わたしはかもめ2018年鴎の便り(9月)

便

9月22日

千葉ロッテ3−5埼玉西武(ZOZOマリン)

西武が逆転で今季2度目の8連勝を飾った。2−3の9回2死一、二塁から山川の43号3ランで試合をひっくり返した。4番手の小川に2年ぶりの勝利が付き、9回はヒースが締めて10セーブ目。ロッテは逃げ切れず8連敗を喫した。

123456789R
埼玉西武0100010035
千葉ロッテ1000010103

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ロッテ福浦、ドラフト最下位から下剋上2000安打[ニッカン]

雨上がりの空に歓喜の「ふくうら」コールがこだました。ロッテ福浦和也内野手(42)が22日、西武24回戦(ZOZOマリン)の8回に右越え二塁打を放ち、史上52人目の通算2000安打を達成した。42歳9ヶ月での到達は、15年に42歳11ヶ月で達成した和田一浩(中日)に次ぐ2番目の年長記録。93年ドラフトの最終7位指名で入団した男が、ひたむきに25年をかけて偉業を成し遂げた。

滑り込んだ二塁上で思わず左こぶしを突き上げた。「ほっとしてる感じです。長かった−」。福浦は8回の最終打席、先頭で小川のスライダーを引っ張った。加速した打球が右翼手の横を抜ける。今は2人だけになった球界最年長野手、西武松井が花束を持って歩み寄ると、顔をくしゃっとほころばせた。祝福の時を、西日が柔らかく照らした。

「ここまでやれるなんて、誰も思ってなかったよ」。紙一重の野球人生を歩んできた。25年前、プロになれる選手となれない選手の境目にいた。ドラフト指名は64選手中64番目。呼ばれなければ社会人の大昭和製紙(静岡)に進むつもりだった。「でもそこの野球部、2年後に廃部になった。行ってたら今頃、紙つくってたかもしれない」。

入団当初は左投手。支配下選手最大の背番号「70」を与えられた。アリゾナキャンプでは選手で唯一、裏方さんと同部屋に。「スタッフ採用?」「裏方ドラ1」とささやかれた。

最大の転機は1年目の初夏。打撃センスを買われ、山本功児2軍打撃コーチから野手転向を打診された。まだ投げたかった。半ば押し切られる形で受諾。「あれがなければ僕はいない。投手を続けたら今頃、(ロッテ社員で)お菓子つくってたかもしれない」。

4年目で1軍戦初出場。母の病死を乗り越え、01年に首位打者を獲得して「幕張の安打製造機」と呼ばれるようになっても、順風満帆にはいかなかった。07年、右脇腹痛で6年連続打率3割が途切れた。振るのが怖くなった。「選手生命の危機なんて毎年感じてた。気力だよ」。今季も首痛に苦しんだ。衰えを受け入れ、フォームは毎年変えた。

いつしか代打が当たり前と思っていた。今春、鳥越ヘッドコーチの言葉にハッとした。「まさか代打で出る気じゃないだろうな」。偉業後押しへ、井口監督も積極起用の方針を固めた。6月には1ヶ月無安打の時期もあったが、不屈の闘志でマクった。開幕前の残り38本は「ゼロ」になった。

千葉に生まれ、千葉の高校から地元球団に進み、良いときも悪いときもロッテ打線を牽引してきた。歴代年長2位の42歳と9ヶ月。1500安打から9年を要し、25年の歳月をかけてマイルストーンを打ち立てた。「2000本に近づくたび、みんな『寂しい』って言うんだよ」。誰からも愛された。

史上初の、ドラフト最下位からの「下克上」2000安打。次の目標は明確だ。「井口監督を何とかマリンで胴上げしたい。優勝をみんなで分かち合いたい。来年もやるつもりです、まだまだ」と現役続行を明言。「俺たちの福浦」の物語はまだ、終わらない。

福浦和也(ふくうら・かずや)
1975年(昭50)12月14日、千葉県習志野市生まれ。習志野ではエースで4番(甲子園出場なし)。93年ドラフト7位でロッテに入団し、1年目の94年夏に打者転向。4年目の97年に1軍初出場。01年首位打者。01〜06年に6年連続打率3割以上。03年のシーズン50二塁打は01年谷(オリックス)の52本に次ぐ歴代2位。ベストナイン1度、ゴールデングラブ賞3度。今季は5月まで打撃コーチ兼任。183センチ、88キロ。左投げ左打ち。今季推定年俸3500万円。

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幽霊疑惑にマリンの都市伝説も/ロッテ福浦こんな人[ニッカン]

ロッテ福浦和也内野手(42)が22日、西武24回戦(ZOZOマリン)の8回に右越え二塁打を放ち、史上52人目の通算2000安打を達成した。42歳9ヶ月での到達は、15年に42歳11ヶ月で達成した和田一浩(中日)に次ぐ2番目の年長記録。

◇福浦和也こんな人

物真似王
若い頃は、宴会部長だった。福山雅治の物真似が得意で「こんばんは、福山雅治です」とラジオの語り口をまねして、そこから福山の歌を歌うのがお決まり。先輩達から「やれよ」と言われ期待にこたえていた。松山千春もおはこ。打撃フォームも、物真似が基礎。イチローとケン・グリフィーJrを合わせて自分のフォームにした。ボンズらも真似したが、合わなかったらしく取り入れなかった。まだフォームが固まっていない頃、2軍の試合で毎試合違う選手を物真似しながら打っていた。
帰っちゃった
寮を出る3年目までは寝坊、遅刻の常習犯だった。レン・サカタ2軍監督から「ゴー、ホーム」と怒られて、本当に帰ってしまったこともあった。その後、中学時代に通ったそろばん塾で知り合った夫人との結婚もあり、意識が変わった。
はっちゃく
デビュー間もない頃はいじられ役だった。試合にそんなに出ていないのに、凡退して帰って来た先輩に「あのスイングじゃ打てないですね」と言ってのけた。別の先輩から言わされているのだが、可愛がられた。当時はやったテレビドラマ「あばれ はっちゃく」みたいだな、ということで名付けられた。
リスペクト
投手から野手転向を指示するなど、野球人生を導いてくれた故山本功児氏を尊敬。子供の名前に「功」の字をもらったほど。
手がはやい
小宮山悟から一塁牽制時のタッチの速さを「日本一速い」とほめられた。
起きない
飛行機ではどんなに揺れても爆睡できる。プロ1軍初昇格の時は秋田から羽田へのフライト。強風で飛行機が飛ばないかもしれないほどだったが爆睡した。またある時は目的地に着いても起きず、チームメートがみんな降りてしまい、誰もいなくなった機内で目を覚ました。
ロッテガム好き
ブラックブラックガムが好きで、試合前に30〜40枚ぐらいをベンチの自分の席に置く。試合中にだいたい食べてしまう。
いたずら好き
弟子入り志願してきて可愛がっていた大松(現ヤクルト)の帽子とサングラスを瞬間接着剤でくっつけた。サングラスは帽子のつばの上に固定。「あれっ取れない」となった。また若手選手の私服を冷蔵庫に入れたことも。入れられた選手によると「パリパリになった服を広げて着て帰るんですけど、風呂上がりだと服がすぐ温まって着られるんです」。クリーニングから上がってきた若手選手のユニホームで汗だくの頭をつるりと拭いて、きれいにたたみ直して置いておいたこともあった。他にも、駐車場のコーンを誰かの車に載せておくのもよくやった。バンパーの隙間に挟まっていたこともある。
幽霊疑惑
オフの納会ゴルフや食事をした後でも、ZOZOマリンでウエートトレーニングを行う。午前2時ぐらいにやることもあったため、幽霊と間違われた経験もある。若手選手の間では「夜中にマリンに行くと福浦さんに会える」と都市伝説に。ある選手は「最初に姿を見た時は感動しました。一緒にやらせてもらいました。福浦さんはやらないといけないメニューがある時は、夜中でもやるんです。福浦さんのこと、悪く言う人っているのかなって思うぐらい、いい人です」。
オールドスタイル
俊足ではないが、ユニホームのズボンの裾を上げ、オールドスタイルの着こなしをする。これは用具メーカーへの敬意からの行動で、スパイクのロゴがしっかり見えるようにという配慮。
大食漢
食事の量が半端でない。焼き肉としゃぶしゃぶの両方を楽しめる店で、しゃぶしゃぶ10人前をたいらげると「さあ、焼き肉にしましょう」と、焼き肉も10人前をペロリ。42歳になった今でも、焼き肉を食べながら大ライスを2杯半、食べ終わって店を出るとはしごしてラーメンライス。さらに「おみや」と言いながらドーナツを買い込む。ラーメンやドーナツは「おとこ気ジャンケン」で一緒にいた仲間のうちジャンケンに勝った人がおごる。

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05年チーム「最高」/福浦、サブロー“兄弟”対談[ニッカン]

あんなことも、こんなこともあった。ロッテ福浦和也内野手と、今夏日刊スポーツで「編成部長」を務めた前ロッテ・サブロー氏(42)が“兄弟”対談。1年違いでロッテに入団した先輩、後輩コンビが、笑える話から真面目な話まで赤裸々に振り返り、大台到達を祝った。

「おお、兄弟」。久々に再会した2人は、がっちりと握手をかわした。思い出話は入団当時へさかのぼる。

サブロー
「昔話といえば23年前、俺の買ったばっかの黄色いソファに福浦さんが焼きそばひっくり返した。あれ絶対忘れへん。一口も食わずに。『UFO』つくってあげたのにやで。」
福浦
「俺の部屋が厳しい寮長の横でさ。サブは1軍行ったり来たりしてたから、サブがいないとき勝手に使わせてもらってたね。」
サブロー
「俺の部屋住んでたもんな。でも2000本なんて当時じゃ考えられへんかった。すげえな。」
福浦
「すごくはねえよ。」
サブロー
「すげえよ。」
福浦
「昔は一緒にビデオ見たりもしたな。」
サブロー
「試合前、試合後はビデオルーム集合やった。夜中まで。なかなか帰らんかった。」
福浦
「見ないと、自分でどうなってるか分かんないもん。感覚とのずれが小さければ、スランプが短くなる可能性はあるよね。」

互いのフォームをチェックし、好打者の映像を見る研究会が日課だった。

サブロー
「試合前は落合さんとかイチローさんとか見て。ホームラン集とかヒット集とか、1時間も2時間も。あと福浦さんは昔、毎日物真似してた。ファームの試合で、今日は(巨人)松井さんでいくわ、今日は(広島)前田さんでいくわって。」
福浦
「関節が違うからさ。物真似しても、自分の骨盤の位置とかあるから。結局は自分のスイング。」
サブロー
「でもうまかったよ。色々やって、行き着いたのがイチローさんや。それでめっちゃ打ち出した。あの物真似が上達の早道やったと思うんよね。」
福浦
「イチローさんにはオリックスのとき、直接打ち方を聞いたこともある。胸を見せるなって言われた。ピッチャーに対して。体が開いたようになるから。」
サブロー
「基本中の基本やん。それを、イチローさんが言うから意味がある。 先輩としての福浦は、とにかく優しかったという。」
サブロー
「人間的には、常に人に好かれる。何でも包み込んでくれる。そういう人って大体出世しないと思うんやけど、珍しいタイプ。でも野球選手的にはめちゃくちゃストイックやね。特に体鍛えることについては。正月の夜中にマリン行くんやで。」
福浦
「前は行ってたね。今は禁止になっちゃって。」
サブロー
「引退するとき、福浦さんに一早く風呂場で相談した。(11年に)トレードで(巨人へ)出たときも寂しかったやろ?」
福浦
「寂しかった。すぐ帰ってこいって言ったよな。そしたらすぐ帰ってきてくれた(笑)。」

家に帰れば、2児の父。

福浦
「この夏休みは1回だけ一緒に遊びに行った。バッティングセンター。手本?見せないよ(笑)。(中2の)長男と(小4の)次男が黙々と打ってた。」
サブロー
「それ、息子も野球やりたいんちゃうん?」
福浦
「変なプレッシャーかかっちゃうからね。小さい頃は一緒にディズニーランドとか行ったけど、段々親と出掛けなくなるよね。」

話題は現在、そして未来を描く。

サブロー
「いつか、もう1回2005年のチームつくりたいよな。福浦監督のときに(笑)。」
福浦
「あれ最高だね。ほんとに強かった。みんな3割打って、先発ピッチャーはみんな2ケタ勝ってた。」
サブロー
「ファンも喜ばせたいな。福浦さんとまた仕事したい。」
福浦
「したいね。」

やっと届いた、2000安打。

福浦
「あれよあれよで来ちゃったね。あ〜、癒やされたいなあ。」
サブロー
「ディズニーランド行こや、そんときは。」
福浦
「イッツアスモールワールドだな(笑)。」
05年のロッテ
ボビー・バレンタイン監督のもと、レギュラーシーズン2位からプレーオフを制しリーグ優勝。日本シリーズは阪神に4連勝して日本一に上り詰めた。「マリンガン打線」と呼ばれた野手陣は高卒入団の今江、西岡らが台頭。投手は渡辺、清水(現投手コーチ)ら6人2ケタ勝利。「YFK」薮田、藤田、小林(現投手コーチ)のリリーフ陣も活躍した。

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ロッテ福浦「2000本厳しいと思った」/一問一答[ニッカン]

ロッテ福浦和也内野手(42)が22日、西武24回戦(ZOZOマリン)の8回に右越え二塁打を放ち、史上52人目の通算2000安打を達成した。42歳9ヶ月での到達は、15年に42歳11ヶ月で達成した和田一浩(中日)に次ぐ2番目の年長記録。

