≫わたしはかもめ≫2015年≫鴎の便り(1月)
鴎の便り
1月3日
昨季のパ・リーグ新人王、石川が3日、帰国中の上原(レッドソックス)に弟子入りすることになった。今月中に東京ガスのグラウンドで行う自主トレで“合体”。「機会があれば上原さんのスプリット(フォークボール)を教わりたい」と意欲をみせた。「昨年もお会いしたのですが、練習を見ているだけでも参考になりました。今度はお話ができれば」。マリンの五右衛門とくれば、盗めるものは何でも盗む!?
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新人王のロッテ・石川に、レッドソックス・上原に弟子入りするプランが3日、浮上した。
自主トレを行う予定の古巣・東京ガスのグラウンドを上原も使用しており、「色々と話を聞いてみたい。スプリットの投げ方とかを聞いてみたいです」。昨季は直球とシンカーが主体だったが、“2年目のジンクス”打破へ投球の幅を広げたい考えだ。
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ロッテのドラフト4位・寺嶋が母校・創価大で先輩たちと汗を流し「楽しみ半分、不安半分。先輩方もみんな頑張っているので負けないようにしたい」と気持ちを新たにした。
2学年上で大学時代にバッテリーを組んでいた小川に対しては「対戦したい人。(攻略のイメージは)ある程度は…」とニヤリ。7日に入寮し、本格的なプロ生活がスタートする。
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昨季パ・リーグ新人王のロッテ・石川が、レッドソックス・上原に弟子入りを志願した。
オフの自主トレ場所が同じそうで「昨年は挨拶だけさせてもらった。今年もお会いできれば、色々聞いてみたい」。変化球の持ち球はカーブ、シンカー、スライダーで、2年目の今季は新球種を加えることを視野に入れている。「もう1つ変化球を投げられれば。例えばフォークとか」。上原の代名詞といえばスプリットだけに「機会があれば(投げ方を)教わりたい」と目を輝かせた。
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京大初のプロ野球選手になったロッテのドラフト2位・田中英祐投手(22)が本紙のインタビューに応じた。工学部で学業に追われた野球との「二刀流」生活。厳しい環境の中で「考える力」を養い最速149キロを誇る投手に成長した。京大生だったからプロ野球選手になれたことを明かした。
- ≫京大初のプロ野球選手として、時の人になった。注目度は凄い。
- 田中
- 「想定はしていましたけど、ここま でとは…。まだ実際にプレーを見てもらった訳ではないですから。」
- ≫昨年12月25日には卒論の中間発表を終えたが、国立理系学生の文武両道生活はハードだったと聞く。
- 田中
- 「卒論よりも3年生の時がめっちゃきつかったです。実験をやりながらのリーグ戦が特に。」
- ≫どんな生活サイクルなのか。
- 田中
- 「火、水、木曜日が実験。翌週の火曜日にリポート提出があるんです。リポートは木曜日に取りかかって一晩かかっ たり2晩かかったり。24時間やってい る図書館があるんで金、土曜日にめっちゃ頑張っていました。」
- ≫練習時間は。
- 田中
- 「試合前日の金曜日にキャッチボールしたり軽く投げる程度。ほぼボールに触れずに試合で投げるので肉体的にも精神的にもつらかった。」
- ≫その3年時に好成績を残した。秋季リーグ戦では防御率1.06でベストナインに選ばれた。
- 田中
- 「試合ではめっちゃ緊張しましたよ。でも、ちゃんと自分の仕事はしたかった。エースの役割を果たすという責任感で投げていました。」
- ≫小学時代は体操で五輪出場を目指した。
- 田中
- 「父が“団体競技の方が社会に出た時に役立つ”と行って野球に絞りました。納得はしていなかったけど、半ば強制的にでした(笑)。」
- ≫中学受験のために猛勉強したのか。
- 田中
- 「小6になってから勉強時間がめっちゃ長くなりましたね。朝9時から夜9時まで塾で勉強していた日もあって。あれはめちゃくちゃでした。」
- ≫所属していた塩市少年野球団は。
- 田中
- 「事実上の休部状態。勉強に専念するために(両親に)強制的に辞めさせられました。」
- ≫中高一貫の進学校・白陵に進学。その頃から理系だったのか。
- 田中
- 「昔から考え方が理系っぽくて、理屈っぽいって言われていましたね。納得しないと嫌な性格なので。先生にも、“この問題は違う式で解いちゃ駄目なんですか”って食ってかかってました(笑)。」
- ≫大学受験の勉強を本格的に始めたのはいつ頃?
