小林宏之投手が11日、埼玉のロッテ浦和球場に今年初めて姿をみせた。ダッシュ、ノック練習など約4時間汗を流した小林宏は、6月に誕生予定の第1子のために、自身のロケットスタートを誓った。
昨年4月に佳世夫人(19)と入籍、12月には挙式、披露宴を行い、約5か月後には初の“宝物”も授かる小林宏。心身ともに充実しているかと思えたが、1つ懸念材料がある。「負けると、僕以上に機嫌が悪くなるんですよね」野球は詳しくないが、夫の失態を目の当たりしては新妻は“鬼嫁”と化してしまう。シーズン開幕ころには安定期に入っているが、心的ストレスを与えては胎教に悪影響を及ぼすことも考えられる。
2ケタ勝利、チームのプレーオフ進出にもあと1勝足りなかった昨季。巻き返しに向けて準備は整っている。「小ぢんまりしたフォームもどうかなと思って」と投球スタイルをセットポジションからノーワインドアップへの変更を試みたり、スクワットなど下半身重点の筋トレを精力的に行い、今月下旬にはブルペン入りできる見込みだ。
「開幕ダッシュ?それはそうですね。まずは1年間ローテーションを守ることですね」夫人に“優良児”を生んでもらうためにも、余計な心配をかける訳にいかない。
ロッテ首脳陣が、米国で臨時スタッフ会議を行うことが11日、分かった。米国滞在中のボビー・バレンタイン監督が、コーチ陣を招集。コーチ6人が13日に渡米する。現地で首脳陣が今季の方針を話し合う予定で、監督の自宅で“コーチ合宿”を行うプランも浮上している。
アメリカではバレンタイン監督が主催する全米規模の「コーチ・コンベンション」にも参加。メジャー流の技術指導術も学ぶ。
渡米するのは西村ヘッドコーチ、井上投手コーチ、古賀2軍監督ら6人。米国帰国中のロブソン、ランペン両コーチも招集され、首脳陣9人が集合する。コネティカット州のバレンタイン監督の自宅で“お泊まり合宿”を敢行するプランもあるという。
9日には球団幹部も合宿所で臨時合宿を行い、意思統一を図ったばかり。フロントも現場スタッフも一丸となり、ロッテが31年ぶりの優勝を奪いにいく。
野球界の功労者をたたえる「野球殿堂」の表彰者が11日、東京・水道橋の野球体育博物館で発表された。「競技者表彰」部門は、右ひじ手術から復活し215勝を挙げた元ロッテ投手の村田兆治さん(55)と、巨人V9時代の正捕手で西武監督としてリーグ優勝8回、日本シリーズ優勝6回を達成した森祇晶さん(68)が選ばれた。また、「特別表彰」では1959年の天覧試合を実況した元NHKアナウンサー、志村正順さん(91)が選出された。表彰式は7月22日のオールスター第1戦(西武ドーム)で行われる。
栄えある受賞式の雛壇で、村田さんの顔は上気していた。「(殿堂入りは)野球人生の卒業式という印象が強かったが、まさか自分が入るとは思わなかった。戸惑っています。夢を持ってプロに入って、厳しさも経験した。一生懸命に努力すると報われるということかもしれない」感謝と戸惑いと。ひたむきで武骨な男らしい受賞挨拶だった。
現役時代は「マサカリ投法」と呼ばれた豪快なフォームから繰り出す速球と、フォークで活躍した。しかし、プロ入り15年目の82年に右ひじを痛め、翌年4月、渡米してジョーブ博士の手術を受けた。ひじにメスを入れるのは「タブー」とされる時代。「ゼロからの出発。カムバックした時は“勝つ”という執念を持ち自分の勝利のために投げた」85年、17勝を挙げカムバック賞を受賞。不屈の精神でよみがえった。
ゲストスピーチにはロッテ時代の監督である金田正一さんが駆けつけた。「時の流れを感じますね。親子のような関係だし、素直にバンザイしたい」と愛弟子の栄光を素直に喜んだ。「想像を絶する練習量に耐えた。努力に耐えて努力する数少ない選手」と賛辞を惜しまなかった。
