ビールの売り子6人で結成したロッテの異色アイドルユニット「マリーンズ カンパイガールズ」にテレビCMへの出演オファーが届いた。
13日に活動を開始したばかりだが喉のケアに効果がある「カラオケボイスドリンク」のCMキャラクターに起用されることが決定。6月中にも九州エリアの地上波で放映予定。放送エリアが拡大する可能性もあるという。
さらに、人気バラエティー番組などの出演や雑誌の取材依頼が集まり、早くもブレークの兆し。リーダーの今井さやかは「反響の大きさにビックリ。CM出演、めちゃ嬉しい!」と大喜びしていた。
ロッテは14日、2005年の日本一から10周年を記念したるイベント「ブラックブラック2005―2015」を今月30日のDeNA戦(QVCマリン)で開催、05年当時の勝利の方程式として「YFK」の名称で親しまれた薮田安彦氏、藤田宗一氏、小林雅英一軍投手コーチの3人が始球式を行うと発表した。
05年に51試合登板で7勝4敗2S、防御率3.07の成績を残した薮田氏は「このような機会に呼んでいただき、大変光栄に思っています。マリンのマウンドに上がるのは引退した13年の引退試合以来。3人で一緒に上がれるのが本当に楽しみです」。同じく45試合登板で1勝4敗、防御率2.56だった藤田氏「3人で会うのは13年にヤブ(薮田)が引退した際に行った慰労の食事会以来です。とても楽しみです。そして何よりもこのような機会を頂き、本当に嬉しく思っています。ファンの皆様と久しぶりにお会いできることが、とても楽しみです」とコメント。
46試合登板で2勝2敗29S、防御率2.58、「幕張の防波堤」の異名で守護神として活躍した小林雅英1軍投手コーチも「05年の懐かしい想い出は、今も自分の大切な宝物です。3人でつないで勝利した時の充実感は今も忘れません。5月30日、ファンの皆様の前で3人でマウンドに上がれるのを今から楽しみにしています」と再会を楽しみにしてる。
始球式では薮田氏(Y)、藤田氏(F)、小林雅投手コーチ(K)の順番で1球ずつ投げる予定。なお、当日は来場者全員に2005年ビジターユニフォームをモチーフにしたTシャツ&タオルセットを配布するという。
ロッテと総合エンターテインメント企業「エイベックス」が共同プロデュースする球界初の売り子アイドル「マリーンズ カンパイガールズ」へのテレビ、CMの出演依頼が殺到していることが14日、明らかになった。
8月30日までにビール3万杯を売れば写真集発売を目標に、前日13日から本格始動したばかり。だが球団関係者が「反響の大きさに驚いている」と話すように、早くものどケアドリンク「カラオケボイスドリンク」のテレビCM出演が決定した。
そのほかにもバラエティー番組を含めたテレビ出演、さらに雑誌取材などの依頼が舞い込んでいる。関西で売り子の経験もある外塚歩は「メンバー唯一の関西人として、どんどん存在感を出していきたい」と意気込んだ。
ロッテは14日、交流戦の5月30日のDeNA戦(QVC)で、05年の日本一から10周年を記念したイベントの一環として優勝時のリリーフトリオ「YFK」の3人による始球式を行うと発表した。
05年に31年ぶりの日本一達成当時、チームの象徴であったのが勝利の方程式として「YFK」の愛称で親しまれた薮田安彦氏、藤田宗一氏、小林雅英氏(現1軍投手コーチ)の3投手。その豪華リレーが、復活する。
当日は3人が順番に1球ずつの始球式を行う予定。小林雅英1軍投手コーチは「05年の懐かしい思い出は、今も自分の大切な宝物です。ファンの皆さんの前で3人でマウンドに上がれるのを、今から楽しみにしています」とコメントした。
当日は、来場者全員に05年のビジターユニホームをモチーフにしたTシャツ(フリーサイズ)とタオルセットが配布される。
05年ロッテ日本一の勝利の方程式YFKが復活する。5月30日のDeNA戦(14時試合開始)で始球式を行うことが決まった。
薮田安彦氏は「マリンのマウンドに上がるのは13年の引退試合以来」と楽しみにしている様子。藤田宗一氏は「3人で会うのはヤブが引退した時の慰労の食事会以来です」と話した。小林雅英1軍投手コーチは「3人でつないで勝利した時の充実感は今も忘れません」と思い出に浸った。当日は薮田−藤田−小林の順に1球ずつ投げる予定だ。
ロッテは5月30日のDeNA戦(QVCマリン、午後2時開始)で、日本一に輝いた2005年当時の勝利の方程式、「YFK」の3投手が始球式を行うと発表した。
