ロッテが今季初のサヨナラ勝ち。同点とされた9回、1死から岡田が右中間三塁打を放ち、暴投で決勝点を奪った。涌井が8回1失点の好投。オリックスは2点を追う9回に4安打で追い付いたが、救援の平野が踏ん張れなかった。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | R | |
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オリックス | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | 3 |
千葉ロッテ | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1x | 4x |
価値ある一打でデビューを飾った。銃弾所持による出場停止処分が解けたロッテのヤマイコ・ナバーロ内野手(28)が「6番二塁」でスタメン出場。同点で迎えた8回1死二、三塁から、初安打、初打点となる勝ち越し2点二塁打を右中間に放った。抑えの西野が同点に追いつかれたが、9回に暴投サヨナラ勝ち。チームの連敗を2で止める活躍となった。
ナインに笑顔とハイタッチで迎えられた。殊勲打を放って戻ってきたナバーロは、一塁側ベンチ前で待ち焦がれていた「チームの輪」に加われたことを実感した。「長かったです。自分の中では10年に感じました」と、出場停止の4週間を表現した。初球のチェンジアップを捉えた。ネクストバッターズサークルで観察していた。「変化球が多いな」。狙い通りだった。
これも準備だ。「準備ができない人は結果を出せない」という信念がある。容貌には似合わず繊細であり、真面目だ。打撃練習の合間にゴロ捕球を続けている。この日もフリー打撃の直前に二塁の守備位置で行っていた。おかげで2回1死一塁では一、二塁間を襲う打球を好捕して併殺を演出し、涌井を救った。
もちろん打撃にも備えていた。ベンチの中ではデスパイネと意見交換をしていた。「彼の情報と僕が観察した情報を話し合っていたんだ」と明かした。この4週間も試合中はホテルや自宅でテレビ映像をチェックしていた。球場にいると「チームの輪」に入れない寂しさを感じるからだ。ただし研究はしていた。
4月23日がナバーロにとっては開幕戦だ。お立ち台では素直な思いをファンに告げた。「早く試合に出たかった。これからもファンと一緒に戦っていきたい。1人1人の気持ちが心強かったです」と応援に感謝した。ファンの輪にも飛び込んだ。もちろん支えてくれたのは家族だ。逮捕された時、真っ先に電話したのが母だった。気持ちを紛らわしたのは国にいる家族や友人との会話だった。
伊東監督にとっても待ちに待った合流だった。「1人入ると打線の重みが違うね。お客さんも入った中、緊張していたと思うが、活躍してくれた。守備もよかった」と評価した。首位争いに欠かせない助っ人が、遅れて登場した。
ロッテのヤマイコ・ナバーロ内野手(28)が価値ある一打でデビューを飾った。銃刀法違反容疑で逮捕(不起訴)され、球団に開幕から4週間の出場停止処分を科されていた。
「6番二塁」でスタメン出場。同点で迎えた8回は1死二、三塁から初安打、初打点となる2点二塁打を右中間に放った。試合は抑えの西野が同点を許したが、9回に暴投でサヨナラ勝ち。チームの連敗を2で止める活躍となった。
「早く試合に出たい気持ちでした。(4週間は)10年ぐらいに感じました」と言って笑った。初球のチェンジアップをとらえた。「変化球が多いと思った。スライダーを待っていたが、後ろに体重が残って、いいスイングができた。初球から打ててよかった」と貴重な一打を振り返った。
ロッテのナバーロ内野手(28)が、1−1で迎えた8回に一時勝ち越しとなる2点適時二塁打を放ち、デビュー戦で勝利に貢献した。
銃刀法違反容疑で逮捕(不起訴)され、球団に開幕から4週間の出場停止処分を科された助っ人にとっては、出場選手登録されたこの日、いきなりの名誉回復打となった。
「最高です。神様に感謝したいです。こういうゲームが出来てよかったです。自分は仕上げていました。ファンの声援が心強くて、ファンの皆さんに勝利を捧げたいと思います。焦りはなかった。試合に早く出たい気持ちが強く、今プレーできることが喜びに感じますし、ファンの皆さんと戦っていきたい気持ちでいっぱいです」。
お立ち台で「ナバーロ、ガンバーロ」と自らを鼓舞した。
ロッテは24日、「月1回のファン感謝デー」をコンセプトに行うマリンフェスタの第1回目を開催する。
来場者全員にマリンフェスタのレプリカユニホームを配るほか、試合前(11時15分から)、試合後にトークショーや握手会など様々なファンサービスを行う。また、特別ゲストとしてタレントの稲村亜美が12時58分から始球式を行う。また「神スイングを見たい!」という要望が多かったため、12時49分からは始打式も急遽、行うことになった(投手は未定。バットは中学生用硬式金属バット)。