引退後は離島を巡り、少年少女に野球の楽しさを教えている。既に約40の離島で野球教室を行い、今後は3月に「マサカリ・ドリームズ」を有志で結成、地域に根ざして野球を広めていくことが目標だ。「野球という競技に出合わなかったら私の人生はない。社会に少しでも還元していきたい」。
いまだにトレーニングを欠かさず、55歳の速球は140キロを超える。「速い球に子供達は感動してくれる。まだ現役には負けない」不死鳥は夢に向かって、これからも羽ばたいていく。
野球殿堂入りを決める野球体育博物館の競技者、特別両表彰委員会は11日、通算215勝を挙げた元ロッテ投手の村田兆治氏(55)、巨人V9時代の捕手で元西武監督の森祇晶氏(68)=共に競技者表彰、また元NHKアナウンサーの志村正順氏(91)=特別表彰=の3氏を選出し、発表した。殿堂入りはこれで合計154人となった。
マサカリ投法と呼ばれた豪快なフォームで剛球とフォークを投げ続けた村田さんは平成2年に41歳で引退。それから15年が経ち、55歳になった今でもマスターズリーグに参加し、140キロの速球を投げ続けている。
開票結果(一部) | |
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氏名 | 票数 |
村田兆治 | 234 |
森祇晶 | 223 |
門田博光 | 205 |
高木守道 | 184 |
山田久志 | 169 |
権藤博 | 168 |
星野仙一 | 144 |
大沢啓二 | 133 |
梶本隆夫 | 109 |
田淵幸一 | 82 |
外木場義郎 | 81 |
村上雅則 | 78 |
[注]投票委員総数291名(プロ野球担当歴15年以上の記者)、有効投票数287票、当選必要数216票(有効投票数の75%)
「まだまだ現役には負けないよ」。その言葉通り、今でもトレーニングは欠かさない。
33歳のときに右ヒジを痛めた。医者からは「再起は難しい」といわれたが、情報を集め、大リーガーを執刀していた米ロサンゼルスのジョーブ博士を訪ねた。当時、日本ではヒジや肩にメスを入れることがタブー視されていたが「もう1度投げたい」という一心で、腱の移植手術を受けた。
それから3年のリハビリを乗り越え、36歳となった昭和59年、開幕から11連勝を含む17勝(5敗)を挙げ復活。毎週日曜日に登板し“サンデー兆治”と呼ばれた。
平成9年には急性心筋梗塞で緊急入院。今でも血管には金属器具が入っているが、それでも引退後から始めた全国の離島での少年野球教室を続けている。北は利尻島から南は小笠原諸島、尖閣諸島まで訪れた島の数は40以上。今春には村田さんに賛同するプロ野球OB有志による“マサカリドリームス”を結成し、離島の子供達と親善試合をする計画もある。
座右の銘は“人生先発完投”。野球人・村田兆治のピッチングはまだまだ中盤だ。
西武黄金時代を築いた森氏も殿堂入り。現在はハワイ在住でこの日は欠席したが「長年、野球界に身を置いてきただけに多くの方に感謝の気持ちを伝えたい。現場のよき理解者をはじめ、素晴らしい選手達と共に戦った結果です」とコメントを寄せた。現役時代は巨人V9に貢献。昭和61年に西武監督に就任してから9年間で8度のリーグ制覇と、まさに優勝請負人だった。7月22日、西武ドームでの球宴第1戦で行われる表彰式には出席する予定だ。