- 田中
- 「高2の冬ぐらいです。高3になってからは家で夜中の0時ぐらいまで勉強していました。」
- ≫元々京大工学部を志望していたのか。
- 田中
- 「最初は東大を目指していたんですよ。高校の監督から“絶対に東大に行け”って言われていたんです。六大学のレベルは高いし、神宮球場でやれるという理由で。」
- ≫なぜ京大に。
- 田中
- 「夏の大会が終わった直後の進路相談で、東大は厳しいということになって。京大は合格ラインだったので。」
- ≫1番の特徴は。
- 田中
- 「考えることですね。好きとか嫌いとかじゃなくて、元々考えてしまうタイプなので。」
- ≫考える習慣は野球に生かされているのか。
- 田中
- 「長い時間をかけて数をこなす練習はできない環境だった。だからこそ、考えるということにたどり着いた。」
- ≫具体的に。
- 田中
- 「自分の中で“何で”ということを繰り返します。球が走っていないとしたら、疲れているのかな?体のどこが使えてないのかな?どこを鍛えれば良くなるのかな?って繰り返すことで、問題の根本の部分に行き着く。」
- ≫相手打者の攻略も理系思考?
- 田中
- 「それはないですよ(笑)。普通のことだけど、あらかじめ各打者のデータを頭に入れて攻め方を決めてから試合に入る。2割ぐらいはその場で考えて投げる。」
- ≫間もなく卒業。京大に入って良かったか。
- 田中
- 「プロでやれることになったのも京大だったから。この環境だからこそ、“考える力”が1番の武器になった。」
- ≫「ロッテ・田中」の目標は。
- 田中
- 「具体的な目標は入ってから決めたい。ただ、1日でも長くプロの世界で活躍したいですね。」
- ≫どんな投手になりたいか。
- 田中
- 「そうですね〜。その質問をされた人が“田中英祐みたいな投手になりたい”って答えてくれる選手ですかね(笑)。」
- 田中英祐(たなか・えいすけ)
- 1992年(平4)4月2日、兵庫県高砂市生まれの22歳。米田西小4年から「塩市少年野球団」で野球を始め、三塁手、外野手、捕手。白陵中で投手に。白陵高では1年秋からエース、2年夏の兵庫大会3回戦進出が最高成績。現役合格した京大では1年春から登板して通算8勝31敗。50メートル走6秒7、遠投110メートル。家族は両親と弟、妹。1メートル80、75キロ。右投げ右打ち。
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ロッテ・井口資仁内野手(40)が3日、箱根駅伝で優勝した母校・青山学院大に祝福のメッセージを送った。
1996年度卒の井口は「母校の歴史的瞬間はテレビでずっと観戦していました。後輩達の素晴らしい走りに勇気づけられたとともに、感動いたしました。本当に強かったですね」と、球団を通じてコメントした。
自身は今季、40歳のシーズンを迎える。「2015年はいいニュースから始まり、自分も刺激を受けました。負けないように、マリーンズの優勝のため、精一杯頑張ります」と気持ちを引き締めていた。
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ベネズエラのウインターリーグに参加している元ロッテの渡辺俊介(38)が3日、自身のブログで帰国すると報告した。
所属するレオネス・デル・カラカスがプレーオフ進出決定戦に敗れたためで、他のチームから補強ドラフトでの加入の誘いもあったが、来季へ向けた休養を優先させた。
「私は飛行機等の準備が整い次第帰国します」とした渡辺は、「アメリカ・アトランティックリーグでもそうでしたが、選手やコーチ、スタッフとの出会いと別れのスピードが速い分、ほとんどの選手が出会った瞬間からお互いを理解しようと積極的にコミュニケーションを取り合います」とベネズエラのウインターリーグを振り返った。
仲間同士、「またどこかで会うだろう!good luck!!」と別れを告げて、新天地へ出発するというが、渡辺自身の去就は決まっていない。「次の野球の場所はまだ分かりませんが…」と微妙な立場であることを明かした。