ロッテは23日、オリックス4回戦(QVCマリン)に4−3で今季初のサヨナラ勝利。9回1死三塁からの相手暴投により、連敗を2で止めた。実弾所持による逮捕での出場停止処分が解けた新助っ人、ヤマイコ・ナバーロ内野手(28)が復帰即、「6番・二塁」で“弾丸スタメン”。同点の8回に来日初打点となる2点二塁打を放ち、自身の“開幕”を見事に白星で飾った。
やはりこの男は“特別天然記念物”だった。沖縄・石垣島キャンプ中についた「イリオモテ・ヤマイコ」の異名にさび付きはない。ヤマイコ・ナバーロのバットが勝負どころで火を噴いた。
「変化球が頭にあった。打ったのはチェンジアップだ。嬉しいね。本当に幸せな気分だ」。
同点で迎えた8回1死二、三塁。オリックス・岸田の初球、外角の135キロにバットを合わせた。2点二塁打。来日初出場&初打点の快音だ。直後、西野が追いつかれ“幻のV打”となったが、今季初となるチームのサヨナラ勝ちに大貢献。お立ち台ではお約束の「ナバーロ!! ガンバーロ!!」も飛び出した。
前日22日、出場停止処分が解け、この日即「6番・二塁」で“弾丸スタメン”。ナバーロは「この4週間、オレにとって10年間に感じた」と明かした。期間中、QVCマリンで1軍の試合を何度か観戦。しかし、試合終了まで見届けることは1度もなかった。
「自分が試合に出ていないことで出たくもなるし、むなしくなるんだ」。
落ち込む日々が続いた。それを支えたのが伊東監督であり、チームメート。「みんなが温かかった。感謝している」。そして故郷、ドミニカ共和国に残してきた恋人は現在、妊娠6ヶ月。8月にベビー誕生を迎える。「よく電話をした。支えになってくれた」。そんな周囲の気遣いにバットで応えた。
この日、首位・ソフトバンクが敗れ、チームはゲーム差なしの2位。ナバーロは「ファンの声援も心強い。これからどんどんチームに貢献したい」と言葉に力を込めた。あっぱれの日本デビュー戦。ナバーロ、ガンバーレ!!
ナバーロは2月21日、日本ハムとのオープン戦(名護)で2号ソロを放つ活躍。ところが試合後、宮崎へ移動のために向かった那覇空港での手荷物検査でショルダーバッグから実弾1発(後に2発だったと公表)が見つかり、銃刀法違反の疑いで沖縄県警に現行犯逮捕された。同23日に処分保留のまま釈放され、3月22日に不起訴処分となった。開幕から4週間の公式戦出場停止(イースタン・リーグとパ・リーグ)、罰金50万円の球団処分を受け、4月22日に処分が解けた。
暴投でサヨナラのホームを踏んだのは選手会長の岡田。9回1死から右中間三塁打を放ち、勝利を引き寄せた。「振りまけないように、バットを短く持って打席に立った。ナバーロも復帰してムードはすごくいいですね」。出場停止中のナバーロを影で励まし続け、2試合連続で救援に失敗した西野に対しても「これまで助けてもらった。落ち込んで欲しくない」とリーダーらしく締めた。
ロッテの涌井は8回7安打1失点と要所を締めた。ここ2試合はやや不安定なところもあっただけに、伊東監督は「自分の投球をしてくれた」と安心した様子だった。
1−0の7回、ボグセビックに同点ソロを許したが、その後の2死二塁では力のこもった投球で勝ち越しを許さなかった。落合投手コーチは「あそこから踏ん張れる。涌井にしか分からない勝負どころのにおいがある」と感心しきりだった。
ロッテの新外国人、ヤマイコ・ナバーロ内野手(28)が来日初出場となった一戦で、初安打初打点をマークした。出場停止処分が解除され「6番・二塁」で1軍デビュー。第3打席まで無安打だったが、1−1で迎えた第4打席、来日初安打初打点となる勝ち越しの2点二塁打を放った。
同点で迎えた第4打席、1死二、三塁と絶好の場面でナバーロに打席が回ってきた。相手先発・金子の前にノーヒットに終わっていたが、この回から登板した2番手・岸田の初球をとらえると、打球は低いライナーで右中間へ。これが勝ち越しの一打となり、来日初戦でいきなり大仕事をやってのけた。
ロッテはナバーロの一打で勝ち越したが、9回に守護神・西野がつかまり逃げ切れず。先発の涌井は8回を7安打1失点に抑える好投を見せたが、開幕5連勝はお預けとなった。
ロッテは、24日のオリックス5回戦(QVCマリン)で今季第1回目の「マリンフェスタ」を開催する。同イベントは「毎月1回のファン感謝デー」をコンセプトで実施するもので、来場者全員にマリンフェスタのレプリカユニホームをプレゼントするほか、試合前(午前11時15分〜)、試合後にトークショーや握手会など様々なファンサービスを行う。
また、特別ゲストとしてタレント、稲村亜美(20)が始球式に登場。ファンから「神スイングを見たい!」とする熱い要望が多数あったため、急遽、始打式も行うことになり、当日は日本ハム・大谷も真っ青の“二刀流”を披露する。
予想外の連続だった。ロッテは2点リードの9回に絶対的守護神・西野が追いつかれる大誤算。ところが、その裏に1死三塁から平野の暴投で今季初のサヨナラ勝ちだ。
デビュー戦となったナバーロも顎ひげをなびかせてベンチを飛び出す。ナインとタッチを交わし「選手として最高の気分」と喜びをかみしめた。