特別表彰された志村正順さんはNHKの名アナウンサー。戦後再開されたプロ野球(東西対抗戦)は志村さんの「久し振りに、本当に久し振りに、職業野球の実況中継をお送りします」という名文句で始まった。松竹などで監督を務めた小西得郎氏との名コンビは有名で、昭和34年の天覧試合、巨人−阪神戦では長嶋のサヨナラ本塁打を伝えた。志村さんは「91年生きてきて、1番嬉しい。(実況での)思い出は西鉄が巨人に3連敗してから4連勝した33年の日本シリーズ」と語った。
野球体育博物館の競技者、特別両表彰委員会は11日、3人の殿堂入りを発表した。競技者表彰は“マサカリ投法”で通算215勝を挙げた元ロッテの村田兆治氏(55)と巨人V9を支えた名捕手で元西武監督の森祇晶氏(68)の2人。特別表彰では元NHKアナウンサーの志村正順氏(91)が選出された。殿堂入りは計154人。表彰式は7月22日のオールスター第1戦(西武ドーム)で行われる。
晴れの席、感激と照れくささが入り交じる。ダイナミックなマサカリ投法とは対照的な朴訥な語り口。武骨なイメージがする大投手らしい喜びの第一声だった。
55歳。65年のドラフト制導入以降にプロ入りした野球人としては鈴木啓示、福本豊両氏(共に02年、54歳で殿堂入り)に次ぐ3人目の栄誉ではあるが、とびきり早い殿堂入りではない。
プロ15年目の82年に右ひじを痛め、投手生命の危機にさらされた。霊感マッサージなどあらゆる治療にすがったが効果なく、83年に渡米し当時日本ではタブー視されていたメスを入れた。腱移植の大手術。苦しいリハビリに耐えて85年に復活、そこから59勝を挙げた。
頂点と地獄を見たからこそ野球に対する感謝の思いは深い。「野球という競技に出会わなかったら今日の自分はない。地域社会に少しでも還元したい」。現役引退後、離島を回って野球を指導してきた。北海道の利尻、礼文をはじめ40を超す離島を訪れた。指導にあたっては実際に投げてみせる。「精神込めて魂を投げる。でないと感動は与えられない。真剣に投げることによって、目標と夢を持つことの大切さを感じて欲しいんです」。
だから自己鍛錬を欠かさない。ジム通いはもちろん、極力エレベーターより階段を使い、暇があればグーとパーを繰り返して握力を鍛えている。「まだ現役には負けない」。今でも140キロ台の速球を投げられる秘けつはここにある。離島行脚は3月から新たなステージに入る。プロ野球OBを集めて「マサカリドリームズ」を結成。長崎・対馬を皮切りに子供達に夢を届けていく。
殿堂入りした野球伝道師。野球人生の卒業式はまだ当分先になる。
91歳、プロ野球の創成期から熱戦を伝えてきた名アナウンサーが殿堂入りの喜びを噛み締めた。「91年間、生きてまいりましたが、今日が1番嬉しい日です」。
志村氏は1936年11月29日、巨人−セネタース戦で初めてラジオ中継。沢村栄治の快投を伝えた。43年には学徒出陣壮行会を中継。55年からは小西得郎氏との名コンビで、ファンを喜ばせた。「小西さんはシャレがうまいし、小唄もうまかった。私が隣に座ってくださいと口説いたんです」。59年には巨人−阪神の天覧試合を中継。小西氏との名調子で野球放送の礎を築いた。
「1番思い出に残っているのは、西鉄が巨人に3連敗から4連勝した昭和33年(58年)の日本シリーズ。アナウンサーと解説者は馬子と馬の関係。アナウンサーが馬子になって引っ張っていかなきゃいけませんよ」と後輩達への苦言も忘れていなかった。
捕手として巨人のV9を支え、監督としては西武を8度のリーグ優勝、6度の日本一に導いた森氏。現在はハワイ在住で、発表の席には姿を見せず、関係者に「日本から連絡を受けて本当に驚いております。選考があったことも知らず、正月早々に嬉しい限りです。長年野球界に身を置いてきただけに、多くの方に感謝の気持ちを伝えたいと思います」というコメントを託した。