≫今の気持ちは。
福浦
「大勢のファンの前で、マリンで決められて嬉しい。無意識に二塁まで走って、ガッツポーズして、訳が分からなかったです。」
≫8回の打席は。
福浦
「相手も西武で、同級生の松井稼頭央君もいたので、その前で達成したかった。同期入団で一緒にやってきた。喜びも倍増でした。」
≫なかなか安打数が増えない時期もあった。
福浦
「正直2000本は厳しいなと思っていた。ここまで野球を続けさせてくれた球団、監督、コーチ、選手、裏方さん、みんなに感謝したいなと思います。」
≫25年目で達成。
福浦
「プロ4年目で初めて1軍に上がってから、1打席も無駄にしないでやってきた結果だと思います。」
≫印象に残る安打は。
福浦
「やっぱり今日ですかね。これだけみんなが喜んでくれたので。」
≫今朝家族との話は。
福浦
「いつも通りです。昨日も見に来てくれてたので何とか達成できれば良かった。家族には謝りました。」
≫明日からの出場は。
福浦
「疲れは正直あります。今年は最初コーチ兼任という形で、若い選手にもっと色々教えてあげたい気持ちもあります。」
≫1番やりたいことは。
福浦
「嫁さんにまずは電話入れて。あとはショートメールもすごい数なので、きっちりみんなに返したい。」
≫安打とは。
福浦
「難しい質問。引退までに考えておきます。」

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ロッテ福浦「待ってるから」里崎氏の心に響いた言葉[ニッカン]

ロッテ福浦和也内野手(42)が22日、西武24回戦(ZOZOマリン)の8回に右越え二塁打を放ち、史上52人目の通算2000安打を達成した。42歳9ヶ月での到達は、15年に42歳11ヶ月で達成した和田一浩(中日)に次ぐ2番目の年長記録。

僕が打てるようになったのは、福浦さんのおかげだ。プロ入りした時に思ったのは、1番すごい人の真似をしようということ。ロッテに入った僕にとっては、それが福浦さんだった。鹿児島・鴨池でのキャンプ中、正面から下投げしてもらった緩い球をセンターバックスクリーンに向かって打つ。いわゆるロングティーをしていた福浦さんに「一緒にやらせてもらっていいですか?」と聞いたのが始まりだった。

120メートル先のバックスクリーンに、競うように入れ合った。左右にずれてもダメ。どっちが多く入れるか、とゲーム性を持たせて楽しみながら打つうちに力がついた。そもそも、打撃フォームからしても福浦さんの真似だった。左打ちと右打ちの違いはあるけど、鏡を見ているようで真似しやすかった。ビデオの映像を流し、画面にテープを貼って、相手投手のクセや自分の打撃フォームの崩れを見抜く方法を教えてくれたのも福浦さんだったし、感謝しきれない。

一緒に長い時間を過ごす中で、今だから言える忘れられない話もある。04年4月のことだ。東京ドームでの試合で左ひざの半月板を割ってしまった。これは手術しかないな、と思った。その日は福浦さんと試合後に、横浜アリーナへBoAのコンサートに行く約束をしていた。福浦さんは「さすがに無理だな、サト。やめようか?」と気遣ってくれた。でも僕は「何言ってるんですか。どうせ明日、病院に行って、診てもらって手術になるんです。だったら今日は楽しみましょう」と強行した。

左足を引きずりながら歩く僕に、福浦さんはずっと肩を貸してくれた。横浜アリーナで周りの人から「あ、福浦だ!!里崎だ!!」と指をさされたけど、おかげで楽しめた。そして想定どおり手術が決まって、チームを離れる時に「待ってるからな」と声をかけてくれた。「頑張れ」と言ってくれる人ばかりだった中で、福浦さんの「待ってるから」は、すごく心に響いた。そのおかげで1ヶ月で戻れたんだと思う。

いつも「ありがとうございます」と、ばかり言ってたけど、今日は「おめでとうございます」と言える。一緒に過ごした日々を振り返りながら2000安打を祝福したい。
(日刊スポーツ評論家・里崎智也)

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大松、今江ら「見て育ちました」福浦2000本祝福[ニッカン]

ロッテ福浦和也内野手(42)が22日、西武24回戦(ZOZOマリン)の8回に右越え二塁打を放ち、史上52人目の通算2000安打を達成した。42歳9ヶ月での到達は、15年に42歳11ヶ月で達成した和田一浩(中日)に次ぐ2番目の年長記録。

ヤクルト小川監督(習志野高の先輩)
「スカウトの時に習志野の3年生で、左投手だけど打撃も非常にいい選手で、リストに入れていた。ドラフト下位指名でここまで来るのは努力のたまもの。結果は気にしていました。あらためて、おめでとうと言いたいです。」
ヤクルト大松(ロッテ時代の後輩)
「いつ何時でも変わらぬ準備と、ひたむきに野球に取り組む姿に尽きると思います。僕もそういう姿をいつも追いかけながら、やってきました。1本でも多く安打を打ち続けてください。」
巨人高橋監督(同じ千葉出身で同学年の福浦に)
「一昨年、昨年、今年と頑張れという話をしてきた。立場は変わったが今年の春も『あと何本だ、いけそうだな』という話をしていた。夏前にはどうかなという感じだったから良かった。」
巨人上原(福浦と同学年で昭和50年会を結成)
「同級生として、嬉しいです。簡単なことでない。50年会でLINEでつながっているので、おめでとうと打ちました。」
オリックス西村ヘッドコーチ(ロッテで選手、コーチ、監督としてともに戦った)
「嬉しい。長い間、一緒にやってきた選手だから。努力が結びついた、いいお手本。」
楽天今江
「ロッテにいた頃は、福浦さんは常にヒットを打っているイメージでした。あの頃のロッテの野手は福浦さんの素晴らしいバッティングを見て育ちましたからね。その福浦さんが2000安打を打つまで苦労されているのを見て、改めてすごい記録なのだなと思いました。できれば、生で見たかったです。」
楽天山下(習志野高の後輩)
「いつもグラウンドで挨拶をしに行くと、気さくに挨拶を返してくださる偉大な先輩です。前回、残り4本の時に2試合対戦した時は打って欲しいと思う半面、打たれたくないという気持ちで戦わせていただきました。少しでも近づけるよう僕も頑張ります。」

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ロッテ福浦、4年目デビューで2000安打到達は初[ニッカン]

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ウグイス嬢の谷保さん、験担ぎに福浦の初安打見返す[ニッカン]

ロッテの主催試合で場内アナウンスを務める名物ウグイス嬢の谷保恵美さん(52)も、福浦の2000安打を祝福した。谷保さんの1軍デビューは91年8月で、今年6月には1500試合連続アナウンスを達成した“鉄人”だ。

前ロッテのサブロー氏が打席に入る際の「サブロ〜〜〜」コールに加え、福浦の「ふくーら〜〜」もZOZOマリン名物。

大台にマジック1となった前日21日は、験担ぎに福浦がプロ初安打を放った97年7月5日のスコアブックを見返したという。

「ここで打った1本目から見ているので感慨深いです。オリックス戦だったんですけど、スコアブックを見たらイチローさんも出てました」と懐かしんだ。

「若い時から休みの日もいつも球場に来て練習してました。昔はここの上に事務所があったので、私もオフシーズンも行ったり来たりしてたんですけど、いつもいました。その姿を思い返すとジーンとしました」と感激していた。

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ロッテ福浦「本当にやれるとは」一問一答(1)[ニッカン]

ロッテ福浦和也内野手(42)が史上52人目の通算2000安打を達成した。

会見での一問一答は以下の通り。

≫今の気持ちは。
福浦
「大勢のファンの前で、千葉マリンで決められたのが嬉しいです。花束もらった時とか、みんなにお祝いしてもらった時に実感が湧きました。」
≫重圧は。
福浦
「僕自身はないと思っていましたが、毎回毎回声援がすごくて、ちょっとはプレッシャーになった。」
≫8回の打席は。
福浦
「延長にならなかったら最後の打席になるかもしれなかった。何とか相手も西武で、同級生の松井稼頭央君もいたので、その前で達成したかった。やっぱり今日これだけたくさん見に来てもらったので、何とかあの打席で決めたいという気持ちは、いや、1打席目から決めたい気持ちはあったんですけど、なかなか打てなかったので最後に打てて良かったです。」
≫松井選手に花束を渡された気持ちは。
福浦
「同期入団で、今まで一緒にやってきて。最年長野手で頑張ってきましたから。同級生の前で決めたい思いもありましたし。最初は花束持っていけないと聞いていたんですけど、今日来てもらったので、逆にまた喜びも倍増でした。」
≫チームメートからも笑顔で迎えられた。
福浦
「昨日ぐらいからファームの根元とか岡田とか荻野貴司とか。金沢とか。みんな見に来てくれてましたし、そういう人の前で打てたのも良かったと思います。」
≫地元のファンの前で達成できた点は。
福浦
「監督もずっとZOZOマリンでと言われていたので、本当に僕自身も今週で決めたい気持ちあったんですけど、なかなかヒットも重ねられないで。何とか今日決めたい思いはありました。」
≫ファンへの思いは。
福浦
「これだけいつも温かく、どんな時でも応援してくれるので、僕の中では力になってます。あれだけのファンの前で打てたのも嬉しかったです。まさかここまで来られるとは思ってなかった。球団をはじめ、監督、コーチの皆さんが後押ししてくれて、選手のみんなも裏方さんもトレーニングコーチも、色々なたくさんの人に支えられて達成できたと思います。」
≫なかなか安打数が増えない時期もあった。
福浦
「正直2000本は厳しいなと思っていた。本当にやれるとは思ってなかったですけど。ここまで野球を続けさせてくれた球団、監督に感謝したいなと思います。」
≫ケガとの戦いもある中で、福浦選手を突き動かしたものは。
福浦
「色々な人の支えですね。監督もそうですし、コーチーやチームメートもそう。ファンの2000本という期待のためにも、気持ち、気力は感じてやってました。」
≫プロ生活25年。
福浦
「毎試合、毎試合大事ですけど、プロ4年目、初めて1軍に上がってからここまで1打席も無駄にしないでやってきた結果だと思います。」
≫印象に残る安打は。
福浦
「やっぱり今日ですかね。僕の中でもほっとした。プロ2打席目で初ヒット打った時もそうでしたけど、今日がやっぱり、これだけみんなが喜んでくれたので今日だと思います。」
≫今後は。
福浦
「井口監督を何とかマリンで胴上げしたい。僕自身もマリンでファンの皆さんの前で胴上げしたことない。マリンで胴上げしたいという気持ちがあります。」

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ロッテ福浦「来年もやるつもり」一問一答(2)[ニッカン]

ロッテ福浦和也内野手(42)が史上52人目の通算2000安打を達成した。

会見での一問一答は以下の通り。

≫二塁ベース上で考えたことは。
福浦
「無意識に二塁まで走って、無意識にガッツポーズして。訳分からなかったです。ベンチでいつも僕がヒット打った時は喜んでくれるので、その時はガッツポーズしますけど。あれは咄嗟に自分の気持ちが出たんだと思います。」
≫今朝家族との話は。
福浦
「いつも通りです。昨日も見に来てくれてましたし。何とか昨日達成できれば良かったんですけど、そうなかなか甘くない。家族には昨日も謝りましたし、今日打てて良かったです。」
≫福浦さんにとって継続することとは。
福浦
「僕は当たり前のことを当たり前に毎日やっている。ルーティンというか。それはほとんど変わっていない。試合に出る以上はしっかり準備してやるというのは、いつも自分の中で思ってます。」
≫体の状態は。
福浦
「分からないです。気持ちでやっているので。試合に出る以上は痛いも言ってられない。そこはやるしかない。」
≫明日からの出場は。
福浦
「やりたい気持ちはありますが、連戦が続いたので、疲れは正直あります。今年は最初からコーチ兼任という形でやらせてもらって。終盤あたりから2000本がかかると裏方さんもみんな気を使ってくれた。僕自身も他の若い選手に教えることはできなかった。もっと色々教えてあげたい気持ちもあります。」
≫ケガもある中で気持ちをつなぎとめていたものは。
福浦
「監督も選手もそうですし、裏方さんも、みんな打ってもらいたい気持ちがあったと思いますし、その気持ちに応えないといけない。気持ちでやってました。」
≫地元でプレーを続けていることは。
福浦
「幸せなことだと思います。ここまで野球をやらせてもらって。千葉県で生まれて、ZOZOマリンで達成できたことは幸せなことだと思います。」
≫来年は。
福浦
「来年もやるつもりです。まだまだ。やっぱりもっと若手に教えて、自分もしっかりやって、もっともっとみんなを良くしたい気持ちはあります。」
≫松井稼頭央選手との会話は。
福浦
「『おめでとう』『ありがとう』ぐらいです。また今度ですね。」
≫ここで満足せずに、来年を目指す理由は。
福浦
「1番は今日みんなに喜んでもらったのが。リーグ優勝だったり、もっと今いる選手と喜びを分かち合いたい。」
≫今1番やりたいことは。
福浦
「家族にもまだ電話できていない。嫁さんにまずは電話入れて。あとはショートメールもすごい数になっているので、きっちりみんなに返したいと思います。」
≫今の気持ちは。
福浦
「ほっとしている感じです。長かったですかね。やっぱり長かったです。達成したらそうでもないんですけど。毎日毎日やっていると長く感じました。」

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ロッテ福浦2000安打「ずっと見てきた」井口監督[ニッカン]

本拠地をチームカラーの白に染めたロッテファンの「フクウラコール」が鳴りやまない。練習中まで降った雨はやみ、西日が差し込んだ超満員のZOZOマリンで、ロッテ福浦和也内野手(42)が史上52人目の2000安打に到達した。

3打席無安打で迎えた9回無死からの第4打席。応援歌「俺たちの〜フクウラ〜」に乗って集中力を高める。2ストライク2ボールからの7球目、127キロのスライダーを右翼線に運んだ。両手を上げ、大歓声に帽子を取って応える。プロ入りも同じ年で、ともに球界最年長42歳の西武松井から花束を受け取って抱き合った。代走で交代すると、ベンチ前で全選手に迎えられた。球場のボルテージが最高潮に達する中、続く鈴木のバントが相手失策を誘い、勝ち越し点を奪った。

プロ25年目の今季は、残り38本からスタート。シーズン中は首痛にも悩まされた。6月3日から7月4日までは1ヶ月以上無安打と苦しんだ時期もあったが、満身創痍(そうい)の中、1本ずつ積み重ねてきた。

それでもチームは9回2死一、二塁から西武山川に逆転3ランを浴びて8連敗。福浦の節目を勝利で飾ることはできなかった。

井口資仁監督は「色々ケガもあった中で、マリンで打ってくれた。今まで積み重ねてきたものをずっと見てきた」とたたえた。

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ロッテ福浦2000安打で稼頭央が花束「喜び倍増」[ニッカン]