2月に銃刀法違反の容疑で逮捕され、開幕4週間出場停止の処分が明けた新助っ人は1−1の8回1死二、三塁から右中間へ一時勝ち越しとなる2点二塁打。「自分にとっての“開幕戦”で勝ててよかった」。出場停止中は1軍に同行して練習に取り組み、試合はホテルや自宅のテレビで観戦する日々が続いた。「(4週間は)10年間くらいに感じたよ」。デビュー戦でうっぷんを晴らし、お立ち台では新発売の「ナバーロタオル」を掲げる本拠地のファンに「ナバーロ、ガンバーロ」の決めぜりふを届けた。
この日、99〜03年の5年間ロッテを指揮した山本功児氏が肝臓がんのため、亡くなった。山本氏によって先発から抑えに転向し、日米通算234セーブを記録した小林投手コーチは「功児さんのおかげでこの立場でいられる」と振り返る。堀打撃コーチも「入団2年目に“若いからって遠慮するな”と怒られた。“気持ちで負けるな”という心構えを教わった」と感謝する。山本氏の教えを継承したコーチ陣が、ロッテを支えている。
ロッテのエース涌井は8回を7安打1失点。ボグセビックにソロを許したものの、最速148キロの直球をコーナーに集めて無四球でまとめた。
降板後の9回に2点差を追いつかれたため、勝ち星はつかず。自身初の開幕5戦5勝はならなかったが、「チームが勝ったので良かった」。3・4月度の月間MVPの有力候補に挙がっている。
この日、出場停止処分が解け「6番・二塁」で即スタメン出場したロッテ・ナバーロが、8回に一時は勝ち越しとなる適時二塁打。試合後のお立ち台で「最高。最初の試合でこういうゲームができて神様に感謝」と喜びを表現した。
2月に那覇空港で実弾を所持していたとして銃刀法違反の容疑で現行犯逮捕。球団から開幕4週間出場停止などの処分が科され、この日が待望の1軍デビューとなったが「焦りはなかったが、早く試合に出たいという気持ちが強かった」と振り返った。
「今はプレーできることに喜びを感じている。ファンの皆さんと一緒に戦っていきたい」と語り、最後は日本語で「ナバーロ、がんばる!」と宣言。マリーンズファンの大歓声を浴びた。
ロッテのナバーロが23日、出場停止の処分が解かれ、オリックス戦でデビューした。2回1死で迎えた初打席は金子の前に空振り三振。二塁の守備では2回1死一、二塁で一、二塁間の当たりを好捕し、併殺を完成させた。
ナバーロは2月に那覇空港で実弾を所持していたとして銃刀法違反の容疑で現行犯逮捕され、球団から開幕4週間出場停止などの処分が下されていた。
ロッテは23日、今季最初の「マリンフェスタ」となる24日のオリックス戦(QVCマリン)の詳細を発表した。
「月1回のファン感謝デー」のコンセプトで行う「マリンフェスタ」では、来場者全員にレプリカユニホームを配布。始球式は「神スイング」で話題のタレント・稲村亜美(20)が務めるが「神スイングが見たい」との要望が多数寄せられたため、急遽「始打式」も行うことが決まった。
ソフトバンクから今季移籍したスタンリッジは初の「マリンフェスタ」に興味津々。「私にとっては初めてのマリンフェスタになるけど、本当に楽しみだよ。青いユニフォームも、とてもクールだ。明日はエキサイティングな1日となるだろうね」と笑顔を見せた。
この瞬間を待っていた。9回、決勝の暴投を見届け、ナバーロは歓喜の渦に笑顔で加わった。「(お祭り好きな)ドミニカ共和国人なので、この輪に加われなくて悔しい思いをしていたんだ」。銃弾所持による出場停止から約2ヶ月。1軍デビュー戦で今季初のサヨナラ勝利に貢献した。
8回1死二、三塁。長いリーチでチェンジアップを振り抜き、右中間へ2点二塁打。一時勝ち越しの殊勲打に、右手を高々と掲げた。「(岸田は)変化球が多く、スライダーを待っていた。軸足が残っていたので対応できた」。2三振1四球で迎えた4打席目で本領を発揮した。守備でも、2回1死一塁から二ゴロ併殺を決めるなど「6番・二塁」の仕事は完璧だった。
反省と悔しさと歯がゆさが交錯した2か月間だ。開幕から練習だけの日々を過ごした。母国語のスペイン語が通じるのはデスパイネと通訳だけ。携帯ゲーム機で黙々と時間をつぶしていた男の救いは、選手会長の岡田と主将・鈴木の優しさだった。「一緒に頑張ろうと迎え入れてくれた」。だからこそ、早く役に立ちたいと思っていた。
守護神・西野で同点とされながら勝利を収め、連敗ストップ。伊東監督も「(ナバーロ加入で)打線に重みが出た」とうなずいた。初のお立ち台で「ナバーロ、ガンバーロ」と絶叫してファンの喝采を浴びたヒーローは、「これからは前を向いていくよ」と胸を張る。力強い助っ人が最高の形で開幕を迎えた。
涌井が8回7安打1失点と好投も、西野のセーブ失敗が響いて開幕5連勝はお預けとなった。
直球は最速148キロをマークし、イニング数も今季最長。7回、ボグセビックに同点弾を浴びたが、右腕は「チームが勝ったので良かった」と振り返った。落合投手コーチは「さすが涌井という投球ですね。(信頼は)今年も揺らぎません」とエースをたたえた。
