西武が逆転で今季2度目の8連勝を飾った。2−3の9回2死一、二塁から山川の43号3ランで試合をひっくり返した。4番手の小川に2年ぶりの勝利が付き、9回はヒースが締めて10セーブ目。ロッテは逃げ切れず8連敗を喫した。
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埼玉西武 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 3 | 5 |
千葉ロッテ | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 3 |
雨上がりの空に歓喜の「ふくうら」コールがこだました。ロッテ福浦和也内野手(42)が22日、西武24回戦(ZOZOマリン)の8回に右越え二塁打を放ち、史上52人目の通算2000安打を達成した。42歳9ヶ月での到達は、15年に42歳11ヶ月で達成した和田一浩(中日)に次ぐ2番目の年長記録。93年ドラフトの最終7位指名で入団した男が、ひたむきに25年をかけて偉業を成し遂げた。
滑り込んだ二塁上で思わず左こぶしを突き上げた。「ほっとしてる感じです。長かった−」。福浦は8回の最終打席、先頭で小川のスライダーを引っ張った。加速した打球が右翼手の横を抜ける。今は2人だけになった球界最年長野手、西武松井が花束を持って歩み寄ると、顔をくしゃっとほころばせた。祝福の時を、西日が柔らかく照らした。
「ここまでやれるなんて、誰も思ってなかったよ」。紙一重の野球人生を歩んできた。25年前、プロになれる選手となれない選手の境目にいた。ドラフト指名は64選手中64番目。呼ばれなければ社会人の大昭和製紙(静岡)に進むつもりだった。「でもそこの野球部、2年後に廃部になった。行ってたら今頃、紙つくってたかもしれない」。
入団当初は左投手。支配下選手最大の背番号「70」を与えられた。アリゾナキャンプでは選手で唯一、裏方さんと同部屋に。「スタッフ採用?」「裏方ドラ1」とささやかれた。
最大の転機は1年目の初夏。打撃センスを買われ、山本功児2軍打撃コーチから野手転向を打診された。まだ投げたかった。半ば押し切られる形で受諾。「あれがなければ僕はいない。投手を続けたら今頃、(ロッテ社員で)お菓子つくってたかもしれない」。
4年目で1軍戦初出場。母の病死を乗り越え、01年に首位打者を獲得して「幕張の安打製造機」と呼ばれるようになっても、順風満帆にはいかなかった。07年、右脇腹痛で6年連続打率3割が途切れた。振るのが怖くなった。「選手生命の危機なんて毎年感じてた。気力だよ」。今季も首痛に苦しんだ。衰えを受け入れ、フォームは毎年変えた。
いつしか代打が当たり前と思っていた。今春、鳥越ヘッドコーチの言葉にハッとした。「まさか代打で出る気じゃないだろうな」。偉業後押しへ、井口監督も積極起用の方針を固めた。6月には1ヶ月無安打の時期もあったが、不屈の闘志でマクった。開幕前の残り38本は「ゼロ」になった。
千葉に生まれ、千葉の高校から地元球団に進み、良いときも悪いときもロッテ打線を牽引してきた。歴代年長2位の42歳と9ヶ月。1500安打から9年を要し、25年の歳月をかけてマイルストーンを打ち立てた。「2000本に近づくたび、みんな『寂しい』って言うんだよ」。誰からも愛された。
史上初の、ドラフト最下位からの「下克上」2000安打。次の目標は明確だ。「井口監督を何とかマリンで胴上げしたい。優勝をみんなで分かち合いたい。来年もやるつもりです、まだまだ」と現役続行を明言。「俺たちの福浦」の物語はまだ、終わらない。
ロッテ福浦和也内野手(42)が22日、西武24回戦(ZOZOマリン)の8回に右越え二塁打を放ち、史上52人目の通算2000安打を達成した。42歳9ヶ月での到達は、15年に42歳11ヶ月で達成した和田一浩(中日)に次ぐ2番目の年長記録。
あんなことも、こんなこともあった。ロッテ福浦和也内野手と、今夏日刊スポーツで「編成部長」を務めた前ロッテ・サブロー氏(42)が“兄弟”対談。1年違いでロッテに入団した先輩、後輩コンビが、笑える話から真面目な話まで赤裸々に振り返り、大台到達を祝った。
「おお、兄弟」。久々に再会した2人は、がっちりと握手をかわした。思い出話は入団当時へさかのぼる。
互いのフォームをチェックし、好打者の映像を見る研究会が日課だった。
家に帰れば、2児の父。
話題は現在、そして未来を描く。
やっと届いた、2000安打。
ロッテ福浦和也内野手(42)が22日、西武24回戦(ZOZOマリン)の8回に右越え二塁打を放ち、史上52人目の通算2000安打を達成した。42歳9ヶ月での到達は、15年に42歳11ヶ月で達成した和田一浩(中日)に次ぐ2番目の年長記録。
ロッテ福浦和也内野手(42)が22日、西武24回戦(ZOZOマリン)の8回に右越え二塁打を放ち、史上52人目の通算2000安打を達成した。42歳9ヶ月での到達は、15年に42歳11ヶ月で達成した和田一浩(中日)に次ぐ2番目の年長記録。
僕が打てるようになったのは、福浦さんのおかげだ。プロ入りした時に思ったのは、1番すごい人の真似をしようということ。ロッテに入った僕にとっては、それが福浦さんだった。鹿児島・鴨池でのキャンプ中、正面から下投げしてもらった緩い球をセンターバックスクリーンに向かって打つ。いわゆるロングティーをしていた福浦さんに「一緒にやらせてもらっていいですか?」と聞いたのが始まりだった。
120メートル先のバックスクリーンに、競うように入れ合った。左右にずれてもダメ。どっちが多く入れるか、とゲーム性を持たせて楽しみながら打つうちに力がついた。そもそも、打撃フォームからしても福浦さんの真似だった。左打ちと右打ちの違いはあるけど、鏡を見ているようで真似しやすかった。ビデオの映像を流し、画面にテープを貼って、相手投手のクセや自分の打撃フォームの崩れを見抜く方法を教えてくれたのも福浦さんだったし、感謝しきれない。
一緒に長い時間を過ごす中で、今だから言える忘れられない話もある。04年4月のことだ。東京ドームでの試合で左ひざの半月板を割ってしまった。これは手術しかないな、と思った。その日は福浦さんと試合後に、横浜アリーナへBoAのコンサートに行く約束をしていた。福浦さんは「さすがに無理だな、サト。やめようか?」と気遣ってくれた。でも僕は「何言ってるんですか。どうせ明日、病院に行って、診てもらって手術になるんです。だったら今日は楽しみましょう」と強行した。
左足を引きずりながら歩く僕に、福浦さんはずっと肩を貸してくれた。横浜アリーナで周りの人から「あ、福浦だ!!里崎だ!!」と指をさされたけど、おかげで楽しめた。そして想定どおり手術が決まって、チームを離れる時に「待ってるからな」と声をかけてくれた。「頑張れ」と言ってくれる人ばかりだった中で、福浦さんの「待ってるから」は、すごく心に響いた。そのおかげで1ヶ月で戻れたんだと思う。
いつも「ありがとうございます」と、ばかり言ってたけど、今日は「おめでとうございます」と言える。一緒に過ごした日々を振り返りながら2000安打を祝福したい。
(日刊スポーツ評論家・里崎智也)
ロッテ福浦和也内野手(42)が22日、西武24回戦(ZOZOマリン)の8回に右越え二塁打を放ち、史上52人目の通算2000安打を達成した。42歳9ヶ月での到達は、15年に42歳11ヶ月で達成した和田一浩(中日)に次ぐ2番目の年長記録。
ロッテの主催試合で場内アナウンスを務める名物ウグイス嬢の谷保恵美さん(52)も、福浦の2000安打を祝福した。谷保さんの1軍デビューは91年8月で、今年6月には1500試合連続アナウンスを達成した“鉄人”だ。
前ロッテのサブロー氏が打席に入る際の「サブロ〜〜〜」コールに加え、福浦の「ふくーら〜〜」もZOZOマリン名物。
大台にマジック1となった前日21日は、験担ぎに福浦がプロ初安打を放った97年7月5日のスコアブックを見返したという。
「ここで打った1本目から見ているので感慨深いです。オリックス戦だったんですけど、スコアブックを見たらイチローさんも出てました」と懐かしんだ。
「若い時から休みの日もいつも球場に来て練習してました。昔はここの上に事務所があったので、私もオフシーズンも行ったり来たりしてたんですけど、いつもいました。その姿を思い返すとジーンとしました」と感激していた。