薮田安彦氏(41)は「このような機会に呼んでいただき、大変光栄に思っています。マリンのマウンドに上がるのは引退した2013年の引退試合以来。3人で一緒に上がれるのが本当に楽しみです」。藤田宗一氏(42)は「3人で会うのは13年にヤブ(薮田)が引退した際に行った慰労の食事会以来です。とても楽しみです。そして何よりもこのような機会を頂き、本当に嬉しく思っています。ファンの皆様と久しぶりにお会いできることが、とても楽しみです」。小林雅英1軍投手コーチ(40)は「05年の懐かしい思い出は、今も自分の大切な宝物です。3人でつないで勝利したときの充実感は今も忘れません。5月30日、ファンの皆様の前で3人でマウンドに上がれるのを今から楽しみにしています」とコメントした。
当日は05年の日本一から10周年を記念して、「ブラックブラック2005−2015」と銘打ったイベントを開催。来場者全員に05年ビジター・ユニホームをモチーフにしたTシャツ(フリーサイズ)&タオルセットを配布する。
球界初となる、ロッテの売り子アイドル・グループ、マリーンズ・カンパイガールズ6人の初日(13日)売り上げが発表された。
内訳はリーダーの今井さやか=240杯、大宮愛香=154杯、前田美里=114杯、平山美紗樹=77杯、朝倉なおこ=76杯、外塚歩=73杯。6人で計734杯を販売した。
リーダーの今井は「6人で800杯を目標にしていただけに残念です。今日(13日)は気温が上がるといわれていましたけど、思った以上に気温が上がらず、寒かったので苦戦しました。それでも『テレビ、新聞を見たよ』とお客さまに声を掛けていただいたり、『頑張って』と励ましてもらい、とても嬉しかったです。これからも売り子とアイドル活動の両方で頑張りたいです。次のホームゲーム(5月29日〜31日)は交流戦ですが、6人で目標を達成できるように。それでは最後に今日もみんなで、う〜、ぐびぐび!マリーンズ・カンパイガールズです!!」と声を張り上げた。
8月31日までの本拠地主催試合で、6人合計3万杯を売り上げた場合、グラビア写真集を出版予定だという。
母国・メキシコの超B級グルメ菓子「タマリンド」を愛して止まないロッテの助っ人、ルイス・クルーズ内野手(31)の打撃が好調だ。
米大リーグのスカウティング・リポートによると、クルーズの評価は『守備◎&打撃△』。来日1年目の昨季は“そのまんま”だったが、今季はまったくの別人。13日終了現在、打率.282、34打点、8本塁打。特に得点圏打率.444が示す通り、無類の勝負強さを発揮している。
「日本の投手に慣れてきたことも大きいが、2年目に備えてきた成果だ。昨年の11月中旬ぐらいには本格的なトレーニングを始めていたからね。タマリンド!!」。
5月9日、西武戦(QVCマリン)の試合前、虫歯が欠けて激痛に見舞われ、歯科医院に駆け込むアクシデントはあったが、全般的に体調管理は万全のようだ。
一方で、技術的には立花打撃コーチがこう解説してくれた。
「突っ込まなくなったよね。たまに悪いクセが出るときは、その都度、注意している。右足の軸でギリギリまで踏ん張るように言っているから、『右の股が痛い…』とよく泣いているよ」。
米大リーグ時代は、速球に苦しんだというクルーズ。自ずとバットの“始動”は早くなった。ところが、日本の投手はゲップが出るほどの変化球攻め。それを同じタイミングで迎えに行けば、当たる訳がない。クルクルとバットが回ってしまったのは道理だ。この部分を修正、つまり呼び込めるようになったのが今季のクルーズを語るにおいての劇的変化だ。
家族のサポートも大きい。昨季はシーズン途中に来日した夫人(ミセス・タマリンド)と息子2人(Jr.タマリンド&リトル・タマリンド)は開幕前に合流。9月いっぱいまでは日本に滞在する。また、息子達は千葉市内の外国人学校に通い、学業成績は優秀。専属の田原通訳によると、「クルーズの1番の自慢」らしい。
そんなクルーズは、約1ヶ月半で解雇された米球団「元ヤンキース」の肩書を嫌う(2013年7月3日契約→8月19日放出)。自身のキャリアは、12年にメジャーで78試合に出場した「元ドジャース」。誇りは西海岸にある。
「でも、いまはドジャーブルーから、ロッテのマリンブルーだ。タマリンド!!」。ちなみに本拠地球場もQVCタ“マリン”ド!?