タレントの佐野ひなこが23日、ロッテ―オリックス戦(QVC)で始球式を務めた。
2016年の「パルコ 夏キャンペーンモデル」を務める佐野は「イイコトいっぱい!<PARCOカード>スペシャルデー」と題したデーゲームに登場。目標としていたノーバウンドは達成できず「(ノーバンを)狙って大きなフォームで投げました。届かなかったのは悔しい。ぜひリベンジしたいです」と“再戦”を希望していた。
ロッテは、24日のオリックス戦(QVC)を今季の第1回「マリンフェスタ」として開催する。特別ゲストとしてタレント・稲村亜美が始球式に登場。「神スイングを見たい!」というファンの要望に応えて「始打式」も行うことになった。
マリンフェスタは「月1回のファン感謝デー」というコンセプトで開催され、来場者全員にマリンフェスタのレプリカユニホームをプレゼント。試合前後にはトークショー、握手会なども実施される。スタンリッジは、マリンフェスタ用のユニホームに大興奮。「私にとっては初めてのマリンフェスタになるけど、本当に楽しみだよ。青いユニフォームも、とてもクールだ」と話していた。
緊迫したゲームにあっけない幕切れが訪れた。9回1死三塁から平野の暴投でサヨナラ勝ち。ロッテベンチはお祭り騒ぎとなったが、歓喜の輪の中心はナバーロだった。
待ちに待った“開幕”。快音を放ったのは1−1の8回だ。1死二、三塁の好機。それまで2三振1四球だったが、岸田の初球チェンジアップを鮮やかに捉えた。打球は一時勝ち越しとなる右中間への2点適時二塁打。「本当に嬉しい。幸せな気分だ。最初の試合だから勝ちたかった。本当にうれしかった」と笑顔をはじけた。
2月21日に実弾所持で逮捕された。不起訴処分となったが、開幕から4週間の出場停止などの球団処分を受けた。「体調は完璧」ながら試合に出場できない日々。この2カ月間が「10年くらいに感じられた」という。
試合終了後、岡田とともに右翼外野席方面へ足を運び、ファンに挨拶。「ナバーロ・コール」とともに、「バンザーイ」の合唱も起こった。そしてファンに向かって叫んだ。「ナバーロ・ガンバーロ!」−。忘れられない開幕日となった。
実弾所持による出場停止処分が明けたロッテのヤマイコ・ナバーロ内野手(28)が、“復帰戦”で勝ち越しタイムリーを放った。「6番・二塁」で先発出場したナバーロは同点で迎えた8回、1死二、三塁で右中間を“弾丸ライナー”で破る適時二塁打で2走者を本塁へと導いた。
第1打席はフルカウントから空振りの三振。オリックス・金子の変化球中心の組み立てに、2度フルスイングしたが、バットに当てることすらできずに料理された。第2打席は1度もスイングすることなく、ストレートの四球。第3打席は見逃し三振だった。
ロッテは24日のオリックス戦(QVCマリン)で実施する「第1回月1回のファン感謝デー・マリンフェスタ」の概要を23日、発表した。
来場者全員にマリンフェスタのレプリカユニホームが配られ、試合前の午前11時15分からと試合後にトークショーや握手会などを行う。
特別ゲストとして“神スイング”で有名なタレント・稲村亜美(20)が始球式に登場。さらに、ファンから「神スイングを見たい!」との要望が多数寄せられたため、急遽始打式も行うことも決まった(投手は未定。バットは中学生用硬式金属バットを使用)。
今年からチームの一員としてマリンフェスタに参加するスタンリッジは「私にとって初めてのマリンフェスタになるけれど、本当に楽しみだ。青いユニホームも、とてもクール。明日はエキサイティングな1日となるだろうね」とコメントした。
巨人、ロッテでプレーし、ロッテで監督を務めた山本功児氏が23日午後1時41分に、肝臓がんのため、福岡県北九州市内の自宅で死去した。64歳。今年、育成枠でDeNAに入団した長男の山本武白志(むさし)内野手(18)の1軍でのプレーを見届けることなく、早過ぎる旅立ちとなった。通夜は25日、葬儀・告別式は26日に神奈川県横浜市のシティホール江田で営まれる。
山本氏が静かに息を引き取った。関係者によれば、08年から心臓の具合が悪いと話していたという。治療の成果で回復することもあったが、13年ごろには再び体調を崩し、入退院を繰り返していたという。当初は心臓の具合が悪いと話していたが、長い闘病の間にがんを患ったもよう。DeNA球団は死因を肝臓がんと発表した。
現役時代は左の長距離打者として活躍。ロッテ移籍後の85年は4番落合(現中日GM)5番山本でクリーンアップを形成。当時コーチを務めていた醍醐猛夫氏(77)は「当時、左キラーとして名をはせていた西武永射に対し、『あいつはコントロールがいいから当たることはない。踏み込んで打て』とアドバイスしたところ、すぐに結果を出した」としのんだ。左投手を苦にせず、この年の対左投手の打率は3割4分9厘だった。チャンスにも強く、84年から88年まで、満塁機では44打数19安打、打率4割3分2厘を残した。
引退後の89年からはロッテで打撃コーチや2軍監督などを歴任し、99〜2003年は監督を務めた。打撃指導に定評があり、ロッテ福浦ら多くの主力を育てた。