野球界の功労者をたたえる野球殿堂入りが11日、野球体育博物館(東京ドーム内)で発表された。競技者表彰は「マサカリ投法」で通算215勝を挙げた村田兆治氏(55)と、西武監督として日本一6度、巨人V9メンバーとしても活躍した森祇晶氏(68)を選出した。特別表彰は実況中継のスタイルを確立したといわれる元NHKアナウンサーの志村正順氏(91)を選んだ。表彰式は球宴第1戦(7月22日=西武ドーム)で行われる。これで殿堂入りは154人となった。
トップ当選で殿堂入りを果たした村田氏は、受賞スピーチで、いきなり新チーム「マサカリ・ドリームズ」の設立を宣言した。「私のような若輩者が、名誉ある殿堂入りなんて、戸惑っている。これも『兆治よ、もっと社会のために働け』というゲキと受け止めたい」。緊張気味に話した。
プロOB12、13人でチームを結成。これまでも島々を巡ってきたが、今後はチームとして離島振興のため島民との親善試合や少年少女達に野球教室を開く。1回目は3月上旬、長崎・対馬を内定。近くメンバー構成と共に正式発表する。
「人生、先発完投」を座右の銘に、55歳の今日まで全力で走ってきた。2度の入院生活で「精一杯生きる」ことを学んだ。1度目はロッテのエースだった33歳の時、右ヒジ故障で当時タブー視されていた移植手術を受けた。復活を目指すも、最初は淑子夫人とのキャッチボールで10メートルも届かなかった。それが2年半のブランクの後、35歳で17勝をマーク、復活した。当時の金田正一監督はこの日のゲストスピーチで「兆治ほど努力の文字が似合う男はいない」と殿堂入りを喜んだ。
ダイエーコーチ時代には、心筋梗塞で手術を受けた。今も血管に小さな金属板が埋め込まれている。それでも日々のトレーニングを欠かさない。ウオーキングや柔軟体操などの簡単なメニューを暇を見つけてはこなす。体重は現役時代よりわずか4キロ増の84キロ。そんな中高年の星は、55歳目前の昨年11月、マスターズリーグで141キロを記録してファンを驚かせた。
それでも「やり残したことがある」と言う。島の人達の心の温かさに触れたことが縁で、引退後、離島巡りを始めた。日本には離島が約220。通算215勝の村田氏は「勝ち星の数だけ回りたい」と目標を掲げたが、現在、踏破数は40余島。今度は「マサカリ・ドリームズ」を率いて再挑戦する。
野球殿堂入り | ||
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年度 | 氏名 | プロフィル |
59 | 正力松太郎 | 日米野球成功させ巨人創設 |
平岡熈 | 日本初の野球チームを創設 | |
青井鉞男 | 一高投手で野球規則を邦訳 | |
安部磯雄 | 学生野球の父 | |
橋戸信 | 都市対抗野球生みの親 | |
押川清 | 「日本運動協会」創設 | |
久慈次郎 | 函館オーシャンの名捕手 | |
沢村栄治 | 若くしてこの世を去った右腕 | |
小野三千麿 | 慶大投手で大リーグに快投 | |
60 | ※スタルヒン | 初の300勝投手 |
飛田忠順 | 早大の名捕手で監督も | |
河野安通志 | 初の球団創立に尽力 | |
桜井弥一郎 | 第1回の早慶戦で勝利投手 | |
62 | ※池田豊 | 学生・プロ球界の名審判 |
市岡忠男 | 職業野球連盟初代理事長 | |
63 | ※中島治康 | 日本球界初の3冠王 |
64 | ※若林忠志 | 七色の変化球を持つ好投手 |
宮原清 | 社会人野球協会初代会長 | |
