんですけど(笑)。周りから、ちゃんとしろと言われます。あんまり服を持っていない。ジャージーが楽っすからね。ブランドとかも全然気にしません。」
≫よく食べるのか。
田中
「プロ野球選手みたいに肉をガーッと食べることはないかも。でも白いご飯はよく食べるし、納豆が好き。」
≫関西人なのに?
田中
「食べますよ。納豆、好きッス。」
≫納豆は頭が良くなる食べ物。
田中
「納豆で頭良くなるんだったら苦労しないですよ(笑)。」
≫英語は得意か。ドラフト1位の中村(早大)が教わりたいと言っていた。
田中
「教えられるレベルにはない。日常会話もたどたどしい。(京大の)2次試験は英・国・数・理でした。でも国語とか比率が低かったので(勉強を)やらなかった。古典とか全然できないです、僕。」
≫あなたの「できない」はレベルが違う。
田中
「最近、できないこと分かりました。(ゲームの)『太鼓の達人』が全然できない。(画面の指示を)見て叩くんですけど、レベル1とかの簡単なのもできない(笑)。」
≫リズム感がもう1つ?
田中
「音楽系は苦手。カラオケの点数は80点は出るので、普通くらいやと思います。野球部のみんなで遊びに行って、太鼓の達人が全然できなくて。バカにされました(笑)。」
≫神様は万物を与えない。
田中
「今年、太鼓の達人、めっちゃ練習してるかもしれないですよ(笑)。」

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元ロッテ・清水氏、球界に恩返しでNZ代表コーチ、ミスターのねぎらいの言葉が原点[サンスポ]

◇「伝道者であれ」に背中押され

≫手術した左膝は1年以上もリハビリを続けても回復の兆しがなかった。プロ野球人生に終止符を打つという現実が脳裏によぎってから考えていた第二の人生。ラグビー大国で野球人口はわずか6千人という南半球のニュージーランドで代表コーチになる道を踏み出した。
清水氏
「3月25日。東京都内で記者会見し、現役引退を正式に表明しました。野球人生の原点は走って体力をつけ、下半身を安定させることでした。走ることができなくなり、限界でした。未練はありましたが、悔いはなかったです。ただ『引退します』というだけの会見にせず、その後の進むべき道を表明したかったので、会見ではニュージーランドへ行くことにフォーカスしてもらえるように意識して話しました。」
≫〈海外に目を向けたきっかけがある。
清水氏
「リハビリ期間中にスポーツ番組のコメンテーターとして呼んでいただいたときが、第3回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の時期と重なりました。ところが、大会参加国の名前を聞いても、その国の野球事情が全くピンと来ませんでした。野球選手なのに野球の世界のことが全然分かっていない。もっと勉強しないといけないなと思いました。」
≫参加国の中に世界ランキング28位のニュージーランドがあった。
清水氏
「ラグビーのイメージしかなかったのですが、調べると、野球に似たクリケットやソフトボールの強豪国でもありました。3人の子供達に英語を身につけさせてあげたいという気持ちもあったので、いっそのこと、この国に移り住んで野球の強化、普及に携わることで野球界に恩返しができないかと考えたのです。それともう1つ。2004年のアテネ五輪に出場したことが原点になっています。銅メダルを獲得して帰国した際、脳梗塞で現地には行けなかった監督の長嶋(茂雄・巨人軍終身名誉監督)さんが代表チームをねぎらってくれました。そのとき、『野球の伝道者であれ』と言っていただきました。あの言葉を自分なりに解釈し、野球の途上国で強化と普及に携わろうと背中を押してもらいました。」

(産経新聞[話の肖像画]2014年7月8日掲載/聞き手・田中充)

清水直行(しみず・なおゆき)
1975(昭和50)年11月24日、京都府生まれ。日大、社会人野球を経て2000年に逆指名でロッテに入団。02年から5年連続2けた勝利を挙げるなどエースとして活躍し、05年は31年ぶりの日本一にも貢献。10年に横浜(現DeNA)へ移籍し、12年シーズンまでプレー。通算成績は105勝100敗、防御率4.16。銅メダルを獲得した04年アテネ五輪、優勝した06年の第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表メンバー。今春からニュージーランド野球連盟ゼネラルマネジャー補佐兼同国代表統括コーチを務める。

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