ロッテ福浦和也内野手(42)が22日、西武戦で通算2000安打を達成した。

直後の会見では冒頭に「大勢のファンの前で、この千葉マリンで決められたのが嬉しい。花束をもらった時とか、みんなにお祝いしてもらった時に実感がわきました」と話した。

二塁ベース上で、ともに球界最年長野手とし切磋琢磨してきた西武松井から花束を渡されたシーンを振り返り「同期入団で一緒にやってきて、同級生の前で決めたいと思っていた。喜びが倍増でした」と笑顔を見せた。

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ロッテ福浦が現役続行宣言「監督を胴上げしたい」[ニッカン]

22日の西武戦で通算2000安打を達成したロッテ福浦和也内野手(42)が、来季の現役続行を明言した。

達成後の会見で「来年もやるつもりです、まだまだ」と表明。

今後の目標について「井口監督を何とかマリンで胴上げしたい。僕自身もここマリンで、ファンの皆さんの前で胴上げしたい思いはあります」と話した。

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西武松井稼頭央「泣きそうに…」同期福浦の快挙祝福[ニッカン]

西武の松井稼頭央外野手(42)が、同期の節目を祝福した。

8回、ロッテ福浦が2000安打を達成した際に、グラウンドで「おめでとう」と笑顔で花束を手渡した。

若手の頃から励まし合ってきた仲間で、現在は球界最年長野手としてプレーを続けている2人。同期だからこそ知る苦労もあり、松井は「西武戦で、そういう場面に立ち会えたらいいなと思っていた。目の前で(達成を)見ることができて嬉しい。花束を渡せて、泣きそうになりました」と振り返った。

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[プロ野球番記者コラム]福浦に不思議な巡り合わせ、奇跡の好機逃さず金字塔[ニッカン]

ロッテ福浦和也内野手がプロ通算2000安打の偉業を達成した。

福浦がニヤニヤしながら話しかけてきたことがある。「知ってますか?○○さんがカラオケ教室に通っているらしいですよ。昨日、『絶対に言わないでよ』って言ってました」。ロッテ浦和球場の三塁側ベンチ。共通の知人のささやかな秘密をあっさりバラしているのにもかかわらず、あっけらかんとして本当に憎めない。ある意味、奇跡の才能だ。

奇跡といえば、1軍デビューも、様々な偶然をくぐりぬけて生まれた。97年7月4日、福浦はイースタン・リーグの遠征で秋田にいた。その日は移動日で試合はなく練習。ちょうど福浦が特打をしている時に2軍マネジャーの携帯が鳴った。1軍の近藤監督が打者の昇格を求めていた。「だれかいるか?」との問いに、山本2軍監督は特打の行われているケージを見ながら「福浦はどうですか?」と投手から野手に転向して3年目を迎えた男の名前を口にしていた。

秋田から羽田に帰る便はその日はもうなく、翌日早朝に移動することになった。7月5日の1軍戦はオリックス戦。デーゲームだった。しかし、あいにくの強風。飛行機は飛ぶのか飛ばないのか?そんな状況だった。せっかくのチャンスがふいになってしまうかもしれない。周囲の心配をよそにガンガン揺れる機内で福浦は爆睡。コンディションも良く、無事に試合前練習中のチームに合流した。

待っていたのは「7番一塁」でのスタメン出場。4回、フレーザーの高めに浮いたスライダーを中前へ運び、プロ初安打を記録した。そこからのサクセスストーリーはロッテファンなら誰もが知っている。6年連続の打率3割など、主軸として戦い続けた。

だが、もし近藤監督から山本2軍監督への電話が、福浦の特打のタイミングではなかったら?翌日の秋田発羽田行きの飛行機が強風のために飛ばなかったら?福浦が揺れる機内では寝られない体質だったら?近藤監督がスタメンで使ってくれなかったら?フレーザーのスライダーが低めに決まっていたら?福浦はそんな紙一重を切り抜けてチャンスをモノにした。いずれ世に出てくる才能だったかもしれない。だが、2000安打達成は、もう少し遅かっただろう。人柄も選手としても、まさに奇跡の人と言える。

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現役では広島新井が最上位/2000安打達成者一覧[ニッカン]

ロッテ福浦和也内野手(42)が、日本プロ野球史上52人目となる通算2000安打の偉業を達成した。8回の第4打席、西武小川から右越え二塁打を放ち大台に到達した。42歳9ヶ月での達成は、42歳11ヶ月で達成した和田一浩(中日)に次ぐ、史上2番目の年長記録となった。

過去2000安打以上放った選手は以下の通り。

[注]※は現役。所属は現役最終。福浦以外の通算安打数は2018年9月21日現在

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ロッテ福浦、有藤以来33年ぶり球団3人目の偉業[ニッカン]

ロッテ福浦和也内野手が日本プロ野球史上52人目となる通算2000安打の偉業を達成した。球団では榎本喜八が1968年7月21日の近鉄戦で、1985年7月11日に有藤通世が阪急戦で達成して以来、33年ぶり3人目となった。

日米通算まで含めると井口が2013年7月26日に楽天戦で田中将大投手(現ヤンキース)から本塁打を放ち、達成している。

42歳9ヶ月で達成した福浦は、42歳11ヶ月で達成した和田一浩(中日)に次ぐ、史上2番目の年長記録。

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ロッテ福浦が偉業2000安打!史上2番目年長記録[ニッカン]

ロッテ福浦和也内野手が、日本プロ野球史上52人目となる通算2000安打の偉業を達成した。

8回無死、西武小川から二塁打を放ち大台に到達した。

97年にマリン球場で放ったプロ初安打から足かけ21年。93年のドラフト会議で最後の64人目(ドラフト7位)に指名された男が同じZOZOマリンで2000安打にたどりついた。

順風満帆ではなかった。習志野高時代、140キロを超える速球でならし、投手として入団したが、肩の故障で苦しんだ。そんな最中、山本功児元打撃コーチ(16年4月に他界)の勧めもあり打者転向を決断した。94年から3年間、1軍での出場はなかった。

のちに「幕張の安打製造機」と異名を取った広角打者の才能は、2軍での下積み時代に培われた。97年7月5日のオリックス戦でプロ初出場初安打。同年67試合に出場し一塁手でレギュラーの座をつかんだ。01年に打率3割4分6厘で初の首位打者を獲得。05年のバレンタイン監督政権下、不動の3番打者として31年ぶりの日本一に貢献した。

福浦は、06年まで6年連続3割をマークし球界屈指の好打者として君臨した。07年以降、腰痛など相次ぐケガに苦しんだ。1軍での出場試合数も徐々に減少した。98年から11年まで14年間、主力として100試合以上出場してきた福浦だが、16年はわずか36試合出場にとどまった。

それでも2000安打を目前にして、諦める訳にはいかなかった。満身創痍の体にムチを打った。12年からは苦難の道が続く。シーズン50安打に届かない安打数を大事に、1本1本、積み上げた。ロッテではもちろん、球界でも西武松井稼頭央と並ぶ球界最年長野手。42歳9ヶ月で達成した福浦が、42歳11ヶ月で達成した和田一浩(中日)に次ぐ、史上2番目の年長記録で金字塔を打ち立てた。

福浦和也(ふくうら・かずや)
1975年(昭50)12月14日、千葉県生まれ。習志野高から93年ドラフト7位で投手としてロッテに指名された。入団後、肩の故障で打者に転向。初出場は、97年7月5日のオリックス戦(千葉マリン)に「7番・一塁」で先発。同試合でウィリー・フレーザーから初安打を記録した。01年に打率3割4分6厘で初の首位打者を獲得。10年に指名打者でベストナイン、03、05、07年に一塁手でゴールデングラブ賞を受賞。今季は内野手と1軍打撃コーチを兼任してスタートしたが、2000安打に集中するため5月にコーチ登録を抹消し、偉業達成に専念。183センチ、88キロ。左投げ左打ち。血液型B。

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ロッテほくほく、今日西武戦チケット福浦王手で完売[ニッカン]

ロッテは22日の西武戦のチケットが、午前7時までに販売予定枚数を完売したと発表した。当日券は販売しない。

福浦和也内野手が前日21日に通算1999本目の安打を放ち、2000安打に王手をかけている。チケット担当者は「大勢のお客様に前売りチケットをご購入いただき、誠にありがとうございました。福浦選手が1999安打を記録した時からWEBを中心に問い合わせが殺到し、試合後は前売りチケット売り場に長蛇の列ができました。あらためて目前に控えている記録の偉大さと福浦選手の人気を感じました。当日チケットの販売はございませんので、予めご了承ください」とほくほく顔だった。

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福浦1999本カードを今日22日西武戦で配布[ニッカン]

ロッテは、福浦和也内野手の「FUKUMETERコレクションカード1999本」バージョンを22日の西武戦(ZOZOマリン)で配布すると発表した。

レフトゲートを除く各入場ゲートで、開場から試合終了後30分まで、先着2万5000枚を配る。またこの日に通算2000安打を達成した場合は、26日の楽天戦(ZOZOマリン)で2000本バージョンのカードを配布する。

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ロッテ・福浦、史上52人目2000安打!42歳9ヶ月で史上2番目年長記録[サンスポ]

ロッテ・福浦和也内野手(42)が22日、西武24回戦(ZOZOマリン)の第4打席に右翼線へ二塁打を放ち、プロ野球52人目となる通算2000安打を達成した。42歳9ヶ月での到達は、史上2番目の年長記録。投手として入団してからロッテ一筋25年、相次ぐけがと戦いながらバットを振り続けてきた“幕張の安打製造機”は、不屈の闘志を示し、本拠地で満願成就。野球に対する真摯な姿勢を貫いてきた男は、来季も現役続行を宣言した。

鮮やかにミートした打球が、右翼線を抜けていった。8回。応援歌『俺達の福浦』を絶叫していた幕張のスタンドは、その瞬間に大歓声へ。そして、いつもは淡々とベースを駆け抜ける男が、珍しくガッツポーズだ。

「これだけ多くのファンの前で打てたのが何より嬉しい。初安打もそうだけど、今日はみんなが喜んでくれたので、この安打が1番ですね」。

無安打で迎えた第4打席。通算2000安打は、388本目の二塁打で達成した。懸命に走って達したベース上でヘルメットを取り、声援に応えると、最初に祝福に現れたのは同学年の西武・松井稼頭央。そして井口監督、選手会長の角中らから花束を贈られた。

うっすらとしたひげ面に年輪が刻まれたプロ25年目。1993年のドラフトで習志野高の投手としてロッテの7位、全12球団で最後の64番目に指名された。憧れた地元・千葉の球団に入団も、すぐに肩を故障。転機となったのは1年目のオールスター休み期間だった。

当時2軍打撃コーチの山本功児氏(故人)に「打撃練習をやってみろ」と声をかけられた。同期の小野晋吾(現2軍投手コーチ)は打者転向を断ったが、福浦は「打撃も好きだったから」と快音を連発。約2ヶ月、悩んだ末に打者への転向を決めた。「やるしかないと腹をくくった。(山本)功児さんがいなければ今の自分はない。感謝しかない」と振り返る。

まさに職人といえる独特な打撃フォームで、2001年には首位打者に輝き、04年に1000安打、09年には1500安打を達成。しかし、1501安打目からの500安打は9年4ヶ月、806試合を要し、史上最も遅いスピードとなった。その野球人生は、ケガとの戦いでもあった。

腰、首…。細い体をウエートトレーニングで鍛え過ぎたのが裏目に出た。07年には脇腹を痛め「バットを振るのが怖くなった」。以後、ケアを重視するように変えた。

前日22日にあと1安打として迎えたこの日も、首は悲鳴をあげる寸前だった。「本人も厳しいと言っていた」と明かすのは井口監督。それでも、昭和50年生まれの42歳は「2000安打までは打ちたい」という強い意思で、痛みを押し殺して偉業へと歯を食いしばった。23日に出場選手登録を抹消され、シーズン終盤の復帰を目指すが、体は限界だった。

「とにかくZOZOマリンで、みんなの前で打ちたかった。延長にならなければ、最後の打席。打ててよかった」と執念の一打を放った。

悲願の大記録達成に「正直、少し休みたい」と、本音ももれた。だが福浦は「次は井口監督をZOZOマリンで胴上げしたい。来季も(現役で)やるつもりでいます」と高らかに宣言した。

◇福浦2000安打アラカルト

史上52人目
ソフトバンク・内川聖一に次ぎ、52人目。初安打は1997年7月5日のオリックス戦(千葉マリン)で、フレーザーから中前打。
初安打は入団4年目
2000安打到達者で初安打が4年目だったのは南海・野村克也、日本ハム・大島康徳、横浜・駒田徳広の3年目を上回り、最も遅い。
年長2番目
42歳9ヶ月での到達は中日・和田一浩の42歳11ヶ月に次ぐ。中日・谷繁元信の42歳4ヶ月を上回った。
2234試合で到達
谷繁の2803試合、大島の2290試合に次いで3番目に遅い。
残り500安打に9年超
2000安打到達者で1500安打の到達スピード(1428試合)は25番目だが、1501安打から2000安打までは9年4ヶ月、806試合。年数で日本ハム・田中幸雄の7年1ヶ月、試合数で谷繁の745試合を上回った。
有藤以来3人目
ロッテ(前身を含む)の生え抜きで2000安打以上は68年の榎本喜八(2276安打)、85年の有藤道世(2057安打)に次いで33年ぶり3人目。
ドラフト7位から
ドラフト制となった66年以降、7位で入団した選手の達成は83年の阪急・福本豊(69年入団)と並んで最も低い順位。
相手は
最も多く打った投手は西口文也(西武)からで37安打。続いて帆足和幸(西武など)の26、星野順治(ダイエー)の25。
福浦和也(ふくうら・かずや)
1975(昭和50)年12月14日生まれ、42歳。千葉県出身。習志野高(甲子園出場なし)から94年ドラフト7位でロッテに投手として入団。野手に転向し、プロ4年目で1軍初昇格。2001年に史上初めてシーズン盗塁ゼロでの首位打者、ベストナイン1度(DH部門=10年)、ゴールデングラブ賞3度(一塁手部門=03、05、07年)。02〜04年に記録した3年連続40二塁打以上は史上初。1メートル83、88キロ。左投げ左打ち。既婚。年俸3500万円。背番号9。