ロッテ福浦和也内野手(42)が史上52人目の通算2000安打を達成した。
会見での一問一答は以下の通り。
ロッテ福浦和也内野手(42)が史上52人目の通算2000安打を達成した。
会見での一問一答は以下の通り。
本拠地をチームカラーの白に染めたロッテファンの「フクウラコール」が鳴りやまない。練習中まで降った雨はやみ、西日が差し込んだ超満員のZOZOマリンで、ロッテ福浦和也内野手(42)が史上52人目の2000安打に到達した。
3打席無安打で迎えた9回無死からの第4打席。応援歌「俺たちの〜フクウラ〜」に乗って集中力を高める。2ストライク2ボールからの7球目、127キロのスライダーを右翼線に運んだ。両手を上げ、大歓声に帽子を取って応える。プロ入りも同じ年で、ともに球界最年長42歳の西武松井から花束を受け取って抱き合った。代走で交代すると、ベンチ前で全選手に迎えられた。球場のボルテージが最高潮に達する中、続く鈴木のバントが相手失策を誘い、勝ち越し点を奪った。
プロ25年目の今季は、残り38本からスタート。シーズン中は首痛にも悩まされた。6月3日から7月4日までは1ヶ月以上無安打と苦しんだ時期もあったが、満身創痍(そうい)の中、1本ずつ積み重ねてきた。
それでもチームは9回2死一、二塁から西武山川に逆転3ランを浴びて8連敗。福浦の節目を勝利で飾ることはできなかった。
井口資仁監督は「色々ケガもあった中で、マリンで打ってくれた。今まで積み重ねてきたものをずっと見てきた」とたたえた。
ロッテ福浦和也内野手(42)が22日、西武戦で通算2000安打を達成した。
直後の会見では冒頭に「大勢のファンの前で、この千葉マリンで決められたのが嬉しい。花束をもらった時とか、みんなにお祝いしてもらった時に実感がわきました」と話した。
二塁ベース上で、ともに球界最年長野手とし切磋琢磨してきた西武松井から花束を渡されたシーンを振り返り「同期入団で一緒にやってきて、同級生の前で決めたいと思っていた。喜びが倍増でした」と笑顔を見せた。
22日の西武戦で通算2000安打を達成したロッテ福浦和也内野手(42)が、来季の現役続行を明言した。
達成後の会見で「来年もやるつもりです、まだまだ」と表明。
今後の目標について「井口監督を何とかマリンで胴上げしたい。僕自身もここマリンで、ファンの皆さんの前で胴上げしたい思いはあります」と話した。
西武の松井稼頭央外野手(42)が、同期の節目を祝福した。
8回、ロッテ福浦が2000安打を達成した際に、グラウンドで「おめでとう」と笑顔で花束を手渡した。
若手の頃から励まし合ってきた仲間で、現在は球界最年長野手としてプレーを続けている2人。同期だからこそ知る苦労もあり、松井は「西武戦で、そういう場面に立ち会えたらいいなと思っていた。目の前で(達成を)見ることができて嬉しい。花束を渡せて、泣きそうになりました」と振り返った。
ロッテ福浦和也内野手がプロ通算2000安打の偉業を達成した。
福浦がニヤニヤしながら話しかけてきたことがある。「知ってますか?○○さんがカラオケ教室に通っているらしいですよ。昨日、『絶対に言わないでよ』って言ってました」。ロッテ浦和球場の三塁側ベンチ。共通の知人のささやかな秘密をあっさりバラしているのにもかかわらず、あっけらかんとして本当に憎めない。ある意味、奇跡の才能だ。
奇跡といえば、1軍デビューも、様々な偶然をくぐりぬけて生まれた。97年7月4日、福浦はイースタン・リーグの遠征で秋田にいた。その日は移動日で試合はなく練習。ちょうど福浦が特打をしている時に2軍マネジャーの携帯が鳴った。1軍の近藤監督が打者の昇格を求めていた。「だれかいるか?」との問いに、山本2軍監督は特打の行われているケージを見ながら「福浦はどうですか?」と投手から野手に転向して3年目を迎えた男の名前を口にしていた。
秋田から羽田に帰る便はその日はもうなく、翌日早朝に移動することになった。7月5日の1軍戦はオリックス戦。デーゲームだった。しかし、あいにくの強風。飛行機は飛ぶのか飛ばないのか?そんな状況だった。せっかくのチャンスがふいになってしまうかもしれない。周囲の心配をよそにガンガン揺れる機内で福浦は爆睡。コンディションも良く、無事に試合前練習中のチームに合流した。
待っていたのは「7番一塁」でのスタメン出場。4回、フレーザーの高めに浮いたスライダーを中前へ運び、プロ初安打を記録した。そこからのサクセスストーリーはロッテファンなら誰もが知っている。6年連続の打率3割など、主軸として戦い続けた。
だが、もし近藤監督から山本2軍監督への電話が、福浦の特打のタイミングではなかったら?翌日の秋田発羽田行きの飛行機が強風のために飛ばなかったら?福浦が揺れる機内では寝られない体質だったら?近藤監督がスタメンで使ってくれなかったら?フレーザーのスライダーが低めに決まっていたら?福浦はそんな紙一重を切り抜けてチャンスをモノにした。いずれ世に出てくる才能だったかもしれない。だが、2000安打達成は、もう少し遅かっただろう。人柄も選手としても、まさに奇跡の人と言える。
ロッテ福浦和也内野手(42)が、日本プロ野球史上52人目となる通算2000安打の偉業を達成した。8回の第4打席、西武小川から右越え二塁打を放ち大台に到達した。42歳9ヶ月での達成は、42歳11ヶ月で達成した和田一浩(中日)に次ぐ、史上2番目の年長記録となった。
過去2000安打以上放った選手は以下の通り。
[注]※は現役。所属は現役最終。福浦以外の通算安打数は2018年9月21日現在
ロッテ福浦和也内野手が日本プロ野球史上52人目となる通算2000安打の偉業を達成した。球団では榎本喜八が1968年7月21日の近鉄戦で、1985年7月11日に有藤通世が阪急戦で達成して以来、33年ぶり3人目となった。
日米通算まで含めると井口が2013年7月26日に楽天戦で田中将大投手(現ヤンキース)から本塁打を放ち、達成している。
42歳9ヶ月で達成した福浦は、42歳11ヶ月で達成した和田一浩(中日)に次ぐ、史上2番目の年長記録。
ロッテ福浦和也内野手が、日本プロ野球史上52人目となる通算2000安打の偉業を達成した。
8回無死、西武小川から二塁打を放ち大台に到達した。
97年にマリン球場で放ったプロ初安打から足かけ21年。93年のドラフト会議で最後の64人目(ドラフト7位)に指名された男が同じZOZOマリンで2000安打にたどりついた。
順風満帆ではなかった。習志野高時代、140キロを超える速球でならし、投手として入団したが、肩の故障で苦しんだ。そんな最中、山本功児元打撃コーチ(16年4月に他界)の勧めもあり打者転向を決断した。94年から3年間、1軍での出場はなかった。
のちに「幕張の安打製造機」と異名を取った広角打者の才能は、2軍での下積み時代に培われた。97年7月5日のオリックス戦でプロ初出場初安打。同年67試合に出場し一塁手でレギュラーの座をつかんだ。01年に打率3割4分6厘で初の首位打者を獲得。05年のバレンタイン監督政権下、不動の3番打者として31年ぶりの日本一に貢献した。
福浦は、06年まで6年連続3割をマークし球界屈指の好打者として君臨した。07年以降、腰痛など相次ぐケガに苦しんだ。1軍での出場試合数も徐々に減少した。98年から11年まで14年間、主力として100試合以上出場してきた福浦だが、16年はわずか36試合出場にとどまった。
それでも2000安打を目前にして、諦める訳にはいかなかった。満身創痍の体にムチを打った。12年からは苦難の道が続く。シーズン50安打に届かない安打数を大事に、1本1本、積み上げた。ロッテではもちろん、球界でも西武松井稼頭央と並ぶ球界最年長野手。42歳9ヶ月で達成した福浦が、42歳11ヶ月で達成した和田一浩(中日)に次ぐ、史上2番目の年長記録で金字塔を打ち立てた。
ロッテは22日の西武戦のチケットが、午前7時までに販売予定枚数を完売したと発表した。当日券は販売しない。