05年に巨人コーチを退任後は、息子の成長を何より楽しみにしていた。心臓を悪くした際、医者からペースメーカーを入れるよう勧められたが、「息子にトスを上げられなくなる」と拒否。さらに武白志内野手の九州国際大付(福岡)への進学が決まると、家族全員で神奈川から福岡に引っ越した。
昨年8月に甲子園に出場した際には、病を押して炎天下の球場で観戦した。同15日の3回戦、作新学院戦で2試合連続本塁打を目の当たりにし「この前の試合のほうがシーソーゲームだったから感動が大きかったけど、いいところで打った。見事な当たりだった」と笑顔だった。
巨人時代から親交の深い篠塚和典氏(58=日刊スポーツ評論家)は「相手チームともみ合いになった時は、先頭に立って体を張るタイプでした」と実直な人柄をしのんだ。巨人では第43代4番打者として7試合に出場し、29打数11安打、打点6、2本塁打、打率3割7分9厘と4番として高打率を残した。さらに「息子さんがプロ入りされた前後あたりに、再び体調が悪くなったそうで、本当ならばキャンプ地の沖縄に行きたかったでしょうが、それも出来ないようでした」と早過ぎる死を悲しんだ。
プロ野球の巨人、ロッテでプレーし、ロッテで監督を務めた山本功児(やまもと・こうじ)氏が23日午後、肝臓がんのため、北九州市内の自宅で死去した。64歳。兵庫県出身。
葬儀・告別式は26日午前9時半から横浜市青葉区あざみ野南1の2の6、シティホール江田で。喪主は妻の美砂子(みさこ)さん。
元ロッテ監督で巨人ヘッドコーチも歴任した、山本功児氏が、23日午後1時41分に肝臓がんのため、福岡県北九州市内の自宅で死去した。64歳。
ロッテ福浦 残念です。僕が入団1年目に、功児さんが2軍打撃コーチで、投手練習の合間に(小野)晋吾と一緒に打撃練習をしたところ「バッターに転向しろ」といきなり言われました。「冗談かな」と思って、ずっと断っていました。その後も熱心に勧めてくださるので、そういう可能性があるならと、転向しました。今も続けられているのは功児さんのおかげです。感謝の言葉しかありません。
元ロッテ監督で巨人ヘッドコーチも歴任した、山本功児氏が、23日午後1時41分に肝臓がんのため、福岡県北九州市内の自宅で死去した。64歳。
「誰がそんなことを言っているんだ!」。鬼の形相とはこのことか…。2002年9月13日。福岡ドーム(現ヤフオクドーム)の三塁側のベンチ裏に呼び出された。その日の紙面で、当時、在籍していた外国人選手が解雇されるという記事を書いた。それを遠征先で知った身長190センチ近いユニホーム姿の山本さんが迫ってきた。
監督4年目。過去3年はBクラス。背水の陣で臨んだこの年もまさかの開幕11連敗。今のようにクライマックスシリーズもない。開幕時の借金生活が重くのしかかり、監督としてもチームとしても苦しい状況は続いていた。
だが、山本さんは諦めていなかった。「1つでも、2つでも負け数を減らしたいんだ」。勝ったり負けたりの状況だったが、若手野手の打撃練習に身ぶり手ぶりを交え1時間でも2時間でも付き合い、不振にあえぐ外国人選手にも丁寧にアドバイスをしていた。
まだ試合数を残しての外国人解雇報道。該当選手もチームに同行していた。これと決めたことはなかなか変えない頑固な性格。時にはフロントとの軋轢も生んだ。「1年間でプロ野球の監督ができるのは12人しかいないんだ」。どんなことを書かれようが、フロントが来季の構想を考えようが、最後まで勝つことにこだわっていた。野球の話になると止まらない。身ぶり手ぶりを交え…。プロ野球の監督の意地。直立不動で山本さんと目を合わせるのが精一杯だった。
(2002年ロッテ担当・横山元保)
巨人、ロッテで一塁手、外野手として活躍し、1999〜2003年にはロッテで監督を務めた山本功児(やまもと・こうじ)氏が23日、肝臓がんのため、北九州市内の自宅で死去した。64歳。大阪府出身。現役時代は勝負強い打撃でオールスターに2度出場したほか、一塁での堅実な守備でゴールデングラブ賞も2度獲得。多くのファンに愛された「背番号44」が静かに天国へ旅立った。
志半ばだった。午後1時41分。山本氏は北九州市内の自宅で息を引き取った。死因は肝臓がん。夫人の美砂子さんは「昨夏の甲子園終了後から入退院を繰り返し、3月12日に退院。最期は本人の希望で自宅療養していました」と打ち明けた。
今年、DeNAの育成選手として息子の武白志(むさし、18)はプロ野球選手になった。チームから自宅に戻るよう指示され、3日前に父と対面。山本氏はがんであることを告知されていたという。
巨人時代のチームメートだったDeNAの吉田孝司編成スカウト部長(69)は「『育成の分際で帰ってくるな。もっと練習しろ』といって帰ってくるのを止めていたが、息子を送り出した」と説明。「2月に見舞いに行ったときは『腹にたまった水を抜くとよくなる』といっていた」と振り返った。