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[2000安打達成一問一答]ロッテ・福浦「千葉で生まれて、ここで達成できて幸せです」[サンスポ]

ロッテ・福浦和也内野手(42)が22日、西武24回戦(ZOZOマリン)の第4打席に右翼線へ二塁打を放ち、プロ野球52人目となる通算2000安打を達成した。

≫どんな思いで打席に。
福浦
「同級生(同学年)で野手最年長の松井稼頭央の前で達成したかった。」
≫ガッツポーズ。
福浦
「無意識で二塁まで走って、無意識で咄嗟に気持ちが出たんでしょう。」
≫応援もすごかった。
福浦
「どんなときも温かくて力になった。ZOZOマリンで、あれだけのファンの前で打てて嬉しかった。千葉で生まれて、ここで達成できて幸せです。」
≫プレッシャーは。
福浦
「ないと思っていたが、毎回、声援がすごくてちょっとはあった。」
≫25年を振り返ると。
福浦
「まさかここまで来られると思っていなかった。球団、監督、コーチ、裏方さん、選手…たくさんの人に支えられ、野球を続けさせてくれたことに感謝です。」
≫達成の要因は。
福浦
「1打席も無駄にしないでやってきた結果。」
≫家族に報告は。
福浦
「まず嫁さんに電話しないと。昨日も見に来てくれていて打てなかったので謝りました。今日出てよかった。」

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[ロッテ・福浦2000安打コメント集]ロッテ・井口監督「これからもしっかり頑張って」[サンスポ]

ロッテ・井口監督
「福浦らしいヒット。ケガがありながらも積み重ねていく姿をずっと見てきたので嬉しい。野球人生はまだ続くので、これからもしっかり頑張って欲しい。」
福浦と同期入団のロッテ・大塚外野守備走塁コーチ
「2000本という数字は想像できない。それだけ積み上げたということ。誇りに思う。」
選手会長として花束を手渡したロッテ・角中
「体は本来、試合ができる状態ではない中で、ファンのためにヒットを打っていた。」
球場で見届けた元ロッテ・有藤通世氏
「彼は野球に対して真面目。一球たりとも無駄にしないという姿勢が、2000安打を生んだ。」
ロッテ・林信平球団本部長
「ロッテでは有藤さん以来のことで喜ばしい限り。派手ではないが、職人的でプロらしいプロ野球選手。いつまでやるかは自分で決めてくれたらいい。納得いくまでやって欲しい。」
同じ千葉県出身で同じ1975年生まれの巨人・高橋監督
「一昨年から頑張れと話をしていて、今年の春も『いけそうだな』という話をしていた。夏前にはどうかなという感じだったから、良かったよね。」
同学年の巨人・上原
「僕らは(昭和)50年会のLINE(グループ)でつながっている。おめでとうとメッセージを打ちました。」
習志野高で18年先輩のヤクルト・小川監督
「初めて見たのはスカウトをやっていた高3の時。ドラフトは下位指名だったが、そういう選手が2000本を打つのは本当にすごいこと。」
習志野高で4年先輩のヤクルト・野口バッテリーコーチ
「筋が一本通った男。(自身が日本ハムの捕手時代は)全盛期で、走者がいる場面ほど嫌な打者だった。」
師弟関係にある前ロッテのヤクルト・大松
「バットコントロールはもちろん、どんな投手でも自分の間で打てるタイミングの取り方がすごい。」
ロッテで後輩だった楽天・今江
「ロッテにいた頃は常にヒットを打っているイメージ。その福浦さんが苦労されているのを見て、改めてすごい記録だなと思った。」
対戦相手の西武・辻監督
「この年までコツコツとね。左打者でも内野安打があるという選手ではない。そう考えると技術的なものが素晴らしいのだと思います。」

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[同期が語る]ロッテ・福浦2000安打への道[サンスポ]

ロッテの福浦和也内野手(42)が、22日の西武24回戦(ZOZOマリン)で史上52人目の通算2000安打を達成した。ルーキーイヤーの1994年から25年目。同期入団の3人が、福浦の快挙達成に至るまでを証言する。

◇ロッテ・小野2軍投手C

1年目のオールスター休みの浦和(2軍施設)でランチタイムだったと思います。山本功児(当時2軍打撃コーチ)さんから「2人とも打撃いいんだよな?ちょっと打ってみろ」と言われたんです。そろって投手として“駄目”の烙印を押されたような感じでした。福浦は室内で打撃練習もしていて、快音を残しました。

そこが分岐点。和也は打者の道を選び、僕はそのまま投手をやるしかなかった。そこから20年以上。早く達成して欲しいという思いでした。僕は引退してから、それだけが楽しみだったようなもの。彼が試合に出始めた頃も知っているし、よく打つようになっても努力する姿は変わらない。準備への意識が高い。オフのトレーニングとか、やるべきことを分かって続けている。

僕が引退するとき、引退会見で花束を渡してくれたんです。鳥肌が立って、こみあげてきた。まさか、この2人が20年以上もやるとは誰も思っていなかったと思います。
(2013年現役引退、現2軍投手コーチ)

◇立川氏

僕は拓大紅陵高で、同じ千葉で福浦をもちろん知っていました。それが同じロッテに入って…。福浦は投手時代から2軍で右翼へポンポンとほうり込んでいました。

コーチが代わったりして、言われることが違うこともある。福浦はその中でも信じたものだけをやっていく。試して駄目ならすぐに切り替え、いいものだけを取り入れるんです。色々な人の真似もしていました。最初は小久保(裕紀)さん、江藤(智)さんとか。右打者のイメージを取り入れていました。

寮では野球ゲームをよくやりました。めちゃくちゃ強いんです。楽しい時間でした。僕がやめるときは「もっと一緒にやりたかった」と言ってくれて。今も変わらず話しかけてくれる、それが嬉しいですね。
(03年現役引退、現野球解説者)

◇福嶋明弘氏

当時は線の細い選手でしたけど、ウエートトレーニングなど努力をしていた姿は印象的です。1軍に上がってからは、よくスコアラー室にビデオを見に来ていました。

若いスタッフも含め、よく食事に誘ってもらいます。最後は決まって野球の話。真面目な男です。50歳にもなると、なかなか意見してくれる人がいなくなる中、年下ですけど「疲れていても、あんな態度をしていたら駄目だよ。若手が見ているから」なんて言ってくれたり、ためになることも多いです。

今季は複雑な思いで見ていました。早く達成して楽になってもらいたいと思う一方、安打のたびに寂しい気持ちに…。1年でも長くやって欲しいとは思っています。
(1993年に近鉄で現役を引退、打撃投手としてロッテに加入の“同期”)

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ロッテ、ワースト8連敗[サンスポ]

1点を勝ち越して迎えた9回、松永が連打でピンチを招き、抑えの内が山川に逆転3ランを浴びた。井口監督は「後ろの2人で点を取られていては勝てない。今季は1点差で勝てない試合が多い。色々考えないと」と配置転換を示唆した。打線の得点力不足も改善されず、8連敗で今季ワーストを更新。福浦の偉業達成があっただけに、後味の悪い結果となった。

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西武・稼頭央、ロッテ・福浦の2000安打祝福![サンスポ]

松井が通算2000安打となる二塁打を放った福浦のもとへ花束を手に駆寄った。同じ1994年入団で球界最年長野手としてプレーし、普段は「福ちゃん」と呼ぶ親友は「ずっと刺激し合いながらやってきた。僕も泣きそうになったよ」。自身は楽天時代の2015年に日本通算2000安打を達成し、名球会の後輩を「満身創痍の中でね…。同級生の誇り」とたたえた。

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[記者の目]ロッテ・福浦、記録よりチームの勝利[サンスポ]

本塁打を含む2安打で2000安打まで残り4本とした9日の西武戦(メットライフ)。試合後の福浦は「まだまだ。それより次に打ちたかった、あそこで打ちたかった…」と笑顔はなかった。

本塁打より、残り4本としたことより、第3打席の5回2死二、三塁で空振り三振を喫したことを悔やんだ。2月の春季キャンプで「残り何本になったら意識するか?」という問いにも、「10本…いや、1本かな」と答えていたから、この日の福浦の思いは手に取るように理解できた。

シーズンを通して、チームの勝利のために集中。「勝たないと意味がないよ」。安打を放っても、負ければコメントはたいていはこんなもの。なかなかに記者泣かせではある。だが、それがファンをひきつける裏表のない福浦の魅力の1つだと感じる。
(ロッテ担当・芳賀宏)

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ロッテ、土壇場で逆転され8連敗、井口監督「課題は多い」[サンスポ]

ロッテは救援陣が1点リードを守り切れず、土壇場の9回2死で逆転されて今季ワーストの連敗が8に伸びた。井口監督は「後ろを任せている2人で打たれたら勝てない。課題は多い」と険しい表情だった。

8回に福浦の通算2000安打目となる二塁打をきっかけに勝ち越し、3−2で迎えた9回、松永が連打でピンチを招くと、救援した内が2死一、二塁で山川に逆転3ランを浴びた。本拠地での7連戦は全敗で終わった。

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[2000安打一問一答]ロッテ・福浦「無意識にガッツポーズをしていた」[サンスポ]

プロ野球ロッテの福浦和也内野手(42)が22日、千葉市のZOZOマリンスタジアムで行われた西武戦の8回に小川龍也投手から右越え二塁打を放ち、史上52人目の通算2000安打を達成した。42歳9ヶ月での到達は2015年6月に42歳11ヶ月で達成した和田一浩(中日)に次ぐ2番目の年長達成となった。

通算2000安打を達成したロッテの福浦は飾らない言葉で心境を語った。

≫大台に乗せた。
福浦
「正直、2千本というのは厳しいと思っていた。ここまでやれると思っていなかった。球団、監督、コーチ、選手、裏方さん、みんなが後押しをしてくれた。」
≫達成の瞬間の気持ちは。
福浦
「無意識に二塁まで走って、無意識にガッツポーズをしていた。自分でも訳が分からない。」
≫最近は故障を抱えながらのプレーだった。
福浦
「(周囲が)2000安打を期待してくれた。その思いに応えるために、気力でやっていた。」
≫1番、印象に残っている安打は。
福浦
「これだけみんなが喜んでくれたので、今日だと思う。」
≫今後の目標は。
福浦
「(本拠地球場の)マリンで、ファンの前で胴上げをしたことがない。ファンの前で胴上げがしたい。」
≫残りシーズンに向けて。
福浦
「最初からコーチ兼任でやっていたが、終盤は2000安打が懸かっていたので、周りも気を使ってくれた。若手にもっと色々教えてあげたい。」

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福浦に花束の西武・松井稼も万感「同級生の誇り。僕も泣きそうに」[サンスポ]

ロッテ・福浦和也内野手(42)が22日、西武24回戦(ZOZOマリン)の8回に右越え二塁打を放ち、プロ野球52人目の通算2000安打を達成した。

金字塔到達を祝い、二塁上の福浦に花束を持って駆け寄ったのは、ともに球界最年長野手としてプレーする西武・松井稼頭央外野手(42)だ。同じ1993年ドラフトでプロ野球への道を歩み出した同期。「おめでとう」と声をかけたときの福浦の万感の表情に「あれを見て僕も泣きそうになった」と思いをかみしめた。

自身は楽天時代の2015年にNPB2000安打を達成した。ともに名球会入りを果たした盟友を「満身創痍の中でね…。同級生の誇りです。ずっと刺激し合いながらやってきた選手。目の前で(達成の瞬間を)見られて、本当に良かったです」と祝福した。

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[コメント集]ロッテ・福浦の2000安打、西武・松井「泣きそうになった。同級生の誇りです」[サンスポ]

プロ野球ロッテの福浦和也内野手(42)が22日、千葉市のZOZOマリンスタジアムで行われた西武戦の8回に小川龍也投手から右越え二塁打を放ち、史上52人目の通算2千安打を達成した。42歳9ヶ月での到達は2015年6月に42歳11ヶ月で達成した和田一浩(中日)に次ぐ2番目の年長達成となった。

福浦は千葉県習志野市出身。千葉・習志野高から1994年にドラフト7位でロッテに投手として入団。1年目に野手に転向し、故郷のチーム一筋に25年間活躍してきた。

ロッテ・福浦和也内野手
「花束をもらい、みんなにお祝いしてもらった時に実感が湧いた。(ファンが)どんなときも応援してくれて、力になっている。千葉で生まれ、野球をやらせていただき、ZOZOマリンで達成できて幸せです。」
ロッテ・井口資仁監督
「福浦らしいヒット。本拠地といういい形で達成してくれた。ケガがありながらも積み重ねていく姿をずっと見てきたので嬉しい。野球人生はまだ続くので、これからもしっかり頑張って欲しい。」
ロッテ・角中勝也外野手(選手会長として花束を手渡し)
「泣きそうになった。本人も嬉しいと思うけど、周りもすごく嬉しい。体調面など試合ができる状態ではなかったと思うが、ファンのためにも打席に立ってヒットを打っていた。」
楽天・今江年晶内野手
「ロッテにいた頃は福浦さんは常にヒットを打っているイメージだった。あの頃のロッテの野手は福浦さんの素晴らしい打撃を見て育った。その福浦さんが2000安打を打つまで苦労されているのを見て、改めてすごい記録なのだなと思った。」
楽天・山下斐紹捕手(千葉・習志野高の後輩)
「2000安打を達成されて本当に嬉しく思う。いつもグラウンドで挨拶に行くと、気さくに挨拶を返してくださる偉大な先輩。これからは少しでも偉大な先輩に近づけるよう、僕も頑張ります。」
西武・辻発彦監督
「心からおめでとうございます。2000本はすごい数字。あの年までこつこつやっているし、技術もいい。」
西武・小川龍也投手
「自分は抑える気持ちで投げた。打たれてしまい、悔しさがある。」
西武・松井稼頭央テクニカルコーチ兼外野手
「ファームの頃からお互い励まし合いやってきた。本人の努力や、試合への準備がないと、この年までできない。花束を渡すこともできて、泣きそうになった。同級生の誇りです。」
ロッテ・林信平球団本部長
「ロッテでは有藤さん以来のことで喜ばしい限り。派手ではないが、職人的でプロらしいプロ野球選手。いつまでやるかは自分で決めてくれたらいい。納得いくまでやって欲しい。」