福浦和也内野手が前日21日に通算1999本目の安打を放ち、2000安打に王手をかけている。チケット担当者は「大勢のお客様に前売りチケットをご購入いただき、誠にありがとうございました。福浦選手が1999安打を記録した時からWEBを中心に問い合わせが殺到し、試合後は前売りチケット売り場に長蛇の列ができました。あらためて目前に控えている記録の偉大さと福浦選手の人気を感じました。当日チケットの販売はございませんので、予めご了承ください」とほくほく顔だった。
ロッテは、福浦和也内野手の「FUKUMETERコレクションカード1999本」バージョンを22日の西武戦(ZOZOマリン)で配布すると発表した。
レフトゲートを除く各入場ゲートで、開場から試合終了後30分まで、先着2万5000枚を配る。またこの日に通算2000安打を達成した場合は、26日の楽天戦(ZOZOマリン)で2000本バージョンのカードを配布する。
ロッテ・福浦和也内野手(42)が22日、西武24回戦(ZOZOマリン)の第4打席に右翼線へ二塁打を放ち、プロ野球52人目となる通算2000安打を達成した。42歳9ヶ月での到達は、史上2番目の年長記録。投手として入団してからロッテ一筋25年、相次ぐけがと戦いながらバットを振り続けてきた“幕張の安打製造機”は、不屈の闘志を示し、本拠地で満願成就。野球に対する真摯な姿勢を貫いてきた男は、来季も現役続行を宣言した。
鮮やかにミートした打球が、右翼線を抜けていった。8回。応援歌『俺達の福浦』を絶叫していた幕張のスタンドは、その瞬間に大歓声へ。そして、いつもは淡々とベースを駆け抜ける男が、珍しくガッツポーズだ。
「これだけ多くのファンの前で打てたのが何より嬉しい。初安打もそうだけど、今日はみんなが喜んでくれたので、この安打が1番ですね」。
無安打で迎えた第4打席。通算2000安打は、388本目の二塁打で達成した。懸命に走って達したベース上でヘルメットを取り、声援に応えると、最初に祝福に現れたのは同学年の西武・松井稼頭央。そして井口監督、選手会長の角中らから花束を贈られた。
うっすらとしたひげ面に年輪が刻まれたプロ25年目。1993年のドラフトで習志野高の投手としてロッテの7位、全12球団で最後の64番目に指名された。憧れた地元・千葉の球団に入団も、すぐに肩を故障。転機となったのは1年目のオールスター休み期間だった。
当時2軍打撃コーチの山本功児氏(故人)に「打撃練習をやってみろ」と声をかけられた。同期の小野晋吾(現2軍投手コーチ)は打者転向を断ったが、福浦は「打撃も好きだったから」と快音を連発。約2ヶ月、悩んだ末に打者への転向を決めた。「やるしかないと腹をくくった。(山本)功児さんがいなければ今の自分はない。感謝しかない」と振り返る。
まさに職人といえる独特な打撃フォームで、2001年には首位打者に輝き、04年に1000安打、09年には1500安打を達成。しかし、1501安打目からの500安打は9年4ヶ月、806試合を要し、史上最も遅いスピードとなった。その野球人生は、ケガとの戦いでもあった。
腰、首…。細い体をウエートトレーニングで鍛え過ぎたのが裏目に出た。07年には脇腹を痛め「バットを振るのが怖くなった」。以後、ケアを重視するように変えた。
前日22日にあと1安打として迎えたこの日も、首は悲鳴をあげる寸前だった。「本人も厳しいと言っていた」と明かすのは井口監督。それでも、昭和50年生まれの42歳は「2000安打までは打ちたい」という強い意思で、痛みを押し殺して偉業へと歯を食いしばった。23日に出場選手登録を抹消され、シーズン終盤の復帰を目指すが、体は限界だった。
「とにかくZOZOマリンで、みんなの前で打ちたかった。延長にならなければ、最後の打席。打ててよかった」と執念の一打を放った。
悲願の大記録達成に「正直、少し休みたい」と、本音ももれた。だが福浦は「次は井口監督をZOZOマリンで胴上げしたい。来季も(現役で)やるつもりでいます」と高らかに宣言した。
ロッテ・福浦和也内野手(42)が22日、西武24回戦(ZOZOマリン)の第4打席に右翼線へ二塁打を放ち、プロ野球52人目となる通算2000安打を達成した。
ロッテの福浦和也内野手(42)が、22日の西武24回戦(ZOZOマリン)で史上52人目の通算2000安打を達成した。ルーキーイヤーの1994年から25年目。同期入団の3人が、福浦の快挙達成に至るまでを証言する。
1年目のオールスター休みの浦和(2軍施設)でランチタイムだったと思います。山本功児(当時2軍打撃コーチ)さんから「2人とも打撃いいんだよな?ちょっと打ってみろ」と言われたんです。そろって投手として“駄目”の烙印を押されたような感じでした。福浦は室内で打撃練習もしていて、快音を残しました。
そこが分岐点。和也は打者の道を選び、僕はそのまま投手をやるしかなかった。そこから20年以上。早く達成して欲しいという思いでした。僕は引退してから、それだけが楽しみだったようなもの。彼が試合に出始めた頃も知っているし、よく打つようになっても努力する姿は変わらない。準備への意識が高い。オフのトレーニングとか、やるべきことを分かって続けている。
僕が引退するとき、引退会見で花束を渡してくれたんです。鳥肌が立って、こみあげてきた。まさか、この2人が20年以上もやるとは誰も思っていなかったと思います。
(2013年現役引退、現2軍投手コーチ)
僕は拓大紅陵高で、同じ千葉で福浦をもちろん知っていました。それが同じロッテに入って…。福浦は投手時代から2軍で右翼へポンポンとほうり込んでいました。
コーチが代わったりして、言われることが違うこともある。福浦はその中でも信じたものだけをやっていく。試して駄目ならすぐに切り替え、いいものだけを取り入れるんです。色々な人の真似もしていました。最初は小久保(裕紀)さん、江藤(智)さんとか。右打者のイメージを取り入れていました。
寮では野球ゲームをよくやりました。めちゃくちゃ強いんです。楽しい時間でした。僕がやめるときは「もっと一緒にやりたかった」と言ってくれて。今も変わらず話しかけてくれる、それが嬉しいですね。
(03年現役引退、現野球解説者)
当時は線の細い選手でしたけど、ウエートトレーニングなど努力をしていた姿は印象的です。1軍に上がってからは、よくスコアラー室にビデオを見に来ていました。
若いスタッフも含め、よく食事に誘ってもらいます。最後は決まって野球の話。真面目な男です。50歳にもなると、なかなか意見してくれる人がいなくなる中、年下ですけど「疲れていても、あんな態度をしていたら駄目だよ。若手が見ているから」なんて言ってくれたり、ためになることも多いです。
今季は複雑な思いで見ていました。早く達成して楽になってもらいたいと思う一方、安打のたびに寂しい気持ちに…。1年でも長くやって欲しいとは思っています。
(1993年に近鉄で現役を引退、打撃投手としてロッテに加入の“同期”)
1点を勝ち越して迎えた9回、松永が連打でピンチを招き、抑えの内が山川に逆転3ランを浴びた。井口監督は「後ろの2人で点を取られていては勝てない。今季は1点差で勝てない試合が多い。色々考えないと」と配置転換を示唆した。打線の得点力不足も改善されず、8連敗で今季ワーストを更新。福浦の偉業達成があっただけに、後味の悪い結果となった。
松井が通算2000安打となる二塁打を放った福浦のもとへ花束を手に駆寄った。同じ1994年入団で球界最年長野手としてプレーし、普段は「福ちゃん」と呼ぶ親友は「ずっと刺激し合いながらやってきた。僕も泣きそうになったよ」。自身は楽天時代の2015年に日本通算2000安打を達成し、名球会の後輩を「満身創痍の中でね…。同級生の誇り」とたたえた。
本塁打を含む2安打で2000安打まで残り4本とした9日の西武戦(メットライフ)。試合後の福浦は「まだまだ。それより次に打ちたかった、あそこで打ちたかった…」と笑顔はなかった。
本塁打より、残り4本としたことより、第3打席の5回2死二、三塁で空振り三振を喫したことを悔やんだ。2月の春季キャンプで「残り何本になったら意識するか?」という問いにも、「10本…いや、1本かな」と答えていたから、この日の福浦の思いは手に取るように理解できた。
シーズンを通して、チームの勝利のために集中。「勝たないと意味がないよ」。安打を放っても、負ければコメントはたいていはこんなもの。なかなかに記者泣かせではある。だが、それがファンをひきつける裏表のない福浦の魅力の1つだと感じる。
(ロッテ担当・芳賀宏)