高田繁ゼネラルマネジャー(70)も「3年前には春のキャンプで臨時コーチをやってもらったけど、元気だった。息子が一人前になって、教えられたらいいな、とも言っていた」と早すぎる死を悼んだ。2013年オフには一部で「DeNAのヘッドコーチ就任」と報じられたが、美砂子さんは「とても引き受けられる体調ではなかった」と明かした。
山本氏は兵庫・三田学園高3年時の1969年にセンバツで8強入り。同年のドラフトで南海(現ソフトバンク)から3位指名を受けたものの、法大に進学。卒業後は本田技研鈴鹿(現ホンダ鈴鹿)でプレーし、76年にドラフト5位で巨人に入団した。
1メートル87、80キロと恵まれた体で左の大型野手と期待されたが、一塁には王貞治がいた。それでも外野手や代打で出場。勝負強い打撃には定評があり、7試合で「第43代4番」を務めた。
81年8月26日の巨人−中日(後楽園)では代打として遊撃後方へ飛球を放ち、中日・宇野勝が捕れずに頭に当てた“ヘディング事件”は今も珍プレーとして語り継がれる。トレードでロッテへ移籍した84年に初めて規定打席に達し、リーグ9位の打率.301をマーク。一塁手としては同年から2年連続でダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)を受賞し、「背番号44」は多くのファンに愛された。
引退後の89年からロッテで2軍監督などを歴任し、99〜2003年は監督を務めたが、1度もAクラスに届かず。それでも指導に定評があり、投手として入団した福浦を野手に転向させ、巨人でも1、2軍でコーチを務めた。
武白志が福岡・九国大付高へ進学したことを機に北九州市へ引っ越し。息子は「(父は)帰りたいと思う」と母に伝え、以前住んでいた横浜市で葬儀・告別式を執り行うことになったという。山本氏は息子の心づかいで住み慣れた街に戻り、巨人、ロッテなど多くの球界関係者に見送られる。
突然届いた山本功児氏(享年64)の訃報。故人を知る巨人、ロッテ、法大などの関係者は、早すぎる死を悲しんだ。また、巨人ヘッドコーチ時代の2005年に親交があった塚沢健太郎記者(44)が当時を振り返った。
体調が悪いとは聞いていたが、まだ若すぎる。残念な思いでいっぱいだ。
子供の頃にファンだった功児さんを初めて取材したのが、2005年の巨人ヘッドコーチ時代。遠征先では食事によく誘ってもらい、一緒にバッティングセンターにも行った。
この年は5位。コーチ退任後、巨人戦の解説で広島を訪れた功児さんとお好み焼き店へ。広島で「山本こうじ」といえばもちろん、ミスター赤ヘルの山本浩二さんだ。
おかみさんと名前の話になると、「山本浩二さんは法政(大学)の先輩で尊敬していますから。僕は“ニセコージ”でいいんです。よく広島や甲子園でやじられましたけど、僕は関西人ですから。ああいうジョークはOKです」。器の大きい人だった。
その半面、ロッテ監督時代にはオープン戦で退場になったこともある熱血漢。巨人のヘッドコーチを務めていた2005年8月4日の広島戦では7番で起用された清原和博が本塁打を放った後、ベンチ前でハイタッチを拒否したことを執拗に聞いた他社の記者と口論になった功児さんを、止めに入った私が突き飛ばされたこともあった。
火がつくと、周りがみえなくなってしまう。翌日、その話をすると「悪かったな…。殴られなくてよかったな」と謝られ、冷や汗をかいたことを思い出す。 近年はプロ野球界と距離を置いていた。DeNAに入団した息子の武白志(むさし)に小学生時代から英才教育を施し、プロ野球選手に育て上げた。教えることが大好きだった功児さん。もう1度ユニホームを着て、指導する姿を見たかった。
元ロッテ監督の山本功児氏の死去を受け、ロッテ時代の教え子ら関係者が別れを惜しんだ。
ロッテの小林雅英投手コーチは「僕を育てて、我慢して使ってくれた方。ご冥福を祈るしかない」と肩を落とした。小林コーチを抑えとして起用したのが当時ロッテ監督の山本氏だった。通算228セーブを挙げ「功児さんのおかげで今の立場にいる」と話した。
ロッテの堀幸一打撃コーチは「非常に熱い方だった。ゆっくり休んでいただきたい」と語り、サブロー外野手は「全てのことを教えてくれた父親のような存在。悲しい気持ちでいっぱい」と惜しんだ。
巨人時代の同僚で、現在は山本氏の長男、武白志内野手を育成選手として預かるDeNAの高田繁ゼネラルマネジャーは「2週間前に電話があって、息子を厳しく指導してくれと言われた。息子を教えたりしたかっただろう」と語った。
巨人、ロッテでプレーし、ロッテ監督も務めた山本功児氏が23日午後1時41分、肝臓がんのために北九州市内の自宅で死去した。64歳だった。山本氏は巨人、ロッテで計13年間プレーし、引退後はコーチ、監督など指導者を歴任。熱血で、かつ人情味のあふれる人柄は誰からも慕われた。昨年の育成ドラフト2位でDeNAに入団した長男・武白志(むさし)内野手(18)のために移住した九州の地で、永い眠りについた。