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ロッテ・福浦が史上52人目の2000安打達成、西武戦の8回に右越え二塁打[サンスポ]

ロッテ・福浦和也内野手(42)は22日、西武24回戦(ZOZOマリン)の8回に西武4番手・小川から右越え二塁打を放ち、プロ野球52人目の通算2000安打を達成した。

「6番・DH」で出場した福浦はこの日、第1打席は中飛、第2打席は遊飛、第3打席は四球だった。先頭打者で打席に入った8回の第4打席、カウント2−2から鋭い当たりの打球を放ち、一気に二塁まで到達した。

二塁ベース上では、プロ野球同期の西武・松井稼頭央外野手に続き、ロッテ・井口資仁監督、角中勝也選手会長、同期入団の大塚明外野守備走塁コーチから花束、福嶋明弘打撃投手から記念のボードを受け取り、ファンの声援に応えた。

福浦和也(ふくうら・かずや)データBOX
1975(昭和50)年12月14日生まれ、42歳。千葉県出身。習志野高から94年ドラフト7位でロッテに投手として入団。野手に転向し、プロ4年目で1軍初昇格。97年7月5日のオリックス戦(千葉マリン)で初安打を記録。2001年に首位打者に輝いたほか、ベストナイン1度、ゴールデングラブ賞3度。今季から打撃コーチを兼任。1メートル83、88キロ。左投げ左打ち。既婚。年俸3500万円。背番号9

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ロッテ・福浦「FUKU METERコレクション1999」を配布[サンスポ]

ロッテは22日、福浦和也内野手(42)が前日21日の西武戦で1999安打を記録したことを記念した「FUKUMETERコレクションカード1999」をZOZOマリン入場ゲート(レフトゲートを除く)で開場から試合終了後30分まで、先着2万5000枚を配布する。2014年9月9日、自身12度目のサヨナラ打がデザインされている。

1995安打目から安打を放った翌ホームゲームから配布しているもので、22日に2000安打を達成した場合は26日の楽天戦(ZOZOマリン)で配布予定。

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ロッテ・福浦2000安打なるか!?ZOZOマリンは午前7時完売[サンスポ]

ロッテは22日の西武戦(ZOZOマリン)のチケットが午前7時までに販売予定枚数が完売となったと発表した。当日券の販売も行わない。

福浦和也内野手(42)が前日21日に1999安打目を放ち、通算2000安打の達成が期待される。チケット担当者は「1999安打を記録したときからウェブを中心に問い合わせが殺到し、試合後は前売りチケット売り場に長蛇の列ができました」と説明した。

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全球団最終指名、投手失格…ロッテ福浦、不屈の42歳9ヶ月2000安打[スポニチ]

ロッテ・福浦和也内野手(42)が22日の西武戦で8回に右越え二塁打を放ち、史上52人目となる通算2000安打を達成した。球団では68年の榎本喜八、85年の有藤道世に次いで3人目。93年ドラフト会議では、12球団で1番最後の64番目に指名され、入団1年目に投手から打者転向した。42歳9ヶ月で到達は、42歳11ヶ月の和田一浩(中日)に次ぐ史上2番目の年長記録。千葉で生まれ育った「幕張の安打製造機」は26年目の来季も現役を続行する。

右翼線への打球を見つめながら走った。二塁へ到達した瞬間、左手を千葉の空へ突き上げる。ここまでは無心。満員御礼となった3万19人のファンは総立ち。はたと気づいた福浦は客席へ両手を上げる。四半世紀で2000安打を積み上げた男も我を忘れるほど、格別の1本だった。

「無意識に走って、無意識にガッツポーズして、訳分からなかった。プロ初安打もそうだったけど、これだけ皆さんが喜んでくれた。だから(1番は)この1本ですね」。

節目の一打は8回無死、左腕・小川の127キロスライダーをつかまえた。今季苦しんだ首痛は左投手の変化球を空振りした際、しびれが走る。再発した場合、数試合欠場のリスクもあったが、この日最後の可能性の高い打席で覚悟を決めて振り抜いた。

腰痛や脇腹痛など09年の通算1500安打達成から9年。残り38本でスタートした今季は5月に体調不良。体重は5キロ減り、82キロとなった。2軍降格も経験。「(2000安打に)1番近く現役を終わったのは誰?」と周囲に聞くほど、ゴールが見えなくなった時もあった。

それでも積み上げた技術がある。18歳の夏。運命を左右する打者転向の試験と知らず、打撃練習で快音を響かせた。投手として入団も左肩、肘を痛め、走り込みでは何度も嘔吐。当時の山本功児2軍打撃コーチの判断でバットを握らされた。ケン・グリフィー、イチローらの打撃フォームをマネすることから始めた。

ただ、3年目まで1軍出場のない背番号70。「おまえ、コーチか?」のヤジも飛んだ。戦力外通告も覚悟した時、当時の広野功2軍打撃コーチに救われた。体の正面にしていたバットの位置を頭の後ろへ置き、1度引く動作を省くことで見極める「間」ができた。そしてイチローがメジャー移籍した01年、首位打者にも輝いた。

努力の天才。「スイングスピードが遅いんですよ」。試合用の900グラムを速く振れるように、練習では1.3キロを使う。打撃チェックはアナログ派。テレビの画面に無数の印を付け、頭や尻などの位置を確認する。93年ドラフトで最後に名前を呼ばれた男が地道に努力を積み重ねた。

試合後、福浦は監督室を訪れて「厳しいです」と首の状態は限界と伝えた。治療に専念するべく、出場選手登録を1度抹消される。ただ、ユニホームはまだ脱がない。「来年もやるつもり。まだまだ、若手にも教え、自分もしっかりやる」と現役続行を宣言した。

05、10年の日本一は敵地での胴上げとビールかけだった。「マリンで、ファンの皆さんの前で井口監督を胴上げしたい」。生まれ育った千葉にある本拠地でのリーグ優勝&日本一。背番号9は偉業達成の日、もう1つの夢を語った。

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ロッテ福浦に聞く、千葉の誇り胸に「ファンの前でマリンで打ててよかった」[スポニチ]

◇ロッテ・福浦に聞く

≫2000安打到達の気持ちは?
福浦
「正直、厳しいと思っていた。気持ちと気力でここまでやってきた。球団に感謝したい。」
≫花束は現役野手最年長同士の西武・松井からもらった。
福浦
「稼頭央君がいたから、その前で達成したかった。最後(の打席で)打ててよかった。」
≫応援し続けてくれたファンへ。
福浦
「これだけ長く、たくさん、どんな時だって応援してくれた。僕の中では力になった。毎打席、声援が大きくて少し、プレッシャーだったけどファンの前でマリンで打てたことはよかった。」
≫現在の体調は?
福浦
「気持ちはやりたいけど、連戦が続いたし、どっと疲れが出たのは正直あります。」
≫地元・千葉の球団で2000安打の偉業を決めた。
福浦
「千葉で生まれ、2000安打を達成できたことは幸せなことだと思っています。」

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ロッテ福浦、初安打は4年目、そこから2000本到達は史上初[スポニチ]

ロッテ・福浦が22日西武戦の8回に小川から二塁打を放ち通算2000安打を達成した。プロ野球52人目、チームでは榎本喜八、有藤道世に次ぎ3人目。初安打は97年7月5日オリックス戦でフレーザーから。42歳9ヶ月での達成は和田一浩(中)の42歳11ヶ月に次ぐ年長記録。2234試合は谷繁元信(中)の2803試合、大島康徳(日)の2290試合に次ぐスロー到達で、左打者では最年長かつ最も遅い記録になった。

通算1500安打は1428試合でクリアしたものの、その後に806試合と苦戦。1500安打達成後の2000安打までの試合数としては谷繁の745を上回り最多だ。通算10盗塁(盗塁死17)は2000安打達成者で最少。

福浦は93年ドラフト7位で投手としてプロ入り。投手登録は94年だけで1、2軍ともに登板なしも、投手登録を経験し2000安打は石井琢朗(広)に次ぎ5人目。ドラフト制以降、7位以下の達成者は7位の福本豊(阪急)、ドラフト外の秋山幸二(ダイエー)、石井も含めると4人目の快挙だ。また、初安打を4年目に打った遅咲き。2000安打到達者のうちプロ3年目に初安打は野村克也(西)、前出の大島、駒田徳広(横)といたが4年目以降にプロ1本目を記録し2000本の大台は福浦が初めてだ。

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[福浦に祝福の声]巨人・高橋監督、高校時代から「名前や存在は知っていたよ」[スポニチ]

◇ロッテナイン

井口監督
「福浦らしいヒット。ケガがありながら積み重ねる姿をずっと見てきたので嬉しい。野球人生はまだ続く、これからもしっかり頑張って欲しい。」
小野2軍投手コーチ(93年ドラフト6位で同期入団。1年目の夏には一緒に打者転向のテストも受ける)
「投手として一緒に体力づくりもやった。打者転向してからのどん底も知っているだけに、本当に凄い。」
大塚外野守備走塁コーチ
(93年ドラフト3位で同期入団)「あいつは色んなものに感謝しながら食らいついて達成した。誇りに思う。」
角中
「体はグラウンドに出られる状態じゃないのにファンのためにも頑張ってきた。僕らはそういうところを見ているので凄く嬉しい。」
田村
「入団2年目から自主トレを一緒にさせてもらって本当に勉強になる。福浦さんを見てきたからこうやって僕も1軍である程度成績を出せている。」
林信平球団本部長
「ロッテでは有藤さん以来のことで喜ばしい限り。いつまでやるかは自分で決めてくれたら。納得いくまでやって欲しい。」

◇球界関係者

伊東勤氏(前ロッテ監督、スポニチ本紙評論家)
「ここ数年は1打席勝負のような形になっていたけど、いつも同じ時間に球場入りし、準備をしっかりする。若い選手は勉強になったと思う。私が西武のマスクをかぶっているときに出てきた選手。バットコントロールがうまく、左投手を上手に打つ。敵としてよくやられた印象がある。派手さはないけど、自分のスタイルを貫き通した職人肌。最後の1打席まで完全燃焼してもらいたい。」
ヤクルト・小川監督(習志野OBで75年夏の甲子園優勝投手)
「スカウトになったときに福浦は習志野の3年。左投手としてリストアップしたが、打撃もいいと思った。ドラフト下位で入団当初のことを考えると、ここまでくるのは彼の努力以外何ものでもない。」
巨人・高橋監督(同じ75年生まれで千葉県出身)
「一昨年、昨年、今年と『頑張れ』という話をしてきた。今年の春も『あと何本?いけそうだな』と声を掛けた。名前や存在は(高校時代から)知っていたよ。」
巨人・上原(同じ75年生まれ)
「簡単なことではない。50年会でLINEのグループでつながっているので『おめでとう』と打ちました。」
楽天・今江(15年までロッテで同僚)
「ロッテにいた頃の福浦さんは常に安打を打っているイメージ。その福浦さんが2000安打を打つまで苦労された。改めて凄い記録だと思った。生で見たかった。」
女子ゴルフ・鈴木愛(17年賞金女王、15年から合同自主トレを行う)
「最近連絡を取って『2000本のことを考えても仕方ないから気楽にやるわ』と言っていた。自主トレでは年々トレーニング量を増やされていた。心の底から“おめでとうございます”と伝えたい。」

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[ロッテ福浦独占手記]グリップに家族の名前…試合前に今も続ける儀式[スポニチ]

偉業を成し遂げたロッテ・福浦和也内野手(42)が、本紙へ独占手記を寄せた。現役25年目でたどり着いた2000安打。気付けば00年に46歳で亡くした母の年齢に近づいた。プロ4年目のオフに結婚、支えてくれた妻、2人の息子の成長は打席に立つ力となった。バットのグリップに名前を書く「家族」へ−。感謝の言葉をつづった。

スタンドでは家族が見届けてくれた。21日の試合も見に来てくれていたから、昨日の夜は自宅で謝った。だから打ててよかった。

今でも続ける儀式がある。試合前、バットのグリップに家族の名前を書く。最初は00年に46歳で亡くしたおふくろに見守って欲しかったからだった。今は妻、2人の息子、昨年亡くなった妻の母。まだ元気なおやじの名前は書かないけど1番近くで支えてくれた。感謝を伝えたいね。

おふくろは99年に余命宣告を受けた。いずれは自分も順番が来ることだと分かっているけど、亡くなった年は気持ちも落ちたし、精神を保てなかった。オールスターに出る姿を見せたいと頑張ったけど(直前の6月にこの世を去って)かなわなかった。

マリンスタジアムがまだガラガラだった頃、おふくろはおやじと毎日のように応援に来てくれた。千葉の小さな団地住まい。共働きだった。自分より4歳下と11歳下の弟もいた。苦しい生活の中、3兄弟全員に野球をやらせてくれたし、相当、苦労していたと思う。おやじがたまに相手をしてくれたけど、友達も少なく、近所のブロック塀がキャッチボール相手だった。

小さい頃には三輪車でブロック塀に突っ込み、大ケガしたこともある。左投げになったのは3歳の頃、滑り台から落ちて右手を骨折したからだと聞いた。今でもやろうと思えば両手を使えるんだよ。心配ばかりかけた子供時代だったと思う。

ただ、親になった自分はと言えば野球以外、家のことはほぼやらない。食器を下げたり、休日に風呂を沸かすくらい。だから、嫁はよくやってくれる。ナイターが終わり、深夜、帰るまで起きたままで食事を用意し、自分は早朝に起床し、子供の世話とか本当に頭が下がる思いだよ。

自宅で野球の話はほとんどしない。ヒットを打った日は「1本打ったね」とか、言うことはあるけどね。ただ、リビングには「FUKU−METER」付きボブルヘッド人形がたくさんあって、ヒットを打って帰ると数字が増えているんだ。こっそり、息子達がやってくれてるんだろうけど、球場では意識しなかった2000安打を「(残り数が)減ったなあ」と唯一、実感する瞬間だった。