ロッテは救援陣が1点リードを守り切れず、土壇場の9回2死で逆転されて今季ワーストの連敗が8に伸びた。井口監督は「後ろを任せている2人で打たれたら勝てない。課題は多い」と険しい表情だった。
8回に福浦の通算2000安打目となる二塁打をきっかけに勝ち越し、3−2で迎えた9回、松永が連打でピンチを招くと、救援した内が2死一、二塁で山川に逆転3ランを浴びた。本拠地での7連戦は全敗で終わった。
プロ野球ロッテの福浦和也内野手(42)が22日、千葉市のZOZOマリンスタジアムで行われた西武戦の8回に小川龍也投手から右越え二塁打を放ち、史上52人目の通算2000安打を達成した。42歳9ヶ月での到達は2015年6月に42歳11ヶ月で達成した和田一浩(中日)に次ぐ2番目の年長達成となった。
通算2000安打を達成したロッテの福浦は飾らない言葉で心境を語った。
ロッテ・福浦和也内野手(42)が22日、西武24回戦(ZOZOマリン)の8回に右越え二塁打を放ち、プロ野球52人目の通算2000安打を達成した。
金字塔到達を祝い、二塁上の福浦に花束を持って駆け寄ったのは、ともに球界最年長野手としてプレーする西武・松井稼頭央外野手(42)だ。同じ1993年ドラフトでプロ野球への道を歩み出した同期。「おめでとう」と声をかけたときの福浦の万感の表情に「あれを見て僕も泣きそうになった」と思いをかみしめた。
自身は楽天時代の2015年にNPB2000安打を達成した。ともに名球会入りを果たした盟友を「満身創痍の中でね…。同級生の誇りです。ずっと刺激し合いながらやってきた選手。目の前で(達成の瞬間を)見られて、本当に良かったです」と祝福した。
プロ野球ロッテの福浦和也内野手(42)が22日、千葉市のZOZOマリンスタジアムで行われた西武戦の8回に小川龍也投手から右越え二塁打を放ち、史上52人目の通算2千安打を達成した。42歳9ヶ月での到達は2015年6月に42歳11ヶ月で達成した和田一浩(中日)に次ぐ2番目の年長達成となった。
福浦は千葉県習志野市出身。千葉・習志野高から1994年にドラフト7位でロッテに投手として入団。1年目に野手に転向し、故郷のチーム一筋に25年間活躍してきた。
ロッテ・福浦和也内野手(42)は22日、西武24回戦(ZOZOマリン)の8回に西武4番手・小川から右越え二塁打を放ち、プロ野球52人目の通算2000安打を達成した。
「6番・DH」で出場した福浦はこの日、第1打席は中飛、第2打席は遊飛、第3打席は四球だった。先頭打者で打席に入った8回の第4打席、カウント2−2から鋭い当たりの打球を放ち、一気に二塁まで到達した。
二塁ベース上では、プロ野球同期の西武・松井稼頭央外野手に続き、ロッテ・井口資仁監督、角中勝也選手会長、同期入団の大塚明外野守備走塁コーチから花束、福嶋明弘打撃投手から記念のボードを受け取り、ファンの声援に応えた。
ロッテは22日、福浦和也内野手(42)が前日21日の西武戦で1999安打を記録したことを記念した「FUKUMETERコレクションカード1999」をZOZOマリン入場ゲート(レフトゲートを除く)で開場から試合終了後30分まで、先着2万5000枚を配布する。2014年9月9日、自身12度目のサヨナラ打がデザインされている。
1995安打目から安打を放った翌ホームゲームから配布しているもので、22日に2000安打を達成した場合は26日の楽天戦(ZOZOマリン)で配布予定。
ロッテは22日の西武戦(ZOZOマリン)のチケットが午前7時までに販売予定枚数が完売となったと発表した。当日券の販売も行わない。
福浦和也内野手(42)が前日21日に1999安打目を放ち、通算2000安打の達成が期待される。チケット担当者は「1999安打を記録したときからウェブを中心に問い合わせが殺到し、試合後は前売りチケット売り場に長蛇の列ができました」と説明した。
ロッテ・福浦和也内野手(42)が22日の西武戦で8回に右越え二塁打を放ち、史上52人目となる通算2000安打を達成した。球団では68年の榎本喜八、85年の有藤道世に次いで3人目。93年ドラフト会議では、12球団で1番最後の64番目に指名され、入団1年目に投手から打者転向した。42歳9ヶ月で到達は、42歳11ヶ月の和田一浩(中日)に次ぐ史上2番目の年長記録。千葉で生まれ育った「幕張の安打製造機」は26年目の来季も現役を続行する。
右翼線への打球を見つめながら走った。二塁へ到達した瞬間、左手を千葉の空へ突き上げる。ここまでは無心。満員御礼となった3万19人のファンは総立ち。はたと気づいた福浦は客席へ両手を上げる。四半世紀で2000安打を積み上げた男も我を忘れるほど、格別の1本だった。
「無意識に走って、無意識にガッツポーズして、訳分からなかった。プロ初安打もそうだったけど、これだけ皆さんが喜んでくれた。だから(1番は)この1本ですね」。
節目の一打は8回無死、左腕・小川の127キロスライダーをつかまえた。今季苦しんだ首痛は左投手の変化球を空振りした際、しびれが走る。再発した場合、数試合欠場のリスクもあったが、この日最後の可能性の高い打席で覚悟を決めて振り抜いた。
腰痛や脇腹痛など09年の通算1500安打達成から9年。残り38本でスタートした今季は5月に体調不良。体重は5キロ減り、82キロとなった。2軍降格も経験。「(2000安打に)1番近く現役を終わったのは誰?」と周囲に聞くほど、ゴールが見えなくなった時もあった。
それでも積み上げた技術がある。18歳の夏。運命を左右する打者転向の試験と知らず、打撃練習で快音を響かせた。投手として入団も左肩、肘を痛め、走り込みでは何度も嘔吐。当時の山本功児2軍打撃コーチの判断でバットを握らされた。ケン・グリフィー、イチローらの打撃フォームをマネすることから始めた。
ただ、3年目まで1軍出場のない背番号70。「おまえ、コーチか?」のヤジも飛んだ。戦力外通告も覚悟した時、当時の広野功2軍打撃コーチに救われた。体の正面にしていたバットの位置を頭の後ろへ置き、1度引く動作を省くことで見極める「間」ができた。そしてイチローがメジャー移籍した01年、首位打者にも輝いた。
努力の天才。「スイングスピードが遅いんですよ」。試合用の900グラムを速く振れるように、練習では1.3キロを使う。打撃チェックはアナログ派。テレビの画面に無数の印を付け、頭や尻などの位置を確認する。93年ドラフトで最後に名前を呼ばれた男が地道に努力を積み重ねた。
試合後、福浦は監督室を訪れて「厳しいです」と首の状態は限界と伝えた。治療に専念するべく、出場選手登録を1度抹消される。ただ、ユニホームはまだ脱がない。「来年もやるつもり。まだまだ、若手にも教え、自分もしっかりやる」と現役続行を宣言した。
05、10年の日本一は敵地での胴上げとビールかけだった。「マリンで、ファンの皆さんの前で井口監督を胴上げしたい」。生まれ育った千葉にある本拠地でのリーグ優勝&日本一。背番号9は偉業達成の日、もう1つの夢を語った。
ロッテ・福浦が22日西武戦の8回に小川から二塁打を放ち通算2000安打を達成した。プロ野球52人目、チームでは榎本喜八、有藤道世に次ぎ3人目。初安打は97年7月5日オリックス戦でフレーザーから。42歳9ヶ月での達成は和田一浩(中)の42歳11ヶ月に次ぐ年長記録。2234試合は谷繁元信(中)の2803試合、大島康徳(日)の2290試合に次ぐスロー到達で、左打者では最年長かつ最も遅い記録になった。
通算1500安打は1428試合でクリアしたものの、その後に806試合と苦戦。1500安打達成後の2000安打までの試合数としては谷繁の745を上回り最多だ。通算10盗塁(盗塁死17)は2000安打達成者で最少。
福浦は93年ドラフト7位で投手としてプロ入り。投手登録は94年だけで1、2軍ともに登板なしも、投手登録を経験し2000安打は石井琢朗(広)に次ぎ5人目。ドラフト制以降、7位以下の達成者は7位の福本豊(阪急)、ドラフト外の秋山幸二(ダイエー)、石井も含めると4人目の快挙だ。また、初安打を4年目に打った遅咲き。2000安打到達者のうちプロ3年目に初安打は野村克也(西)、前出の大島、駒田徳広(横)といたが4年目以降にプロ1本目を記録し2000本の大台は福浦が初めてだ。