さぞや無念だったろう。山本氏は長男・武白志が1軍でプレーする姿を見ることなく、天国へと旅立った。北九州市内の自宅で取材に応じた美砂子夫人は、「昨年8月下旬に入院して、そこから入退院を繰り返していました」と話した。今年3月12日に退院。しかしその際、山本氏は「もう、病院には戻りたくない」と訴えたという。この日の午前中に昏睡(こんすい)状態に。武白志は球団の許可を得て21日に自宅に戻っており、息を引き取った時には父の大きな手を握りしめていた。
背番号44。忘れがたいバイプレーヤーであり、熱血漢で知られる指導者だった。75年ドラフト5位で篠塚和典(当時は利夫)、中畑清(スポニチ本紙評論家)らと同期で巨人に入団。一塁には王貞治という不動のレギュラーがいる中で、外野手も兼ねながら活躍した。79〜80年には第43代4番打者として7試合に出場。ロッテに移籍した84年には、初めて規定打席に到達してリーグ9位の打率.301をマークした。堅実な一塁守備でダイヤモンド(現ゴールデン)グラブ賞を2度受賞。球宴にも82、85年と出場した。
指導者としてはロッテ監督以外にも打撃コーチ、2軍監督などを歴任。とことん選手に付き合う熱い指導で福浦、サブローらを育て上げた。人情味あふれる真っ直ぐな人柄で、多くの関係者から慕われた。熱血漢ゆえに指揮官時代は審判に詰め寄ることも度々で、オープン戦でも退場処分を受けたほど。ファンはその熱い姿に声援を送った。巨人1年目の76年春季キャンプ。山本氏は当時の長嶋茂雄監督から何度もチャンスをもらい、「どんな選手も体験で強くなる」と痛感したという。自身も2軍から昇格した選手は即起用し、ミスを犯しても必ず次のチャンスを与えた。
08年には慢性心不全を発症。入退院を繰り返す中で山本氏が選択したのが、神奈川から福岡への「移住」だった。武白志が13年に九州国際大付に進学。しかし寮生活になじめず体重が15キロ近く減った。父は「俺はもう、どこに住んだっていい。息子が困っているんだったら近くに住もう」と夫人とともに福岡に移り住んだ。昨夏も体調が優れない中、甲子園で観戦。武白志が大阪偕星学園戦で2打席連続アーチを放った際には「よう打ったよ。1本目の時は涙が出た」と喜んだ。再入院したのはその直後だった。
ロッテ監督を務めた5年間は全てBクラス。しかし退団から2年後の05年に、山本氏の指導で成長した選手らの手によってチームは日本一に輝いた。幼少時から父の背中を見て、練習にも付き添ってもらった武白志が、今度は亡くなった山本氏の遺志を継いでいく。
かつてロッテでともにプレーした有藤通世氏(スポニチ本紙評論家)は、山本氏の訃報に「(体調が)良くないとは聞いていたが…。若いのに残念の一言」と話した。
有藤氏がロッテ監督だった88年に山本氏は現役を引退。89年には指揮官と打撃コーチという関係で、「野球に対して真面目。本当に熱心で、打撃のことをよく勉強していた。自分の型にはめるのではなく、選手個々に合わせた指導法だった」と当時を振り返った。
ロッテの監督時代。福岡遠征では現役時代から通う中洲の屋台「大政」に顔を出すのが常だった。そこを狙って担当記者やロッテファンまで駆けつけたが、嫌な顔もせず招き入れてくれた。屋台でファンと飲み交わし、本気で議論する監督など、その後も見たことはない。
巨人からの移籍組。だが、ロッテの2軍監督時代、スタッフを守るため重光昭夫オーナー代行に「自分はともかく生え抜きは大事にしてやってください」と直談判した。すると重光オーナー代行から「君のことも生え抜きと思っている」と言われ感動。「その時、巨人のことは忘れないかんと思った」と後に聞いた。
最後の望みは愛息・武白志君のユニホーム姿を見ることだった。病院で寝込んでいた3月1日。卒業式に出席するため福岡に戻った息子と、わずかな時間ながら病室で対面した。「武白志、頑張れ」。握手を交わし、別れた2人は互いに涙を流したという。この時、すでに死期が近いことを悟っていたのだろう。
後日、功児さんは病院のベッドに横たわりながら最後の力を振り絞って、アドバイスを送っている。妻・美砂子さんの携帯電話の動画を通じ、杖をバットに見立て「こう使うんだ」とヘッドの利かせ方を力説した。野球人・山本功児らしい最後のアドバイス。武白志君の胸にずっと刻まれるに違いない。合掌。
(01年ロッテ担当・白鳥健太郎・現スポーツ部デスク)
山本功児さんの死去を受け、ロッテ時代の教え子らが別れを惜しんだ。ロッテ監督としては5年間で通算勝率4割7分9厘と優勝争いに絡むことがなかったが、退任2年後の05年、育てた主力がバレンタイン監督の下で日本一を達成した。
01年のパ・リーグ首位打者、福浦和也内野手は入団時に山本さんが2軍打撃コーチで、投手から野手への転向を勧められた。2軍監督だった山本さんに送り出されて1軍デビューし、1軍で監督となった恩師の下で首位打者になった。「今の自分があるのは山本さんのおかげ。恩人です。野球人生の最後まで見届けて欲しかったのですが、寂しいです」。