中2の長男はサッカーをやっているけど、小4の次男は野球が好きみたい。素振りのマネとかもしてるけど、どうするんだろう。これだけ家にいない父親もどうかと思うけど、これから先も「夢」はいっぱいありますよ。野球だけじゃないし、子供が結婚するとかね。その1つ1つを楽しもうと思います。ただまずはおふくろの墓参りに行って「ありがとう」と伝えたいね。
(千葉ロッテマリーンズ内野手)

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ロッテ井口監督、福浦の打撃解説、ミートの幅の広さが生んだ柔らか広角打法[スポニチ]

日米通算2254安打を放ったロッテ・井口資仁監督(43)が、福浦の打撃技術を「特別解説」した。13枚の連続写真から見えたものは「懐の深さ」と「ヒッティングポイントの幅の広さ」だった。

一言で表現するならば「柔らかい打者」だ。自分はどちらかといえば硬い。左打者は柔らかいと広角へ打てる。福浦は足が速くないし、打席から一塁に近い左打者なのに内野安打が少ない。それでも2000安打に到達できたのは、広角に強いライナーで飛ばせる技術にあると思う。

しっかりトップを取って振り抜くから、レフト方向へライナーが打てる。しっかり軸回転で打てている。

足を上げた時、すでに投手と間合いが合っている。右足を地面につく直前にはボールを捉えている。打てない打者はタイミングを取りつつ、合わせるからトップが取れなくなる。

スイングが始まりボールを捉えるまで幅があるのも特徴だ。最終的に1番速い直球をカットするポイント。彼の場合は左腰前になるが、普通の人はその前後幅が50センチくらいなのに、その倍の1メートルはある。柔らかいし、下半身も使える。タイミングを外されても膝を使って打つ。本当に幅のある選手ですね。

年々、スイングが強くなっているし、打撃練習でも距離が出ている。チャンスで信頼できるし、相手も嫌がる。5回からストレッチし、準備を完璧にやる。結果の裏に何倍もの努力がある。だから今季は兼任打撃コーチ(コーチ枠の関係で途中解除)を託した。技術だけではない。彼には若い選手へその経験を伝え、いい伝統をつないで欲しい。
(千葉ロッテマリーンズ監督)

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元習志野高監督・石井氏、福浦の柔らかさ絶賛「掛布と比較しても遜色ない」[スポニチ]

99年まで習志野高野球部の監督を務めた石井好博氏(69)もロッテ・福浦の快挙を喜んだ。「歯を食いしばり、やった結果だと思う。よく我慢して頑張った」。

高校時代は左腕エースとして活躍し、ドラフトでも投手でロッテに7位指名されたが「おとなしい子でね。しょっちゅう私から怒鳴られていた。投手としては並より上だけど、打者としての柔らかさは(教え子で通算349本塁打の元阪神)掛布(雅之)と比較しても遜色なかった」と振り返る。当時の球団担当スカウトだった伊達泰司氏には「将来的には打者がいい」と告げたという。福浦卒業から25年がたったが、現在もオフになると一緒にゴルフでラウンドするという。

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ボビーも福浦を祝福「彼のスイングは本当に美しい。メジャーに来ても3割打っていた」[スポニチ]

フーキ(Fuuki=福浦の愛称)、おめでとう!彼のスイングは本当に美しい。指揮を執っていた時、グリフィーやイチローのスイングをビデオで見比べたものだよ。類似点がたくさんあったね。

全盛時、故障さえなければ常に3割を打つ実力があった。走るのは得意ではなかったから、内野安打は稼げなかったけど、それでも常に3割を打ったのは注目に値する。打撃術はずぬけていた。日米で20年以上、監督をする機会に恵まれたが、多くの選手の中でもトップ5〜10に入っていた。メジャーに来ても3割を打っていただろう。日本と同じように二塁打を量産して、本塁打は10〜12本かな。

05年に日本一になった時はチームリーダーだった。日本シリーズ第3戦で満塁本塁打を打った際、フィールドであんなに感情をむき出しに喜んでいる姿を見たのは、あの時だけ。今でも当時の笑顔が目に浮かぶ。メジャーの話はしたことがあるけど、日本に残ってプレーすることを望んだ。彼にとって千葉のファンの前でプレーすることが重要だったし、私も彼のそんな気持ちが嬉しかった。

彼ほど打つことを楽しんでいる選手はそうはいない。将来、彼が打撃コーチの道を選択しても、監督になっても、全く驚かないよ。
(元ロッテ監督、ボビー・バレンタイン氏)

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偉業の先輩・有藤通世氏、福浦はグリップを少し上げて開眼[スポニチ]

球場で2000安打の瞬間を見た。よく頑張ったの一言だ。ロッテ・福浦という男は野球に対して真面目。1球たりとも無駄にしない。

投手として入団し僕らとは違う苦労を重ねて、自分の型をつくり上げた。投手も打者もフォームが自分に合うかどうかで決まる。福浦はトップから打つ瞬間にグリップを少し上げる。その使い方を習得したことでここまで安打を積み重ねることができた。

ここ数年はケガもあった。「もうやめよう」と思っても不思議でなかったが、彼を支えたのは「2000本打ちたい」という意欲ではなく、野球に対する探究心だと思う。だから到達できた。「ミスターロッテ」の称号は、僕もそうだけど皆さんが与えてくれるもの。彼はいい指導者になる。それまではたくさん苦労した方がいいよ。
(スポニチ本紙評論家)

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ロッテ福浦、評判の応援歌が偉業後押し、作曲者が込めた思い[スポニチ]

12球団屈指の評判を誇る応援歌も、ロッテ・福浦の偉業を後押しした。その名曲を作ったのが96年からロッテの応援団に所属し、現在楽天のコンテンツ部に所属する神俊雄氏(38)だ。

「福浦選手の応援歌は、5曲くらい作ったが、今の曲は11年から。前奏が壮大なイメージで。千葉出身なので“千葉の誇り胸に”という言葉を応援団で考えました」と振り返る。1番こだわったのは「不屈の闘志を見せてくれ」の歌詞。「長い間、現役を続けて欲しい」という気持ちを込めた。新人時代から、スタンドで見つめてきた思い入れのある選手で、97年8月1日の西武戦(千葉マリン)の初本塁打は、鮮明に覚えている。「ここ何年かは苦しんでおられたと思いますが、大記録を達成されて大変嬉しく思います」と祝福した。

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ロッテ福浦に運命感じた、記者と同姓、同じ熊本ルーツ[スポニチ]

◇記者フリートーク

1月からロッテ担当になった。同姓の福浦に、私は熊本出身と言うと「うちもおやじは熊本」と返ってきた。

千葉で生まれ育ったが、父方の出は熊本県芦北町だそうだ。「おやじの実家は駄菓子屋でね。お菓子がたくさんあった」。父は八代一(現・秀岳館)の野球部だったことなど、熊本ネタはひとしきり盛り上がった。親戚以外の「福浦さん」に会うのは初めてだった。姓氏研究家の森岡浩氏によれば「福浦」の全国順位は4200位近辺。珍しくはないが、1番、多いのはその芦北町。私の実家は別の町だが、先祖をたどればどこかでつながるかもなどと想像を巡らせ、勝手に「運命だよな、これは」と思っている。
(ロッテ担当・福浦健太郎)

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福浦2000安打にロッテのウグイス嬢・谷保さんも感慨、福浦のコールは「まだ完成形が見つからない」[スポニチ]

1991年8月以降、ロッテ主催試合で場内アナウンスを務める谷保恵美さんもZOZOマリンで福浦2000安打達成の瞬間に立ち会った。

「感慨深いです。初安打は覚えていませんが、いつもオフに球場に来て練習をしていた福浦選手が、1軍に初昇格してきたことは鮮明に覚えています」。

前日21日の試合後には福浦がプロ初安打を放った97年7月5日のスコアブックを見た。「こんなメンバーだったんだなぁと。オリックスにはイチローさんもいらっしゃいましたね」とあの優しい口調で、しみじみと振り返った。

今年5月には1軍のアナウンス試合が1700試合に達した。選手名の語尾を伸ばすコールは「マリン名物」にもなっているが、福浦の場合「ふくぅ〜らぁ」と伸ばし方は控え目。「“ら”の発音が難しい。福浦選手のコールはまだ完成形が見つからないんです」と思わぬ悩みもある。

ただ、プロ26年目の来季も現役続行を決めているベテランとのコラボはまだ、続く。谷保さんは大台の「2000試合」だけでなく「福浦コール」の完成も目指していく。

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福浦、来年も現役続行を明言、史上2番目の年長2000安打達成も「来年もやるつもり」[スポニチ]

ロッテの福浦和也内野手(42)が22日の西武戦(ZOZOマリン)で8回に二塁打を放ち、プロ野球史上52人目の通算2000本安打を達成した。

福浦は「6番・DH」で先発出場。8回の第4打席に西武・小川から二塁打を放ち、ロッテ一筋25年目、“幕張の安打製造機”が2315試合目で、ついに偉業を成し遂げた。ロッテでは、68年に榎本喜八、85年に有藤道世が達成して以来33年ぶり3人目。42歳9ヶ月での到達は、2015年6月11日に42歳11ヶ月で達成した和田一浩(中日)に次ぐ史上2番目の年長達成。

試合後のインタビューで福浦は「来年もやるつもり」と現役続行を明言。今季は5月までは打撃コーチ兼任だったが「まだまだ、もっと若手を教えて皆を良くしたい」と語った。

また、これを聞いたロッテ・林信平球団本部長も「派手ではないが、職人的でプロらしいプロ野球選手。いつまでやるかは自分で決めてくれたらいい。納得いくまでやって欲しい」と称えた。

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「福浦」のルーツは熊本にあり、同姓として担当となった年の快挙に不思議な縁感じた[スポニチ]

ある時「福浦」のルーツについて話したことがある。同姓の私は熊本県出身だと伝えると「うちもおやじは熊本なんですよ」と意外な共通点があった。

千葉県浦安市で生まれ、習志野市で育った。習志野高から入ったロッテでは現役25年目。フランチャイズプレーヤーの代表格だが、父の出身地は熊本県葦北郡芦北町である。

「福」と「浦」−。ありふれた漢字二文字の組み合わせの「福浦」だが、家族や親戚以外で会うのは初めてだ。姓氏研究家の森岡浩氏(57)によれば、「福浦」の全国順位は4200位近辺。「最も多いのは熊本と鹿児島の県境付近。この地域は肥後国葦北郡福浦村(熊本県葦北郡芦北町)がルーツ。今も芦北町に特に集中しています」と森岡氏。先祖をたどればどこかでつながるのかもしれない。

「父方の祖父母の家は駄菓子屋でね。帰省した時、お菓子がたくさんあって楽しかった。じいちゃんにグローブを買ってもらったのをよく覚えていますよ」。父親は八代一(現秀岳館)の野球部に在籍していたことなど、練習中にほとんど無駄話をしない男が、共通項「熊本」のキーワードに多弁になった。

私は昨季まで20年間、福岡で勤務し、14年間、地元のプロ野球担当だった。ロッテ・福浦のことは気になる存在だったが、今年1月に東京転勤し、担当となったシーズンに偉業が達成された。大げさかもしれないが「運命」に引き寄せられた不思議な縁を感じてしまった。
(ロッテ担当・福浦健太郎)

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ロッテ福浦2000安打達成!史上2番目の年長達成、“幕張の安打製造機”が本拠で決めた[スポニチ]

ロッテの福浦和也内野手(42)が22日の西武戦(ZOZOマリン)で8回に二塁打を放ち、プロ野球史上52人目の通算2000本安打を達成した。

福浦は「6番・DH」で先発出場。8回の第4打席に西武・小川から二塁打を放ち、ロッテ一筋25年目、“幕張の安打製造機”が2315試合目で、ついに偉業を成し遂げた。ロッテでは、68年に榎本喜八、85年に有藤道世が達成して以来33年ぶり3人目。42歳9ヶ月での到達は、2015年6月11日に42歳11ヶ月で達成した和田一浩(中日)に次ぐ史上2番目の年長達成。

通算2000安打まで残り38本で迎えた今季。首痛と戦いながらも安打を重ね、今月9日の西武戦(メットライフD)では15年4月9日以来、実に1249日ぶりの本塁打を放った。この日は西武・今井の前に2回の第1打席は中飛、4回の第2打席は遊飛、6回の第3打席は四球だった。2−2で迎えた第4打席の8回には先頭で打席に入り、7球目を右越えへ弾き返し、塁上ではガッツポーズも飛びだした。

福浦は93年のドラフトで千葉・習志野高校からドラフト7位で投手として入団。94年に打者転向し、97年7月5日のオリックス戦でフレーザーからプロ初安打を記録した。

福浦和也内野手
「花束をもらい、みんなにお祝いしてもらった時に実感が湧いた。(ファンが)どんなときも応援してくれて、力になっている。千葉で生まれ、野球をやらせていただき、ZOZOマリンで達成できて幸せです。」
福浦和也(ふくうら・かずや)
1975年12月14日、千葉・習志野市出身の42歳。93年のドラフトで千葉・習志野高校からドラフト7位で投手として入団。94年に打者転向し、97年7月5日のオリックス戦でフレーザーからプロ初安打を記録した。01年に首位打者を獲得し、ゴールデングラブ賞を03、05、07年に受賞した。05年と10年にチームの日本一に貢献し、10年には指名打者でベストナインに選ばれた。183センチ、88キロ、左投げ左打ち。

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ロッテ、福浦1999安打カードを22日西武戦で配布[スポニチ]

ロッテは福浦和也内野手(42)が、21日の西武戦(ZOZOマリン)で1999安打を記録したことを受けて「FUKUMETERコレクションカード1999本」(写真は2014年9月9日の西武戦で放った通算12本目のサヨナラ打)の配布を22日の埼玉西武戦(同)で行うと発表。配布場所はZOZOマリン入場ゲート(左翼ゲートを除く)。配布時間は開場〜試合終了後30分間まで。先着2万5000枚。

この企画は1995安打目からヒットを放った翌ホームゲーム(1試合最大1枚の配布。複数安打を放った場合はさらに翌ホームゲーム。ホームゲーム日毎に繰り越して配布)に配布しているもの。

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ロッテ・福浦、2000安打へあと1、入場券は午前7時までに完売[スポニチ]

ロッテ・福浦和也内野手(42)が、通算2000安打へあと1本として臨む9月22日の西武戦(ZOZOマリン)の入場券は22日の午前7時までに完売となった。当日券の発売はしない。