「YFK」が再結成される。ロッテは14日、5月30日のDeNA戦(QVC)で薮田安彦氏(41)、藤田宗一氏(42)、小林雅英氏(40=現ロッテ投手コーチ)が始球式を行うと発表した。2005年の日本一から10周年を記念し、当時、勝利の方程式「YFK」を形成した3人がマウンドに立つ。
当日は3人が1球ずつを投げる予定。来場者全員に2005年のビジターユニホームをモチーフにしたTシャツとタオルのセットを配布する。
3人のコメントは以下。
横浜高OBのロッテ・涌井秀章投手(28)が14日、同高の渡辺元智監督(70)が今夏限りで退任することについて、QVCでの全体練習後にコメントした。「もう70歳ですし、体調を崩されたりしていたので、さみしい気持ちより無理だけはして欲しくないと思っていました。最後は後輩達が監督を甲子園に連れて行って、送り出して欲しいです」と話した。
涌井は2003年センバツで成瀬(ヤクルト)と2枚看板を形成して準優勝。04年夏にも甲子園に出場した。「(元部長の)小倉さんと一緒にプロに導いてくれた人。一生の恩師だと思います」と感謝を口にした。
高校野球の甲子園大会で春夏通じて5度の優勝を誇る横浜(神奈川)の渡辺元智監督(70)が、今夏かぎりで退任することが14日、分かった。健康上の問題が理由で、後任は平田徹部長(32)が務め、渡辺氏は終身名誉監督となる。98年に松坂大輔投手(34)=現ソフトバンク=を擁して春夏連覇を達成して歴代3位タイの甲子園通算51勝をマークした名将は、最後の夏に全力を振り絞る。
甲子園5度優勝の名将、渡辺監督がこの夏かぎりでノックバットを置く。歴代3位の甲子園通算51勝。松坂、涌井、筒香らを育て、プロ野球に現役19人を含め50人を超える教え子を送り出した名伯楽が決断を下した。
「監督としてはグラウンドに立ち続け、責任を果たさなければと思っているが、昨春から腰痛と、めまいや耳鳴りなんかで厳しい時があった。(退任の意向を伝え)学校からは総監督というような話で、今の1年生まで見てやりたい」。
現在、検査入院中の渡辺監督は、サンケイスポーツの取材に勇退を決断した胸中を明かした。
1968年に最初に監督に就任し、73年のセンバツでエースの永川英植投手(元ヤクルト)を擁して初出場初優勝。98年に松坂らを擁して春夏連覇を達成し、黄金時代を築いた。野球を通じた人間教育には定評があり、技術だけではなく、座右の銘としている「目標がその日その日を支配する」(社会教育家・後藤静香=せいこう=の詩の一節)など、授業、私生活から選手の心を鍛える指導を行ってきた。
この間も、病気と無縁ではなかった。97年に心房細動、2004年に脳梗塞、その後前立腺系やメニエール病の疑いなどで休養したこともあった。そのたびに克服し、一昨年の夏、昨春のセンバツでは、孫の佳明(現明大1年)との祖父、孫の同時出場も果たし、試合前のノックも力強かった。
だが昨夏かぎりで、長年名コンビを組んできた元部長、コーチの小倉清一郎氏(70)が同校を離れた。就任42年目の今年に入ると精神的な負担も大きくなり、体力の限界を意識するようになった。5月の連休中に学校に退任の意向を伝えた。再考を促されたが渡辺監督の決意は固く、退任後も終身名誉監督として指導を継続することを条件に、学校も了承。平田部長に秋からの指揮を委ねることになった。
10日に千葉英和との練習試合で指揮を執った後、検査のため11日に入院した。来週には現場に復帰できる見込みで、ユニホームに袖を通して選手を鍛え上げる。甲子園開幕まであと83日−。心技体に野球人生で最もハードになることを覚悟して、70歳の渡辺監督は最後の夏に挑む。
勇退する渡辺監督の後任には、平田徹部長(32)が就任する。