偉業を成し遂げたロッテ・福浦和也内野手(42)が、本紙へ独占手記を寄せた。現役25年目でたどり着いた2000安打。気付けば00年に46歳で亡くした母の年齢に近づいた。プロ4年目のオフに結婚、支えてくれた妻、2人の息子の成長は打席に立つ力となった。バットのグリップに名前を書く「家族」へ−。感謝の言葉をつづった。
スタンドでは家族が見届けてくれた。21日の試合も見に来てくれていたから、昨日の夜は自宅で謝った。だから打ててよかった。
今でも続ける儀式がある。試合前、バットのグリップに家族の名前を書く。最初は00年に46歳で亡くしたおふくろに見守って欲しかったからだった。今は妻、2人の息子、昨年亡くなった妻の母。まだ元気なおやじの名前は書かないけど1番近くで支えてくれた。感謝を伝えたいね。
おふくろは99年に余命宣告を受けた。いずれは自分も順番が来ることだと分かっているけど、亡くなった年は気持ちも落ちたし、精神を保てなかった。オールスターに出る姿を見せたいと頑張ったけど(直前の6月にこの世を去って)かなわなかった。
マリンスタジアムがまだガラガラだった頃、おふくろはおやじと毎日のように応援に来てくれた。千葉の小さな団地住まい。共働きだった。自分より4歳下と11歳下の弟もいた。苦しい生活の中、3兄弟全員に野球をやらせてくれたし、相当、苦労していたと思う。おやじがたまに相手をしてくれたけど、友達も少なく、近所のブロック塀がキャッチボール相手だった。
小さい頃には三輪車でブロック塀に突っ込み、大ケガしたこともある。左投げになったのは3歳の頃、滑り台から落ちて右手を骨折したからだと聞いた。今でもやろうと思えば両手を使えるんだよ。心配ばかりかけた子供時代だったと思う。
ただ、親になった自分はと言えば野球以外、家のことはほぼやらない。食器を下げたり、休日に風呂を沸かすくらい。だから、嫁はよくやってくれる。ナイターが終わり、深夜、帰るまで起きたままで食事を用意し、自分は早朝に起床し、子供の世話とか本当に頭が下がる思いだよ。
自宅で野球の話はほとんどしない。ヒットを打った日は「1本打ったね」とか、言うことはあるけどね。ただ、リビングには「FUKU−METER」付きボブルヘッド人形がたくさんあって、ヒットを打って帰ると数字が増えているんだ。こっそり、息子達がやってくれてるんだろうけど、球場では意識しなかった2000安打を「(残り数が)減ったなあ」と唯一、実感する瞬間だった。
中2の長男はサッカーをやっているけど、小4の次男は野球が好きみたい。素振りのマネとかもしてるけど、どうするんだろう。これだけ家にいない父親もどうかと思うけど、これから先も「夢」はいっぱいありますよ。野球だけじゃないし、子供が結婚するとかね。その1つ1つを楽しもうと思います。ただまずはおふくろの墓参りに行って「ありがとう」と伝えたいね。
(千葉ロッテマリーンズ内野手)
日米通算2254安打を放ったロッテ・井口資仁監督(43)が、福浦の打撃技術を「特別解説」した。13枚の連続写真から見えたものは「懐の深さ」と「ヒッティングポイントの幅の広さ」だった。
一言で表現するならば「柔らかい打者」だ。自分はどちらかといえば硬い。左打者は柔らかいと広角へ打てる。福浦は足が速くないし、打席から一塁に近い左打者なのに内野安打が少ない。それでも2000安打に到達できたのは、広角に強いライナーで飛ばせる技術にあると思う。
しっかりトップを取って振り抜くから、レフト方向へライナーが打てる。しっかり軸回転で打てている。
足を上げた時、すでに投手と間合いが合っている。右足を地面につく直前にはボールを捉えている。打てない打者はタイミングを取りつつ、合わせるからトップが取れなくなる。
スイングが始まりボールを捉えるまで幅があるのも特徴だ。最終的に1番速い直球をカットするポイント。彼の場合は左腰前になるが、普通の人はその前後幅が50センチくらいなのに、その倍の1メートルはある。柔らかいし、下半身も使える。タイミングを外されても膝を使って打つ。本当に幅のある選手ですね。
年々、スイングが強くなっているし、打撃練習でも距離が出ている。チャンスで信頼できるし、相手も嫌がる。5回からストレッチし、準備を完璧にやる。結果の裏に何倍もの努力がある。だから今季は兼任打撃コーチ(コーチ枠の関係で途中解除)を託した。技術だけではない。彼には若い選手へその経験を伝え、いい伝統をつないで欲しい。
(千葉ロッテマリーンズ監督)
99年まで習志野高野球部の監督を務めた石井好博氏(69)もロッテ・福浦の快挙を喜んだ。「歯を食いしばり、やった結果だと思う。よく我慢して頑張った」。
高校時代は左腕エースとして活躍し、ドラフトでも投手でロッテに7位指名されたが「おとなしい子でね。しょっちゅう私から怒鳴られていた。投手としては並より上だけど、打者としての柔らかさは(教え子で通算349本塁打の元阪神)掛布(雅之)と比較しても遜色なかった」と振り返る。当時の球団担当スカウトだった伊達泰司氏には「将来的には打者がいい」と告げたという。福浦卒業から25年がたったが、現在もオフになると一緒にゴルフでラウンドするという。
フーキ(Fuuki=福浦の愛称)、おめでとう!彼のスイングは本当に美しい。指揮を執っていた時、グリフィーやイチローのスイングをビデオで見比べたものだよ。類似点がたくさんあったね。
全盛時、故障さえなければ常に3割を打つ実力があった。走るのは得意ではなかったから、内野安打は稼げなかったけど、それでも常に3割を打ったのは注目に値する。打撃術はずぬけていた。日米で20年以上、監督をする機会に恵まれたが、多くの選手の中でもトップ5〜10に入っていた。メジャーに来ても3割を打っていただろう。日本と同じように二塁打を量産して、本塁打は10〜12本かな。
05年に日本一になった時はチームリーダーだった。日本シリーズ第3戦で満塁本塁打を打った際、フィールドであんなに感情をむき出しに喜んでいる姿を見たのは、あの時だけ。今でも当時の笑顔が目に浮かぶ。メジャーの話はしたことがあるけど、日本に残ってプレーすることを望んだ。彼にとって千葉のファンの前でプレーすることが重要だったし、私も彼のそんな気持ちが嬉しかった。
彼ほど打つことを楽しんでいる選手はそうはいない。将来、彼が打撃コーチの道を選択しても、監督になっても、全く驚かないよ。
(元ロッテ監督、ボビー・バレンタイン氏)
球場で2000安打の瞬間を見た。よく頑張ったの一言だ。ロッテ・福浦という男は野球に対して真面目。1球たりとも無駄にしない。
投手として入団し僕らとは違う苦労を重ねて、自分の型をつくり上げた。投手も打者もフォームが自分に合うかどうかで決まる。福浦はトップから打つ瞬間にグリップを少し上げる。その使い方を習得したことでここまで安打を積み重ねることができた。
ここ数年はケガもあった。「もうやめよう」と思っても不思議でなかったが、彼を支えたのは「2000本打ちたい」という意欲ではなく、野球に対する探究心だと思う。だから到達できた。「ミスターロッテ」の称号は、僕もそうだけど皆さんが与えてくれるもの。彼はいい指導者になる。それまではたくさん苦労した方がいいよ。
(スポニチ本紙評論家)
12球団屈指の評判を誇る応援歌も、ロッテ・福浦の偉業を後押しした。その名曲を作ったのが96年からロッテの応援団に所属し、現在楽天のコンテンツ部に所属する神俊雄氏(38)だ。
「福浦選手の応援歌は、5曲くらい作ったが、今の曲は11年から。前奏が壮大なイメージで。千葉出身なので“千葉の誇り胸に”という言葉を応援団で考えました」と振り返る。1番こだわったのは「不屈の闘志を見せてくれ」の歌詞。「長い間、現役を続けて欲しい」という気持ちを込めた。新人時代から、スタンドで見つめてきた思い入れのある選手で、97年8月1日の西武戦(千葉マリン)の初本塁打は、鮮明に覚えている。「ここ何年かは苦しんでおられたと思いますが、大記録を達成されて大変嬉しく思います」と祝福した。
1月からロッテ担当になった。同姓の福浦に、私は熊本出身と言うと「うちもおやじは熊本」と返ってきた。
千葉で生まれ育ったが、父方の出は熊本県芦北町だそうだ。「おやじの実家は駄菓子屋でね。お菓子がたくさんあった」。父は八代一(現・秀岳館)の野球部だったことなど、熊本ネタはひとしきり盛り上がった。親戚以外の「福浦さん」に会うのは初めてだった。姓氏研究家の森岡浩氏によれば「福浦」の全国順位は4200位近辺。珍しくはないが、1番、多いのはその芦北町。私の実家は別の町だが、先祖をたどればどこかでつながるかもなどと想像を巡らせ、勝手に「運命だよな、これは」と思っている。