チケット担当者は「大勢のお客様に前売チケットをご購入いただき、誠にありがとうございました。福浦選手が1999安打を記録した時からインターネット中心に問い合わせが殺到し、21日の試合後は前売りのチケット売り場に長蛇の列が出来ました。改めて目前に控えている記録の偉大さと福浦選手の人気を感じました」とコメントした。

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福浦の2000安打に地元ファン総立ち、「来年も」現役続行宣言[報知]

ロッテの福浦が、西武戦(ZOZO)の8回に小川から右越え二塁打を放ち、プロ野球52人目の通算2000安打を達成した。42歳9ヶ月での到達は、2015年に42歳11ヶ月で達成した和田一浩(中日)に次ぐ史上2番目の年長記録。94年にドラフト最下位の7位で投手としてプロ入りし、ロッテ一筋25年。誰よりも地元・千葉のファンから愛される男は総立ちになった観客から大歓声を浴びた。

大歓声に包まれた打球は右翼線で大きく弾んだ。福浦は勢いよく一塁を蹴って二塁へ滑り込んだ。8回先頭。左腕・小川のスライダーを仕留めた2000本目の安打は通算388本目の二塁打。「訳が分からなかった。咄嗟に気持ちが出た」。普段はクールな男がガッツポーズを繰り出し、喜びを爆発させた。西武の同級生・松井から花束を受け取ると自然と笑みがこぼれた。

小学1年で父・元生(もとお)さんの影響で野球を始めた。学校から帰ると自宅の団地の壁に目掛けて1人で的当てをしたのが原点。幼少期は大の巨人ファンで篠塚や吉村のプレーを食い入るように見た。中学に進むと甲子園のスター、PL学園の「清原・桑田」に憧れた。「やっぱりKKでしょ。あそこまでの選手になるのは無理だけど、千葉の子供達に憧れを持ってもらえるように。そうなれたら嬉しいよ」。真摯に野球と向き合い続け、今では誰からも愛されるヒーローとなった。

4年目の97年7月5日のオリックス戦(千葉マリン)でフレーザーから中前に初安打を放ち打者人生がスタート。努力を惜しまず、自分が「すごい」と思う打者の映像を見てはモノマネした。右打者では清原、小久保、江藤。左打者ではイチローと大リーガーのケン・グリフィーJr.の打撃フォームに大きな影響を受けた。金字塔への第一歩を記して7749日目での到達に「2000本は正直、厳しいと思っていた。ここまでやれるとは思っていなかった」と感慨深そうに語った。

「生みと育ての親」に捧げた一打でもあった。00年6月に母・千江子さんが46歳で死去。以降はバットのグリップエンドに最愛の母の名を書いて、共に打席で戦ってきた。プロ1年目に打者転向を勧めた当時2軍コーチの山本功児さん(享年64)は「あの勧めがなかったら今の自分はない」という恩人だ。「告別式には参加したけど、墓前には行けてない。良い報告をしたいね」と誓いを立ててシーズンに臨んだ。これで天国の2人に「ありがとう」が言える。

試合後には「来年もやるつもりです」と現役続行を宣言した。球団も将来の幹部候補にコーチ兼任で契約を打診する見込みだ。球界最年長野手として迎える26年目に向け、“幕張の安打製造機”はまだ歩みを止めない。

福浦和也(ふくうら・かずや)
1975年12月14日、千葉・習志野市生まれ。42歳。習志野高から93年ドラフト7位で投手としてロッテ入団。1年目の夏に打者転向。97年に1軍入りし、翌年から一塁レギュラーに定着。01年に首位打者、10年にベストナイン。ゴールデン・グラブ賞3度。183センチ、88キロ。左投左打。年俸3500万円。

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福浦の恩師が2000安打祝福、今明かす前代未聞の“遅刻事件”[報知]

ロッテ・福浦和也内野手(42)がプロ野球史上52人目、球団では3人目となる通算2000安打を達成した。習志野高時代の監督である石井好博氏(69)はスポーツ報知に祝福の手記を寄せた。

福浦君、通算2000安打おめでとう。高校入学当時は1学年3〜40人が入ってくる大所帯で福浦君は数多い中の1人という印象だった。最初に入ってきた時は野茂の「トルネード投法」みたいな投げ方だったから、「さすがにそれはやめて普通に投げろ」と言ったことを覚えています。打つ方は1年から試合に出して4番を打たせていた。ロッテの担当スカウトだった伊達泰司さんがウチに来て、「是非、獲りたいです」という話をされた。それを聞いて君には「チャンスがもらえるのなら何巡目でもいけよ」と声を掛けた。どっちかというと打者の方がいいなと思っていた。今年で25年目。ここまでよく頑張ってきた。

高校時代で印象に残っていることは“遅刻事件”だね。栃木に遠征に行く時に出発時間になっても来なかった。寮に泊まっていたのに。他の選手が「福浦がいません」って言ってきた。「ばか野郎!寮にいるのにそんな訳ないだろ」って言ったんだけど、本当に来なくて、そのまま置いて出発した。後からお父さんと一緒に栃木に来た。そういう、すっとぼけたところがあったな。30分前集合が当たり前だったから、前代未聞。後にも先にも福浦しかいない。そういう意味ではスケールがでかかったのかな(笑)。せっかく来たから2試合目には使ったけどね。福浦にとってみれば嫌な思い出かもしれないけどね。あの時は来なかったら他の試合も2、3試合はベンチにも入れなかったと思う。遅れてでも来たから許したんだ。

高校最後の夏の千葉大会では3回戦で野田北に負けた。延長戦入って2死二塁のピンチ。一塁が空いていたから敬遠の指示を出したら、1球目に外の直球でストライクが取れちゃった。そこで色気が出ちゃって勝負に行ったら、打たれて負けた。試合後に「試合には負けたけど、人生に負けた訳じゃないから、これからの頑張り次第でこの負けは取り戻せる」と話した。あの言葉が生きてくれていたら、ありがたいなと思う。

近年はケガもあって厳しかったと思う。昨年の春先に沖縄に行った時に教え子の小川君(ヤクルト監督)に会った。そこで「もし福浦がクビになったら、ヤクルトで取ってやってくれ。君が監督の間に2000本打たせてやってくれ」とお願いしたことがあった。小川君はその時は笑ってたけどね。ロッテでダメでも何とかして打ってもらいたかった。2000安打は達成したけど、これでゴールじゃない。体に気をつけてまだまだ現役を続けて欲しい。
(元習志野高野球部監督・石井好博)

石井好博(いしい・よしひろ)
1949年4月3日、千倉町(現南房総市)生まれ。69歳。習志野高では67年第49回全国高校野球選手権大会でエースとして県勢初の全国制覇。75年第57回全国高校野球選手権大会では26歳で小川(現ヤクルト監督)を率いて2度目の全国制覇。「選手、監督」の両方で優勝を達成した。

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2000安打達成、福浦にとってヒットとは…[報知]

ロッテ・福浦和也内野手(42)がプロ野球52人目の通算2000安打を達成した。試合後の会見では達成時の思いや、来季への思いも惜しみなく語った。

≫二塁打で決めた。二塁上で考えたことは。
福浦
「無意識に二塁まで走って、無意識にガッツポーズして。訳が分からなかったです。」
≫ガッツポーズは珍しのでは。
福浦
「そうですね。打った瞬間はなかなか。みんなベンチでいつも僕が安打を打つ度に、喜んでくれるので、その時はガッツポーズをしますけど。あれは咄嗟に自分の気持ちが出たんでしょう。」
≫今朝は家族とどんな話を。
福浦
「いつも通りでした。昨日見に来てくれましたし。昨日達成できればよかったですけど。なかなか甘くないですし。家族には昨日も謝りましたし。今日打ててよかったです。」
≫チームメートが福浦選手のすごさに「準備力、継続力を挙げていた。
福浦
「どうなんですかね。僕は当たり前のことを当たり前のように毎日している。ルーティンはほとんど変わっていない。やっぱり試合に出る以上はしっかり準備をしてやるのは、自分の中ではいつも思っている。」
≫痛めている首の状態は。
福浦
「どうですかね。分からないです。気持ちでやっているので。試合に出る以上は、『痛い』と言っていられないですし。そこはもうやるしかないなという感じです。」
≫安堵感で休みたいか、明日からもいつも通りやっていきたいか。
福浦
「気持ちはやりたい思いがありますけど、ちょっと連戦が続いたので。一気にどっというか、疲れは正直あるかなと思います。」
≫残りシーズンの戦い方について。
福浦
「今年は最初からコーチ兼任という形でやらせていただいて。終盤辺りから2000本がかかってから、周りの選手にも裏方さんにも気をつかってもらって、僕自身もなかなかほかの若い選手に教えることができなかった。もっと色々教えてあげたい気持ちもあります。」
≫ケガで安打のペースが落ちても、つなぎとめていたものは。
福浦
「監督も鳥越ヘッドも、ほかの選手も、裏方さんにしてもそうですし、みんな打ってもらいたい気持ちがあったと思いますし。その気持ちにも応えないといけない。気持ちで出ていましたね。」
≫地元の球団に入って25年がたった。
福浦
「幸せなことだと思います。ここまで野球をやらせていただいて。千葉県で生まれて、ZOZOマリンで達成できて幸せだなと思います。」
≫来季以降について。
福浦
「ちょっと…。来年ですか。来年もやるつもりでいます。まだまだ。もっと若手に教えて、自分もしっかりやって、もっともっとみんなをよくしたい気持ちはあります。」
≫松井稼頭央選手とどんな言葉を掛け合ったか。
福浦
「本当に『おめでとう』、『ありがとう』と。」
≫満足して野球を終えられるときはどんな時か。
福浦
「1番はみんなに今日喜んでもらったのが、リーグ優勝であり、もっと今いる選手と喜びを分かち合いたいなという気持ちが今1番です。」
≫今1番やりたいこと。
福浦
「家族にもまだ電話できていないですし。まず嫁さんに電話入れて。ショートメールとかすごい数が来ているので、きっちり返したいです。ほっとしている感じです。」
≫ここまで長かったか。
福浦
「長かったですかね。長かったでしょうね。達成したら、そうでもないですけど。毎日毎日やっていると、長くは感じましたね。」
≫福浦選手にとってヒットとは。
福浦
「何ですかね。難しい質問ですね。それは引退までに考えます。」

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福浦、2000安打の次の目標は…「井口監督をマリンで胴上げしたい」[報知]

ロッテ・福浦和也内野手(42)がプロ野球52人目の通算2000安打を達成した。試合後の会見では達成時の思いや、来季への思いも惜しみなく語った。

≫今の気持ちは。
福浦
「やっぱり大勢のファンの前で、このZOZOマリンで打てたのが嬉しいです。」
≫金字塔を立てた実感は。
福浦
「花束をもらったときとか、みんなにお祝いしてもらったときは実感が湧きました。」
≫プレッシャーもあったのでは。
福浦
「僕自身はないと思っていたんですけど、やっぱり毎回、毎回声援がすごくて、ちょっとはプレッシャーになったと思います。」
≫同点の8回で迎えた打席の思い。
福浦
「延長にならなかったら、最後の打席になるかもしれなかったですし。相手も西武戦でしたし、同級生の松井稼頭央君もいたんで、その前で達成したかったのもありましたし。やっぱり、今日これだけたくさん見にきてもらったので、あの打席で決めたいという、もう1打席目から決めたい気持ちはあったんですけど。なかなか打てなかったですから。最後に打ててよかったです。」
≫松井選手から花束を受けて笑顔だった。
福浦
「同期入団でやってきて、最年長野手で頑張ってきましたから。同級生の前で決めたい思いもありましたし。最初は花束を持っていけないと聞いていたんですけど、来てもらったので、喜びも倍増です。」
≫チームメートの出迎えもあった。
福浦
「昨日くらいからファームの根元とか岡田とか荻野とか金沢とか、みんな見に来てくれましたし。そういう人の前で打てたのもよかったなと思います。」
≫本拠地で達成できたことに関して。
福浦
「監督もずっとZOZOマリンで、と言われていたので。僕自身も今週で決めたい気持ちはあったんですけど。なかなかヒットを重ねられず。今週が最後だったので、何とか今日決めたい思いもありました。」
≫改めてファンの存在は。
福浦
「これだけいつも温かくたくさん、どんなときでも応援してくれるので。僕の中では力になっていると思いますし。あれだけのファンの人の前で打てたのは僕の中では本当に嬉しかったです。」
≫プロ25年目での達成。
福浦
「まさかここまでこられると思っていませんでしたけど。球団、監督、コーチの皆さんが後押ししてくれて、選手のみんなもそうですし、裏方さん、トレーニングコーチ、色んなたくさんの人に支えられて達成できたと思います。」
≫2000本という数字について。
福浦
「正直、2000本は厳しいと思っていましたし、ここまでやれると思っていなかった。ここまで野球を続けさせてくれた球団とか感謝したいです。」
≫近年はケガもあった中で突き動かしたものは。
福浦
「色んな人の支えですね。監督、鳥越ヘッド、コーチのみんな、チームメートもそう。ファンの2000本という期待のためにも、気持ちというか、気力という感じでやっていました。」
≫打席で大切にしていたこと。
福浦
「毎試合大事だったんですけど。プロ4年目で初めて1軍に上がってから、ここまで1打席も無駄にしないでやってこられた結果だと思います。」
≫印象に残る1本は。
福浦
「やっぱり今日ですかね。僕の中でホッとしたというか。プロ2打席目で初安打を打ったときもそうでしたけど、これだけみんなが喜んでくれたというのは今日だと思います。」
≫今後の目標は。
福浦
「やっぱり井口監督を何とかマリンで胴上げしたい。僕自身もやっぱりここマリンでファンの皆さんの前で胴上げしたことないですし、マリンで胴上げしたいという思いはあります。」

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福浦、限界だった…2000安打達成翌日抹消へ[報知]

ロッテの井口資仁監督(43)が2000安打を達成した福浦和也内野手(42)の出場選手登録の抹消を決めた。

指揮官は試合後、「首のあれ(痛み)もある。本人とも話をして『心身ともに限界です』となった。力を振り絞っての2000本だった。本人も『空振りするのが怖い状態で、何とか気が張っていて(達成)できた』と話していた」と抹消の理由を打ち明けた。