ロッテの小林雅英投手コーチは「僕を抑えで使う決断をした人。我慢して使って、プロとして育ててもらった。ご冥福を祈るしかない」と肩を落とした。小林コーチを抑えとして起用したのが山本さんだった。通算228セーブを挙げ「功児さんのおかげで今、僕はこの立場にいられる。感謝しています。ウィニングボールを渡したときの嬉しそうな顔が思い浮かびます」と語った。
巨人、ロッテで活躍し、現役引退後はロッテ監督や巨人のヘッドコーチなどを務めた山本功児氏が23日午後1時41分、肝臓がんのため北九州市内で死去した。64歳だった。1976年に巨人入り。長嶋巨人の下で代打の切り札として活躍。84年に移籍したロッテでは中軸を務めた。99〜2003年にはロッテ監督を務めた。ここ数年は、体調を崩して入退院を繰り返していた。長男はDeNAの武白志(むさし)内野手(18)。葬儀・告別式などの日取りは未定。
山本さんはこの日午前、北九州市の自宅で昏睡状態となった。最期は美砂子夫人に見守られ、武白志選手の手を握りながら、静かに息を引き取った。苦しんだ様子もなく、とても穏やかな表情だったという。
2008年から慢性心不全の治療を受けていた。武白志選手が九州国際大付へ進学した13年、横浜市から北九州市へ転居。14年ごろから再び体調を崩し、入退院を十数回繰り返した。
そんな中、身を削って、愛息を応援した。昨年7月、「(14年に続いて)武白志をもう一度、甲子園へ行かせたい」と、夏の高校野球福岡大会中、病院にも行かず球場のスタンドで声をからした。昨秋から体調を崩して、再び入院。今年3月12日に退院した後は「頑張って歩けるようになって、横浜へ息子を見に行く」と決意。自宅で懸命に闘病していた。
山本さんは中学時代から183センチ、75キロの体格を誇った。三田学園高3年の69年、1学年下の淡口憲治(元巨人)とクリーンアップを組んでセンバツ8強。同年ドラフトで南海から3位指名を受けるも、東京六大学野球に興味を持ったこともあって入団を拒否。法大、本田技研鈴鹿を経て75年ドラフト5位で巨人に入団した。1年目から代打および一塁・王貞治のバックアップとして1軍で活躍し、76年の長嶋巨人V1に貢献した。
79、80年には第43代4番打者を計7試合務め、4番で通算29打数11安打の打率3割7分9厘、2本塁打。81年の巨人・中日戦(後楽園)で、遊撃・宇野が飛球を頭部に受けてボールが大きく跳ねる“珍プレー”があったが、この飛球を打ったのが山本さんだ。84年に三宅宗源投手とのトレードでロッテへ移籍。落合博満とともに打線を支え、初めて規定打席に到達。2年連続でダイヤモンド・グラブ賞(現ゴールデン・グラブ賞)を受賞した。
88年の現役引退後、99〜2003年にロッテ監督。いずれの年もBクラスに終わったが、福浦、サブロー、里崎、小林宏らを辛抱強く起用し、05年優勝の礎を築いた。04年に巨人2軍ヘッド兼打撃コーチ、05年に同1軍ヘッド兼打撃コーチとして堀内巨人を支え、06、07年にはスポーツ報知評論家も務めた。
巨人、ロッテでプレーし、ロッテで監督を務めた山本功児(やまもと・こうじ)氏が23日午後、肝臓がんのため、北九州市内の自宅で死去した。息子の武白志内野手(18)が育成選手として所属するDeNAが発表した。64歳。大阪府出身。葬儀・告別式などの日程は未定。現役時代の通算成績は1217試合で打率.277、64本塁打、369打点。オールスターには2度出場した。
山本氏は兵庫・三田学園高から法大に進み、本田技研鈴鹿(現ホンダ鈴鹿)を経て1976年にドラフト5位で巨人入りし、第43代の4番を務めた。84年にはロッテに移籍し一塁に定着すると打率.301を記録し、翌年も.293。この2年間はダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)にも選ばれた。
88年限りで現役を引退し、89年からはロッテで打撃コーチや2軍監督などを歴任し、99〜2003年は監督を務めた。打撃指導に定評があり、ロッテの福浦ら多くの主力を育てた。巨人でも1、2軍でコーチを務めた。
熱い男だった。口癖は「若いときはとにかくバットを振るしかないんだ」。とことん選手に付き合う熱血コーチとして打者育成の手腕が高く評価された。ロッテ監督としては5年間で通算勝率.479と優勝争いに絡むことがなかったが、退任2年後の2005年、育てた主力がバレンタイン監督の下で日本一を達成した。
01年のパ・リーグ首位打者、福浦は入団時に山本氏が2軍打撃コーチで、投手から野手への転向を勧められた。2軍監督だった山本氏に送り出されて1軍デビューし、1軍で監督となった恩師の下で首位打者になった。「今の自分があるのは山本さんのおかげ。恩人です。野球人生の最後まで見届けて欲しかったのですが、寂しいです」と話した。
ドラフト7位から主力に成長した愛弟子を引き合いに「せっかく福浦というお手本がいるんだから、みんな見習って欲しい」と話したように、監督時代の山本氏はガッツを表に出さない若手に厳しかった。負けが込み「もっと悔しがらないと。悔しければ、もっと努力しようと思うんだ」と話したこともあった。審判員に詰め寄ることも度々で、ファンはその熱い姿に声援を送った。