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◇逃げも隠れもしない、それがエース
- ≫現役時代を振り返ると、プロ野球人生の扉が開いたのは2000年だった。
- 清水直行氏
- 「プロの怖さを思い知ったのは、敵地での開幕戦に敗戦処理で上がったプロ初登板です。今でも思い出すだけで緊張がよみがえるほど足が震えました。大歓声の雰囲気にのまれて、呼吸を整えるのも大変で、捕手までの距離感すら合いませんでした。そんな経験は初めてでした。そして、何よりも相手打者の目の色がオープン戦とは別人のようでした。スイッチが入ったときのここ1番にかける気迫。これがプロとアマチュアの差だと実感しましたね。」
- ≫3年目の2002年から5年連続2ケタ勝利。9年連続で規定投球回数もクリアし、エースと呼ばれた。
- 清水直行氏
- 「プロに行くと決めたときに心に決めたことがありました。それは、いつか球界で1番の投手になってやろうということでした。当時のパ・リーグは実力派ぞろい。西武には米大リーグに移籍する前の松坂大輔(西武)がいて、ダイエー(現ソフトバンク)に斉藤和巳、チームの先輩にも黒木知宏さん、ほかに外国人投手もたくさんいました。私は剛速球タイプではなく、絶対的なウイニングショットもありません。」
- ≫目指したのは安定感だった。
- 清水直行氏
- 「カットボールやスプリットなどをコーナーに投げ分け、とにかく試合を作ることです。そのことを念頭にマウンドに上がりました。セットアッパーとクローザーに8、9回を任せるとして、まず7回を3点以内に。そうすれば試合を作れます。シーズンを通してそういう投球を続ければ規定投球回数にも届きます。結果を積み重ねることで評価される投手になろうと。そのためにはシーズンを通じて安定感が求められます。遊びたいときや疲れて練習に身が入らないときももちろんありました。でも、サボったときは翌日に必ずその分も汗を流しました。」
- ≫2005年には31年ぶりのチーム日本一。
- 清水直行氏
- 「日本一以上の達成感は日本で野球をしている以上、得られないでしょうね。チームメートはもちろん、ファンや球団オーナー、スタッフが一緒になって喜びを分かち合います。個人の成績とは別次元の嬉しさがありました。」
- ≫ロッテのエースと呼ばれた。エースとは。
- 清水直行氏
- 「逃げも隠れもしない。それがエースです。調子の良し悪しも相性も関係ない。任された試合でチームを勝たせることができるか。そのことに尽きるでしょう。開幕戦から始まり、シーズンの最初はローテーションもエース同士で投げ合います。そして、終盤の大事な試合もやはりエース同士がチームの命運をかけて戦う訳です。エースが相手のエースを食わないと、チームは上にはいけない訳です。そういうときにどういう投球を背中で見せていけるか。先に点を取られないように、もし取られても最少失点で粘っていく。しんどいですが、楽しくもあります。その中で勝ち星を伸ばしていくことが、エースの醍醐味でしょうね。」
(産経新聞[話の肖像画]2014年7月10日掲載/聞き手・田中充)
- 清水直行(しみず・なおゆき)
- 1975(昭和50)年11月24日、京都府生まれ。日大、社会人野球を経て2000年に逆指名でロッテに入団。02年から5年連続2ケタ勝利を挙げるなどエースとして活躍し、05年は31年ぶりの日本一にも貢献。10年に横浜(現DeNA)へ移籍し、12年シーズンまでプレー。通算成績は105勝100敗、防御率4.16。銅メダルを獲得した04年アテネ五輪、優勝した06年の第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表メンバー。今春からニュージーランド野球連盟ゼネラルマネジャー補佐兼同国代表統括コーチを務める。
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