今後は23、24日の仙台・大阪への遠征には帯同しないものの、治療を優先しつつ、1軍で兼任コーチとして若手への指導にも携わる予定だ。

また、福浦は試合後の会見で来季について現役続行を宣言。井口監督は「さらに2000本からヒットの数を増やしていって欲しい」と期待を寄せた。

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二木、遠い4勝目…5戦連続白星なし[報知]

ロッテ・二木康太投手(23)が先発し、6回途中7安打4四球2失点で降板。1ヶ月ぶりの4勝目を逃した。

1−0の2回に2四球を与え2死一、二塁のピンチを招くと木村の左前適時打で同点とされた。

1−1の6回には先頭の4番・山川から3連打を浴びて勝ち越しを許した。その後、2死満塁とピンチを広げたところでベンチに下がり、5戦連続で白星をつかめなかった。

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福浦が2000安打達成、史上52人目[報知]

ロッテの福浦和也内野手(42)がプロ野球史上52人目の通算2000安打を達成した。チームでは榎本喜八、有藤道世に続き3人目の快挙だ。

プロ25年目、ロッテ一筋のベテランは「あと1」で迎えたこの日の西武戦に6番指名打者でスタメン出場。2回先頭の第1打席は中飛、4回先頭の第2打席は遊飛、6回1死一塁で迎えた第3打席は四球。8回先頭で迎えた第4打席、西武4番手の小川から7球目を右越えへ二塁打。大台を達成した。

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福浦2000安打目前、22日西武戦チケット完売[報知]

ロッテは福浦和也内野手(42)の2000安打達成がかかっている22日の西武戦(ZOZO)のチケットが午前7時までに完売したと発表した。なお、当日チケットの販売はしない。

チケット担当者は「大勢のお客様に前売チケットをご購入いただき、誠にありがとうございました。福浦選手が1999安打を記録した時からWEBを中心に問い合わせが殺到し、試合後は前売りチケット売り場に長蛇の列が出来ました。改めて目前に控えている記録の偉大さと福浦選手の人気を感じました。当日チケットの販売はございませんので、予めご了承ください」と話した。

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習志野高時代を担当の伊達泰司元スカウト、福浦の快挙へエール[報知]

習志野高時代の福浦を担当した伊達泰司元スカウト(67)が“運命の糸”で結ばれていた獲得までの経緯を振り返り、快挙へのエールも送った。

地元じゃなくても 福浦をドラフトで指名したのは1993年。92年に川崎から千葉マリンに移転したばかりで、当時の重光(昭夫)オーナー代行が地域密着化を進める上で「地元の選手を獲ろう」という流れがあった。2位で拓大紅陵の立川(隆史)を指名して、福浦を7位で獲った。

習志野の試合は2度ほど見に行ったんですけど、その2度とも活躍したんですよ。打って、抑えてね。他球団も気になっていたらしく、球場に足を運んだみたいですけど、その時に限って活躍しなかったみたい(笑)。他のスカウト達はみんな「ダメだったなあ」と口をそろえていた。それで「これは獲れるな」と思って、獲得リストに載せた。

福浦本人は「獲ってくれたのは千葉出身だったからでしょう」と、ずっと私に言ってましたが、そうじゃない。打撃もよかったし、見込みがあったからで、当時の木樽正明スカウト部長に「最後までリストに残してください」と、お願いした。他球団のスカウトが見に行っていた時も活躍していたら、他の球団に行ってたかもしれないなあ。

投手で入団して、すぐに打者に転向し、ワンチャンスをものにして2000安打は目前。スカウトを辞めてもう何年にもなりますが、ここまでやってくれて担当スカウトとしては本当に嬉しい限り。あと、もう一踏ん張りです。

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福浦2000安打、千葉で達成「幸せ」、42歳9ヶ月、史上2番目年長記録[デイリー]

ロッテの福浦和也内野手(42)がZOZOマリンスタジアムで行われた西武(24)戦の八回に右越え二塁打を放ち、史上52人目の通算2000安打を達成した。42歳9ヶ月での到達は、42歳11ヶ月で達成した中日・和田一浩に次ぐ史上2番目の年長記録となった。 42歳の福浦が大輪の花を咲かせた。八回だった。左腕・小川の2−2からのスライダーを振り切った。右越えの二塁打。珍しく塁上で両拳を前に突き出し、笑顔でガッツポーズを取った。

「最初のヒットがマリンだったし、千葉で生まれてZOZOで達成できた。幸せなことです」。初安打は4年目の97年7月5日の千葉マリンスタジアムでのオリックス戦だった。

千葉・習志野高では左腕エース兼4番打者で鳴らした。だが、エリートではない。ドラフト7位での入団だ。1年目の94年夏。18歳の福浦は醍醐2軍監督から打者転向を打診された。「早かったからね…ショックだった」と振り返る。

醍醐監督の意を受けた山本功児2軍打撃コーチが強く打者転向を勧めた。プロで生き抜くために転向を選び、同コーチの指導を受けてガムシャラにバットを振った。「今のボクがあるのは山本さんのおかげです。言葉には言い表せない」と感謝する。

土台を構築して1軍に定着したが、打撃の試行錯誤を常に重ね続けた。「いかにして力を抜くかです」という境地に達し、01年には自身初となる首位打者のタイトルを獲得した。

ファンの声援が支えだった。プロ1年目の挫折、打撃面の成長と苦悩、母、恩人・山本コーチの死、そして逆らえぬ年齢との闘い…。ファンは四半世紀に及ぶ福浦の生きざまに自らの人生を重ねる。『俺たちの福浦』。この言葉が全てを物語る。同期入団の西武・松井から受け取ったお祝いの花は、25年に及ぶ汗と努力の匂いがした。

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福浦に打者転向勧めた24年前、当時の2軍監督・醍醐氏「まさかここまでの打者に…」[デイリー]

ロッテの福浦和也内野手(42)がZOZOマリンスタジアムで行われた西武(24)戦の8回に右越え二塁打を放ち、史上52人目の通算2000安打を達成した。42歳9ヶ月での到達は、42歳11ヶ月で達成した中日・和田一浩に次ぐ史上2番目の年長記録となった。福浦の通算2000安打達成に際し、入団時の2軍監督だった醍醐猛夫氏(79)が当時の思い出、秘話をデイリースポーツに寄せた。

背番号「70」のルーキー福浦は、身じろぎもせずに私の話をジッと聞いていた。

「打者に転向したらどうだろう」。

94年、球宴前の暑い日だった。ロッテ浦和球場の監督室に福浦を呼び出してそう伝えた。福浦は前年の93年度ドラフトの7位指名で投手として入団した習志野高のエースである。だが、彼は入団早々に肩を痛め、キャッチボールもままならない日々を送っていた。

そんなある日。某コーチが私に耳打ちした。「福浦が練習を終えると必ず室内練習場で打ち込んでいますよ」。そっと見に行った。いい打球を飛ばしていた。一目でこれは、と思った。ステップした時に肩が残っている。腰が早く開かない。これは打者のみならず、投手にも言えることで、私は成功への条件だと思っている。

私は山本功児2軍打撃コーチに「福浦を注意して見て欲しい」と頼んだ。山本コーチもその後、「いいですね」と言ってきた。肩さえ癒えれば投手として戦力になりそうだったが、私は1軍で1日でも早く活躍するなら打者だという結論に達した。

木樽スカウト部長にこの旨を相談した。彼は千葉出身で、エース兼4番打者の福浦を高く買っていた。返事は「醍醐さんにお任せしますよ」だった。

あれから24年。まさかここまでの打者になるとは思ってもみなかった。あの日、福浦はどんな気持ちで私の話を受け止めたのか。聞いてみたい。

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ロッテ・福浦、来季も現役続行へ、2000安打達成は通過点[デイリー]

2000安打を達成したロッテ・福浦和也内野手(42)が、来季も現役を続行する意思を示した。

「やるつもりでいます。もっともっと若手の成長に(向けて)教えたい」。球団幹部は「本人に聞いてからですが、こちらからどうこう言う選手ではない」と受け入れる考えを明らかにしている。

井口監督も「まだ野球人生は続くと思うので、この先も頑張って欲しい」とエール。来季は5月に抹消となっていた打撃コーチを兼任することが濃厚だ。

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ロッテ福浦、通算2千安打到達、史上2位の42歳9ヶ月[デイリー]

ロッテの福浦和也内野手(42)が22日、ZOZOマリンスタジアムで行われた西武24回戦の8回に小川から右越え二塁打を放ち、史上52人目の通算2千安打を達成した。42歳9ヶ月での到達は、2015年6月11日に42歳11ヶ月で達成した和田一浩(中日)に次ぐ史上2番目の年長達成。ロッテでは1968年の榎本喜八、85年の有藤道世に次いで3人目。

福浦は97年7月5日のオリックス戦に先発してプロ初出場を果たすと4回にフレーザーから初安打をマーク。25年目の今季は残り38本からスタートして、開幕から82試合目の出場で到達した。

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ロッテ・福浦が2000安打達成、生え抜きは榎本、有藤以来3人目[デイリー]

ロッテ・福浦和也内野手(42)がプロ野球史上52人目の通算2000安打を達成した。「6番・DH」で先発出場した福浦は8回、無死。左腕の小川から右翼線二塁打を放ち、大台に到達した。ベース上で万歳。同期生の西武・松井、ロッテ・井口監督などから花束をもらい、感無量の表情を浮かべた。

福浦は75年12月生まれで現在42歳9ヶ月。2000安打達成は15年に42歳11ヶ月で記録した和田一浩(中日)に次ぐ史上2番目の高齢記録となる。

ロッテ生え抜きでは68年の榎本喜八、85年の有藤道世以来で、3人目となる。92年の千葉マリン移転後は初の選手となる。

今季は2000安打へ残り「38」として迎えた。自主トレから開幕へ向け、早めの調整を心がけた。

開幕戦から先発出場を果たし、4試合連続安打を記録するなど幸先のいいスタートを切った。

だが、5月17日には出場選手登録を抹消された。4月26日の楽天戦以来、18打席無安打で、「体がしんどい。力が入らない」と話したように、5、6月はコンディション不良もあっていずれも月間1安打だった。

シーズン中は体中の古傷と年齢との闘いだったが、それでも夏場以降に成績を上げて踏ん張った。

9月に突入してからは複数安打や3年ぶりの本塁打などでラストスパートしていた。

満員のファンから祝福の大歓声。福浦は「最初のヒットがマリンだったし、地元の千葉で出れば最高」と話していたが、その願いはかなった。

初安打は97年7月5日・千葉マリンスタジアムでのオリックス戦だった。「7番・一塁」での1軍初スタメン。4回にフレーザーから放った。

習志野高の左腕のエース・兼4番として、93年のドラフトで7位の入団だった。ドラフトの最終指名選手となり、支配下選手枠70人の最後で、このことから背番号は「70」となり、98年に現在の背番号「9」となる。

入団直後から左肩、ヒジを痛めて立ち投げもままならず、1年目94年、球宴前に打者転向を打診された。1ヶ月悩み続けて転向を決断。「言葉では表せない」という“恩人”の山本功児2軍打撃コーチらに指導を受けて頭角を現した。97年から1軍に定着した。

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楽天・今江、元同僚の福浦を祝福「常にヒットを打っているイメージ」[デイリー]

ロッテ・福浦和也内野手(42)が通算2000安打達成したことを受け、元チームメートの楽天・今江年晶内野手(35)が祝福のコメントを寄せた。

「2000安打達成おめでとうございます。ロッテにいた頃は、福浦さんは常にヒットを打っているイメージでした。あの頃のロッテの野手は、福浦さんの素晴らしいバッティングを見て育ちましたからね。
その福浦さんが2000安打を打つまで苦労されているのを見て、改めてすごい記録なのだなと思いました。できれば生で見たかったですね」。

また、習志野高校の後輩にあたる楽天・山下斐紹捕手(25)も、大先輩に祝福のコメントを寄せた。

「2000安打を達成されて、本当に嬉しく思います。福浦さんは、いつもグラウンドで挨拶に行くと、気さくに挨拶を返してくださる偉大な先輩です。
前回、残り4本のときに2試合対戦したときは、打って欲しいと思う反面、打たれたくないという気持ちで戦わせていただきました。これからは少しでも偉大な先輩に近づけるよう僕も頑張ります」。

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1999安打のロッテ福浦、快挙目前も第3打席は四球でファンため息[デイリー]

2000安打に王手をかけた福浦和也内野手(42)が「6番・DH」で先発出場した。9試合連続のスタメンで、打順は21日の「8番・DH」から上がっての登場となった。

2回に先頭打者として最初の打席に入り、今井が1−0から投じた146キロのストレートをたたいたが、中飛だった。

第2打席は4回。やはり先頭打者で、2−2から低めの球に手を出して遊飛だった。

第3打席は6回1死。一塁に井上を置いて四球だった。満員のファンからはため息がこぼれた。

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ロッテ、福浦の「FUKUMETERコレクションカード1999本」を配布[デイリー]

ロッテは22日、福浦和也内野手(42)が21日の西武戦で1999安打を記録したことを受けて、「FUKUMETERコレクションカード1999本」の配布を同日に行うと発表した。

これは1995安打目からヒットを放った翌ホームゲーム(1試合最大1枚の配布。複数安打を放った場合はさらに翌ホームゲーム。ホームゲーム日ごとに繰り越して配布)で配布する企画。

22日、2000本安打を達成した場合は26日の楽天戦(ZOZOマリンスタジアム・18時15分試合開始)で、「FUKUMETERコレクションカード1999本」のカードを来場者に配布する。

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ロッテ、22日西武戦チケットが完売、福浦2000安打にあと1本で[デイリー]

ロッテは22日、福浦和也内野手の2000本安打がかかった同日の西武戦のチケットが午前7時までに販売予定枚数完売になったと発表した。当日チケットの販売はない。

チケット担当者は「大勢のお客さまに前売チケットをご購入いただき、誠にありがとうございました。福浦選手が1999安打を記録した時からWEBを中心に問い合わせが殺到し、試合後は前売チケット売り場に長蛇の列ができました。改めて目前に控えている記録の偉大さと福浦選手の人気を感じました」とホクホク顔だった。

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