(ロッテ担当・福浦健太郎)
1991年8月以降、ロッテ主催試合で場内アナウンスを務める谷保恵美さんもZOZOマリンで福浦2000安打達成の瞬間に立ち会った。
「感慨深いです。初安打は覚えていませんが、いつもオフに球場に来て練習をしていた福浦選手が、1軍に初昇格してきたことは鮮明に覚えています」。
前日21日の試合後には福浦がプロ初安打を放った97年7月5日のスコアブックを見た。「こんなメンバーだったんだなぁと。オリックスにはイチローさんもいらっしゃいましたね」とあの優しい口調で、しみじみと振り返った。
今年5月には1軍のアナウンス試合が1700試合に達した。選手名の語尾を伸ばすコールは「マリン名物」にもなっているが、福浦の場合「ふくぅ〜らぁ」と伸ばし方は控え目。「“ら”の発音が難しい。福浦選手のコールはまだ完成形が見つからないんです」と思わぬ悩みもある。
ただ、プロ26年目の来季も現役続行を決めているベテランとのコラボはまだ、続く。谷保さんは大台の「2000試合」だけでなく「福浦コール」の完成も目指していく。
ロッテの福浦和也内野手(42)が22日の西武戦(ZOZOマリン)で8回に二塁打を放ち、プロ野球史上52人目の通算2000本安打を達成した。
福浦は「6番・DH」で先発出場。8回の第4打席に西武・小川から二塁打を放ち、ロッテ一筋25年目、“幕張の安打製造機”が2315試合目で、ついに偉業を成し遂げた。ロッテでは、68年に榎本喜八、85年に有藤道世が達成して以来33年ぶり3人目。42歳9ヶ月での到達は、2015年6月11日に42歳11ヶ月で達成した和田一浩(中日)に次ぐ史上2番目の年長達成。
試合後のインタビューで福浦は「来年もやるつもり」と現役続行を明言。今季は5月までは打撃コーチ兼任だったが「まだまだ、もっと若手を教えて皆を良くしたい」と語った。
また、これを聞いたロッテ・林信平球団本部長も「派手ではないが、職人的でプロらしいプロ野球選手。いつまでやるかは自分で決めてくれたらいい。納得いくまでやって欲しい」と称えた。
ある時「福浦」のルーツについて話したことがある。同姓の私は熊本県出身だと伝えると「うちもおやじは熊本なんですよ」と意外な共通点があった。
千葉県浦安市で生まれ、習志野市で育った。習志野高から入ったロッテでは現役25年目。フランチャイズプレーヤーの代表格だが、父の出身地は熊本県葦北郡芦北町である。
「福」と「浦」−。ありふれた漢字二文字の組み合わせの「福浦」だが、家族や親戚以外で会うのは初めてだ。姓氏研究家の森岡浩氏(57)によれば、「福浦」の全国順位は4200位近辺。「最も多いのは熊本と鹿児島の県境付近。この地域は肥後国葦北郡福浦村(熊本県葦北郡芦北町)がルーツ。今も芦北町に特に集中しています」と森岡氏。先祖をたどればどこかでつながるのかもしれない。
「父方の祖父母の家は駄菓子屋でね。帰省した時、お菓子がたくさんあって楽しかった。じいちゃんにグローブを買ってもらったのをよく覚えていますよ」。父親は八代一(現秀岳館)の野球部に在籍していたことなど、練習中にほとんど無駄話をしない男が、共通項「熊本」のキーワードに多弁になった。
私は昨季まで20年間、福岡で勤務し、14年間、地元のプロ野球担当だった。ロッテ・福浦のことは気になる存在だったが、今年1月に東京転勤し、担当となったシーズンに偉業が達成された。大げさかもしれないが「運命」に引き寄せられた不思議な縁を感じてしまった。
(ロッテ担当・福浦健太郎)
ロッテの福浦和也内野手(42)が22日の西武戦(ZOZOマリン)で8回に二塁打を放ち、プロ野球史上52人目の通算2000本安打を達成した。
福浦は「6番・DH」で先発出場。8回の第4打席に西武・小川から二塁打を放ち、ロッテ一筋25年目、“幕張の安打製造機”が2315試合目で、ついに偉業を成し遂げた。ロッテでは、68年に榎本喜八、85年に有藤道世が達成して以来33年ぶり3人目。42歳9ヶ月での到達は、2015年6月11日に42歳11ヶ月で達成した和田一浩(中日)に次ぐ史上2番目の年長達成。
通算2000安打まで残り38本で迎えた今季。首痛と戦いながらも安打を重ね、今月9日の西武戦(メットライフD)では15年4月9日以来、実に1249日ぶりの本塁打を放った。この日は西武・今井の前に2回の第1打席は中飛、4回の第2打席は遊飛、6回の第3打席は四球だった。2−2で迎えた第4打席の8回には先頭で打席に入り、7球目を右越えへ弾き返し、塁上ではガッツポーズも飛びだした。
福浦は93年のドラフトで千葉・習志野高校からドラフト7位で投手として入団。94年に打者転向し、97年7月5日のオリックス戦でフレーザーからプロ初安打を記録した。
ロッテは福浦和也内野手(42)が、21日の西武戦(ZOZOマリン)で1999安打を記録したことを受けて「FUKUMETERコレクションカード1999本」(写真は2014年9月9日の西武戦で放った通算12本目のサヨナラ打)の配布を22日の埼玉西武戦(同)で行うと発表。配布場所はZOZOマリン入場ゲート(左翼ゲートを除く)。配布時間は開場〜試合終了後30分間まで。先着2万5000枚。
この企画は1995安打目からヒットを放った翌ホームゲーム(1試合最大1枚の配布。複数安打を放った場合はさらに翌ホームゲーム。ホームゲーム日毎に繰り越して配布)に配布しているもの。
ロッテ・福浦和也内野手(42)が、通算2000安打へあと1本として臨む9月22日の西武戦(ZOZOマリン)の入場券は22日の午前7時までに完売となった。当日券の発売はしない。
チケット担当者は「大勢のお客様に前売チケットをご購入いただき、誠にありがとうございました。福浦選手が1999安打を記録した時からインターネット中心に問い合わせが殺到し、21日の試合後は前売りのチケット売り場に長蛇の列が出来ました。改めて目前に控えている記録の偉大さと福浦選手の人気を感じました」とコメントした。
ロッテの福浦が、西武戦(ZOZO)の8回に小川から右越え二塁打を放ち、プロ野球52人目の通算2000安打を達成した。42歳9ヶ月での到達は、2015年に42歳11ヶ月で達成した和田一浩(中日)に次ぐ史上2番目の年長記録。94年にドラフト最下位の7位で投手としてプロ入りし、ロッテ一筋25年。誰よりも地元・千葉のファンから愛される男は総立ちになった観客から大歓声を浴びた。
大歓声に包まれた打球は右翼線で大きく弾んだ。福浦は勢いよく一塁を蹴って二塁へ滑り込んだ。8回先頭。左腕・小川のスライダーを仕留めた2000本目の安打は通算388本目の二塁打。「訳が分からなかった。咄嗟に気持ちが出た」。普段はクールな男がガッツポーズを繰り出し、喜びを爆発させた。西武の同級生・松井から花束を受け取ると自然と笑みがこぼれた。
小学1年で父・元生(もとお)さんの影響で野球を始めた。学校から帰ると自宅の団地の壁に目掛けて1人で的当てをしたのが原点。幼少期は大の巨人ファンで篠塚や吉村のプレーを食い入るように見た。中学に進むと甲子園のスター、PL学園の「清原・桑田」に憧れた。「やっぱりKKでしょ。あそこまでの選手になるのは無理だけど、千葉の子供達に憧れを持ってもらえるように。そうなれたら嬉しいよ」。真摯に野球と向き合い続け、今では誰からも愛されるヒーローとなった。
4年目の97年7月5日のオリックス戦(千葉マリン)でフレーザーから中前に初安打を放ち打者人生がスタート。努力を惜しまず、自分が「すごい」と思う打者の映像を見てはモノマネした。右打者では清原、小久保、江藤。左打者ではイチローと大リーガーのケン・グリフィーJr.の打撃フォームに大きな影響を受けた。金字塔への第一歩を記して7749日目での到達に「2000本は正直、厳しいと思っていた。ここまでやれるとは思っていなかった」と感慨深そうに語った。