同部長は「連休明けに(学校から)秋の大会から監督の職に就きなさいと言われました」と説明。コーチ時代から渡辺監督に10年仕え、合宿所で選手と寝食をともにすることもある。「私自身が教え子で、野球、人生で父親のように思っている存在です。渡辺監督イコール横浜、横浜イコール渡辺監督」と、渡辺イズムを継承する決意を示した。
横浜高OBで、ロッテの涌井秀章投手(28)が14日、同高の渡辺元智監督(70)が勇退することについて話した。
右腕はQVCマリンでの練習後に、「体調を崩されていたので、無理だけはして欲しくないと思っていました。要所でメールをいただいたり、気に掛けてもらいました。最後は後輩達が監督を甲子園に連れて行って、送り出して欲しいです。小倉(元部長)さんと一緒にプロに導いてくれた人。(2人がいなかったら)プロには入っていなかった。一生の恩師だと思います」と感謝の言葉を並べた。
甲子園で春夏合わせて5度の全国制覇を誇る横浜(神奈川)の渡辺元智監督(70)が、今夏限りで退任することが14日、明らかになった。高齢に加え、近年は体調不良に悩まされることが多く、ユニホームを脱ぐことを決意した。甲子園歴代3位タイの51勝を挙げている名将は今後、同校野球部の終身名誉監督としてサポート役に徹する。後任は01年夏の甲子園で4強入りした時の主将だった平田徹部長(32)。渡辺監督が最後の指揮を執る今夏の神奈川大会は7月11日に開幕する。
20歳の若さで母校・横浜のコーチになってから51年。半世紀にわたって高校球児を指導してきた渡辺監督が今夏限りで勇退する。痛めていた腰の状態が悪化したことなどを理由に「体力に自信がなくなった。選手に迷惑がかかる」と、4月下旬に学校側に退任を申し出た。11日に検査入院し、約1週間で退院する予定で「今後も後任監督のサポートや生徒の指導に携わっていきたい」と話しているという。
27度の甲子園出場で通算51勝。68年に監督に就任すると、東海大相模の原貢監督に何度も甲子園出場を阻まれた。それでも73年のセンバツでエース永川(元ヤクルト)を擁して初出場初優勝を成し遂げ、80年は愛甲(元ロッテ)が投打の柱となって夏の甲子園初制覇。98年には松坂(ソフトバンク)ら4人がプロ入りした最強チームで臨み、準々決勝でPL学園と延長17回の死闘を制するなど、史上5校目の春夏連覇を達成した。公式戦は前年秋の新チーム結成から無敗の44連勝という不滅の記録を残した。
選手が毎年入れ替わる高校野球で70、80、90、00年代と各世代で日本一に導いた、ただ一人の監督。その裏には度重なる苦労があった。コーチ時代の指導初日には血気盛んな選手から「顔貸せや」とすごまれても、一歩も引かず、ノックの雨を降らせた。野球部から逃げ出さないように自宅に選手を住み込ませ、家族を養うための生活費をパチンコで補う暮らしを強いられたこともあった。
76年から関東学院大に通い、教員免許を取得。先生として教壇に立つことで生徒への接し方も変わった。「時代とともに指導方法は変わる」という方針の下、最近では携帯電話のメールなどを使い、選手との距離を縮めていた。控え部員への配慮も欠かさず「人生の勝利者たれ」、「目標がその日その日を支配する」という言葉を贈ってきた。プロ入りした教え子は50人を超えた。
89年には胃潰瘍で長期入院し、2年間部長を務めた時もあった。04年には脳梗塞で倒れ、近年はストレスから腰痛やメニエール症候群も発症した。前部長の小倉清一郎氏が昨年限りで退任。名コンビが解散したが、渡辺監督は18年の夏の甲子園100回大会へ向け「もう1度、春夏連覇できるチームをつくる」ことを目標に掲げていた。だが、満足にノックを打てなくなる程、体力は限界に達していた。激戦区の神奈川を勝ち抜き、甲子園を沸かせた名将。気力を振り絞り、最後の夏の指揮を執る。