「生みと育ての親」に捧げた一打でもあった。00年6月に母・千江子さんが46歳で死去。以降はバットのグリップエンドに最愛の母の名を書いて、共に打席で戦ってきた。プロ1年目に打者転向を勧めた当時2軍コーチの山本功児さん(享年64)は「あの勧めがなかったら今の自分はない」という恩人だ。「告別式には参加したけど、墓前には行けてない。良い報告をしたいね」と誓いを立ててシーズンに臨んだ。これで天国の2人に「ありがとう」が言える。
試合後には「来年もやるつもりです」と現役続行を宣言した。球団も将来の幹部候補にコーチ兼任で契約を打診する見込みだ。球界最年長野手として迎える26年目に向け、“幕張の安打製造機”はまだ歩みを止めない。
ロッテ・福浦和也内野手(42)がプロ野球史上52人目、球団では3人目となる通算2000安打を達成した。習志野高時代の監督である石井好博氏(69)はスポーツ報知に祝福の手記を寄せた。
福浦君、通算2000安打おめでとう。高校入学当時は1学年3〜40人が入ってくる大所帯で福浦君は数多い中の1人という印象だった。最初に入ってきた時は野茂の「トルネード投法」みたいな投げ方だったから、「さすがにそれはやめて普通に投げろ」と言ったことを覚えています。打つ方は1年から試合に出して4番を打たせていた。ロッテの担当スカウトだった伊達泰司さんがウチに来て、「是非、獲りたいです」という話をされた。それを聞いて君には「チャンスがもらえるのなら何巡目でもいけよ」と声を掛けた。どっちかというと打者の方がいいなと思っていた。今年で25年目。ここまでよく頑張ってきた。
高校時代で印象に残っていることは“遅刻事件”だね。栃木に遠征に行く時に出発時間になっても来なかった。寮に泊まっていたのに。他の選手が「福浦がいません」って言ってきた。「ばか野郎!寮にいるのにそんな訳ないだろ」って言ったんだけど、本当に来なくて、そのまま置いて出発した。後からお父さんと一緒に栃木に来た。そういう、すっとぼけたところがあったな。30分前集合が当たり前だったから、前代未聞。後にも先にも福浦しかいない。そういう意味ではスケールがでかかったのかな(笑)。せっかく来たから2試合目には使ったけどね。福浦にとってみれば嫌な思い出かもしれないけどね。あの時は来なかったら他の試合も2、3試合はベンチにも入れなかったと思う。遅れてでも来たから許したんだ。
高校最後の夏の千葉大会では3回戦で野田北に負けた。延長戦入って2死二塁のピンチ。一塁が空いていたから敬遠の指示を出したら、1球目に外の直球でストライクが取れちゃった。そこで色気が出ちゃって勝負に行ったら、打たれて負けた。試合後に「試合には負けたけど、人生に負けた訳じゃないから、これからの頑張り次第でこの負けは取り戻せる」と話した。あの言葉が生きてくれていたら、ありがたいなと思う。
近年はケガもあって厳しかったと思う。昨年の春先に沖縄に行った時に教え子の小川君(ヤクルト監督)に会った。そこで「もし福浦がクビになったら、ヤクルトで取ってやってくれ。君が監督の間に2000本打たせてやってくれ」とお願いしたことがあった。小川君はその時は笑ってたけどね。ロッテでダメでも何とかして打ってもらいたかった。2000安打は達成したけど、これでゴールじゃない。体に気をつけてまだまだ現役を続けて欲しい。
(元習志野高野球部監督・石井好博)
ロッテ・福浦和也内野手(42)がプロ野球52人目の通算2000安打を達成した。試合後の会見では達成時の思いや、来季への思いも惜しみなく語った。
ロッテ・福浦和也内野手(42)がプロ野球52人目の通算2000安打を達成した。試合後の会見では達成時の思いや、来季への思いも惜しみなく語った。
ロッテの井口資仁監督(43)が2000安打を達成した福浦和也内野手(42)の出場選手登録の抹消を決めた。
指揮官は試合後、「首のあれ(痛み)もある。本人とも話をして『心身ともに限界です』となった。力を振り絞っての2000本だった。本人も『空振りするのが怖い状態で、何とか気が張っていて(達成)できた』と話していた」と抹消の理由を打ち明けた。
今後は23、24日の仙台・大阪への遠征には帯同しないものの、治療を優先しつつ、1軍で兼任コーチとして若手への指導にも携わる予定だ。
また、福浦は試合後の会見で来季について現役続行を宣言。井口監督は「さらに2000本からヒットの数を増やしていって欲しい」と期待を寄せた。
ロッテ・二木康太投手(23)が先発し、6回途中7安打4四球2失点で降板。1ヶ月ぶりの4勝目を逃した。
1−0の2回に2四球を与え2死一、二塁のピンチを招くと木村の左前適時打で同点とされた。
1−1の6回には先頭の4番・山川から3連打を浴びて勝ち越しを許した。その後、2死満塁とピンチを広げたところでベンチに下がり、5戦連続で白星をつかめなかった。
ロッテの福浦和也内野手(42)がプロ野球史上52人目の通算2000安打を達成した。チームでは榎本喜八、有藤道世に続き3人目の快挙だ。
プロ25年目、ロッテ一筋のベテランは「あと1」で迎えたこの日の西武戦に6番指名打者でスタメン出場。2回先頭の第1打席は中飛、4回先頭の第2打席は遊飛、6回1死一塁で迎えた第3打席は四球。8回先頭で迎えた第4打席、西武4番手の小川から7球目を右越えへ二塁打。大台を達成した。
ロッテは福浦和也内野手(42)の2000安打達成がかかっている22日の西武戦(ZOZO)のチケットが午前7時までに完売したと発表した。なお、当日チケットの販売はしない。
チケット担当者は「大勢のお客様に前売チケットをご購入いただき、誠にありがとうございました。福浦選手が1999安打を記録した時からWEBを中心に問い合わせが殺到し、試合後は前売りチケット売り場に長蛇の列が出来ました。改めて目前に控えている記録の偉大さと福浦選手の人気を感じました。当日チケットの販売はございませんので、予めご了承ください」と話した。
習志野高時代の福浦を担当した伊達泰司元スカウト(67)が“運命の糸”で結ばれていた獲得までの経緯を振り返り、快挙へのエールも送った。
地元じゃなくても 福浦をドラフトで指名したのは1993年。92年に川崎から千葉マリンに移転したばかりで、当時の重光(昭夫)オーナー代行が地域密着化を進める上で「地元の選手を獲ろう」という流れがあった。2位で拓大紅陵の立川(隆史)を指名して、福浦を7位で獲った。
習志野の試合は2度ほど見に行ったんですけど、その2度とも活躍したんですよ。打って、抑えてね。他球団も気になっていたらしく、球場に足を運んだみたいですけど、その時に限って活躍しなかったみたい(笑)。他のスカウト達はみんな「ダメだったなあ」と口をそろえていた。それで「これは獲れるな」と思って、獲得リストに載せた。
福浦本人は「獲ってくれたのは千葉出身だったからでしょう」と、ずっと私に言ってましたが、そうじゃない。打撃もよかったし、見込みがあったからで、当時の木樽正明スカウト部長に「最後までリストに残してください」と、お願いした。他球団のスカウトが見に行っていた時も活躍していたら、他の球団に行ってたかもしれないなあ。
投手で入団して、すぐに打者に転向し、ワンチャンスをものにして2000安打は目前。スカウトを辞めてもう何年にもなりますが、ここまでやってくれて担当スカウトとしては本当に嬉しい限り。あと、もう一踏ん張りです。
ロッテの福浦和也内野手(42)がZOZOマリンスタジアムで行われた西武(24)戦の八回に右越え二塁打を放ち、史上52人目の通算2000安打を達成した。42歳9ヶ月での到達は、42歳11ヶ月で達成した中日・和田一浩に次ぐ史上2番目の年長記録となった。 42歳の福浦が大輪の花を咲かせた。八回だった。左腕・小川の2−2からのスライダーを振り切った。右越えの二塁打。珍しく塁上で両拳を前に突き出し、笑顔でガッツポーズを取った。
「最初のヒットがマリンだったし、千葉で生まれてZOZOで達成できた。幸せなことです」。初安打は4年目の97年7月5日の千葉マリンスタジアムでのオリックス戦だった。
千葉・習志野高では左腕エース兼4番打者で鳴らした。だが、エリートではない。ドラフト7位での入団だ。1年目の94年夏。18歳の福浦は醍醐2軍監督から打者転向を打診された。「早かったからね…ショックだった」と振り返る。
醍醐監督の意を受けた山本功児2軍打撃コーチが強く打者転向を勧めた。プロで生き抜くために転向を選び、同コーチの指導を受けてガムシャラにバットを振った。「今のボクがあるのは山本さんのおかげです。言葉には言い表せない」と感謝する。
土台を構築して1軍に定着したが、打撃の試行錯誤を常に重ね続けた。「いかにして力を抜くかです」という境地に達し、01年には自身初となる首位打者のタイトルを獲得した。
ファンの声援が支えだった。プロ1年目の挫折、打撃面の成長と苦悩、母、恩人・山本コーチの死、そして逆らえぬ年齢との闘い…。ファンは四半世紀に及ぶ福浦の生きざまに自らの人生を重ねる。『俺たちの福浦』。この言葉が全てを物語る。同期入団の西武・松井から受け取ったお祝いの花は、25年に及ぶ汗と努力の匂いがした。
ロッテの福浦和也内野手(42)がZOZOマリンスタジアムで行われた西武(24)戦の8回に右越え二塁打を放ち、史上52人目の通算2000安打を達成した。42歳9ヶ月での到達は、42歳11ヶ月で達成した中日・和田一浩に次ぐ史上2番目の年長記録となった。福浦の通算2000安打達成に際し、入団時の2軍監督だった醍醐猛夫氏(79)が当時の思い出、秘話をデイリースポーツに寄せた。
背番号「70」のルーキー福浦は、身じろぎもせずに私の話をジッと聞いていた。
「打者に転向したらどうだろう」。
94年、球宴前の暑い日だった。ロッテ浦和球場の監督室に福浦を呼び出してそう伝えた。福浦は前年の93年度ドラフトの7位指名で投手として入団した習志野高のエースである。だが、彼は入団早々に肩を痛め、キャッチボールもままならない日々を送っていた。
そんなある日。某コーチが私に耳打ちした。「福浦が練習を終えると必ず室内練習場で打ち込んでいますよ」。そっと見に行った。いい打球を飛ばしていた。一目でこれは、と思った。ステップした時に肩が残っている。腰が早く開かない。これは打者のみならず、投手にも言えることで、私は成功への条件だと思っている。
私は山本功児2軍打撃コーチに「福浦を注意して見て欲しい」と頼んだ。山本コーチもその後、「いいですね」と言ってきた。肩さえ癒えれば投手として戦力になりそうだったが、私は1軍で1日でも早く活躍するなら打者だという結論に達した。
木樽スカウト部長にこの旨を相談した。彼は千葉出身で、エース兼4番打者の福浦を高く買っていた。返事は「醍醐さんにお任せしますよ」だった。
あれから24年。まさかここまでの打者になるとは思ってもみなかった。あの日、福浦はどんな気持ちで私の話を受け止めたのか。聞いてみたい。
2000安打を達成したロッテ・福浦和也内野手(42)が、来季も現役を続行する意思を示した。
「やるつもりでいます。もっともっと若手の成長に(向けて)教えたい」。球団幹部は「本人に聞いてからですが、こちらからどうこう言う選手ではない」と受け入れる考えを明らかにしている。
井口監督も「まだ野球人生は続くと思うので、この先も頑張って欲しい」とエール。来季は5月に抹消となっていた打撃コーチを兼任することが濃厚だ。
ロッテの福浦和也内野手(42)が22日、ZOZOマリンスタジアムで行われた西武24回戦の8回に小川から右越え二塁打を放ち、史上52人目の通算2千安打を達成した。42歳9ヶ月での到達は、2015年6月11日に42歳11ヶ月で達成した和田一浩(中日)に次ぐ史上2番目の年長達成。ロッテでは1968年の榎本喜八、85年の有藤道世に次いで3人目。
福浦は97年7月5日のオリックス戦に先発してプロ初出場を果たすと4回にフレーザーから初安打をマーク。25年目の今季は残り38本からスタートして、開幕から82試合目の出場で到達した。
ロッテ・福浦和也内野手(42)がプロ野球史上52人目の通算2000安打を達成した。「6番・DH」で先発出場した福浦は8回、無死。左腕の小川から右翼線二塁打を放ち、大台に到達した。ベース上で万歳。同期生の西武・松井、ロッテ・井口監督などから花束をもらい、感無量の表情を浮かべた。
福浦は75年12月生まれで現在42歳9ヶ月。2000安打達成は15年に42歳11ヶ月で記録した和田一浩(中日)に次ぐ史上2番目の高齢記録となる。
ロッテ生え抜きでは68年の榎本喜八、85年の有藤道世以来で、3人目となる。92年の千葉マリン移転後は初の選手となる。
今季は2000安打へ残り「38」として迎えた。自主トレから開幕へ向け、早めの調整を心がけた。
開幕戦から先発出場を果たし、4試合連続安打を記録するなど幸先のいいスタートを切った。
だが、5月17日には出場選手登録を抹消された。4月26日の楽天戦以来、18打席無安打で、「体がしんどい。力が入らない」と話したように、5、6月はコンディション不良もあっていずれも月間1安打だった。
シーズン中は体中の古傷と年齢との闘いだったが、それでも夏場以降に成績を上げて踏ん張った。
9月に突入してからは複数安打や3年ぶりの本塁打などでラストスパートしていた。
満員のファンから祝福の大歓声。福浦は「最初のヒットがマリンだったし、地元の千葉で出れば最高」と話していたが、その願いはかなった。
初安打は97年7月5日・千葉マリンスタジアムでのオリックス戦だった。「7番・一塁」での1軍初スタメン。4回にフレーザーから放った。
習志野高の左腕のエース・兼4番として、93年のドラフトで7位の入団だった。ドラフトの最終指名選手となり、支配下選手枠70人の最後で、このことから背番号は「70」となり、98年に現在の背番号「9」となる。
入団直後から左肩、ヒジを痛めて立ち投げもままならず、1年目94年、球宴前に打者転向を打診された。1ヶ月悩み続けて転向を決断。「言葉では表せない」という“恩人”の山本功児2軍打撃コーチらに指導を受けて頭角を現した。97年から1軍に定着した。
ロッテ・福浦和也内野手(42)が通算2000安打達成したことを受け、元チームメートの楽天・今江年晶内野手(35)が祝福のコメントを寄せた。
「2000安打達成おめでとうございます。ロッテにいた頃は、福浦さんは常にヒットを打っているイメージでした。あの頃のロッテの野手は、福浦さんの素晴らしいバッティングを見て育ちましたからね。
その福浦さんが2000安打を打つまで苦労されているのを見て、改めてすごい記録なのだなと思いました。できれば生で見たかったですね」。
また、習志野高校の後輩にあたる楽天・山下斐紹捕手(25)も、大先輩に祝福のコメントを寄せた。
「2000安打を達成されて、本当に嬉しく思います。福浦さんは、いつもグラウンドで挨拶に行くと、気さくに挨拶を返してくださる偉大な先輩です。
前回、残り4本のときに2試合対戦したときは、打って欲しいと思う反面、打たれたくないという気持ちで戦わせていただきました。これからは少しでも偉大な先輩に近づけるよう僕も頑張ります」。
2000安打に王手をかけた福浦和也内野手(42)が「6番・DH」で先発出場した。9試合連続のスタメンで、打順は21日の「8番・DH」から上がっての登場となった。
2回に先頭打者として最初の打席に入り、今井が1−0から投じた146キロのストレートをたたいたが、中飛だった。
第2打席は4回。やはり先頭打者で、2−2から低めの球に手を出して遊飛だった。
第3打席は6回1死。一塁に井上を置いて四球だった。満員のファンからはため息がこぼれた。
ロッテは22日、福浦和也内野手(42)が21日の西武戦で1999安打を記録したことを受けて、「FUKUMETERコレクションカード1999本」の配布を同日に行うと発表した。
これは1995安打目からヒットを放った翌ホームゲーム(1試合最大1枚の配布。複数安打を放った場合はさらに翌ホームゲーム。ホームゲーム日ごとに繰り越して配布)で配布する企画。
22日、2000本安打を達成した場合は26日の楽天戦(ZOZOマリンスタジアム・18時15分試合開始)で、「FUKUMETERコレクションカード1999本」のカードを来場者に配布する。
ロッテは22日、福浦和也内野手の2000本安打がかかった同日の西武戦のチケットが午前7時までに販売予定枚数完売になったと発表した。当日チケットの販売はない。
チケット担当者は「大勢のお客さまに前売チケットをご購入いただき、誠にありがとうございました。福浦選手が1999安打を記録した時からWEBを中心に問い合わせが殺到し、試合後は前売チケット売り場に長蛇の列ができました。改めて目前に控えている記録の偉大さと福浦選手の人気を感じました」とホクホク顔だった。