65 | ※川上哲治 | 打撃の神様、V9巨人監督 |
※鶴岡一人 | 南海時代を築いた名監督 | |
井上登 | 第2代コミッショナー | |
宮武三郎 | 慶大投手で阪急初代主将 | |
景浦将 | タイガースの4番兼投手 | |
66 | 守山恒太郎 | 一高時代の名投手 |
67 | 腰本寿 | 慶大黄金時代の名監督 |
68 | 鈴木惣太郎 | 草創期に日米交流に尽力 |
田辺宗英 | 後楽園スタヂアム第4代社長 | |
小林一三 | 阪急球団結成 | |
69 | ※苅田久徳 | 一世を風靡した二塁手 |
三宅大輔 | 巨人、阪急初代監督 | |
田部武雄 | 巨人結成時の二塁手 | |
森岡二朗 | 日本野球連盟の初代会長 | |
島田善介 | 慶大・三田倶楽部の名捕手 | |
有馬頼寧 | 東京セネタース結成に尽力 | |
70 | ※天知俊一 | 中日監督時代に日本一 |
※二出川延明 | パ・リーグの初代審判部長 | |
田村駒治郎 | 松竹ロビンスのオーナー | |
直木松太郎 | 規則を本格的に翻訳出版 | |
中馬庚 | ベースボールを野球と訳す | |
71 | 小西得郎 | 独特の話法で野球アピール |
水野利八 | 野球用具の改良に尽力 | |
72 | ※石本秀一 | 広島の初代監督 |
中野武二 | 審判の権威、信頼を確立 | |
太田茂 | スポーツ記者の草分け | |
73 | 内海弘蔵 | 明大野球部を創設 |
天野貞祐 | 学生野球協会の第2代会長 | |
広瀬謙三 | 記録の第一人者 | |
74 | ※藤村富美男 | 初代ミスタータイガース |
※藤本定義 | 5球団率いた名監督 | |
野田誠三 | 甲子園の設計工事責任者 | |
76 | ※中上英雄 | 日本の完全試合第1号 |
小泉信三 | 学徒出陣壮行早慶戦 | |
77 | ※水原茂 | 巨人黄金時代の名監督 |
※西沢道夫 | 投打に活躍した中日強打者 | |
森茂雄 | 早大監督からプロの監督も | |
西村幸生 | 戦前のタイガース投手 | |
78 | ※松木謙治郎 | 初代タイガース主将 |
※浜崎真二 | 48歳で投げた小さな大投手 | |
伊丹安広 | 早大の名捕手 | |
吉原正喜 | 巨人黄金期の名捕手 | |
岡田源三郎 | 明大の万能選手 | |
79 | ※別所毅彦 | 通算310勝の巨人エース |
平沼亮三 | 東京6大学野球第2代会長 | |
谷口五郎 | 大正時代の早大投手 | |
80 | ※大下弘 | 「青バット」の天才打者 |
※小鶴誠 | 1シーズン51本の本塁打王 | |
千葉茂 | 猛牛の異名持つ名二塁手 | |
81 | ※飯田徳治 | 1246試合連続出場 |
※岩本義行 | 1試合4ホーマーの神主打法 | |
佐伯達夫 | 第3代日本高野連会長 | |
小川正太郎 | 社会人野球協会結成に尽力 | |
82 | 鈴木龍二 | セ会長として発展に貢献 |
外岡茂十郎 | 学生野球憲章制定に尽力 | |
83 | ※三原脩 | 「魔術師」と呼ばれた知将 |
内村祐之 | 第3代コミッショナー | |
84 | 桐原真二 | 早慶戦復活に尽力 |
85 | ※杉下茂 | フォークボールの神様 |
※白石勝巳 | 巨人の名遊撃手 | |
※荒巻淳 | パの100勝投手第1号 | |
田中勝雄 | 早大時代3度の首位打者 | |
山内以九士 | 規則・記録の研究で貢献 | |
86 | 中河美芳 | 華麗な一塁の守備で魅了 |
松方正雄 | タイガース初代会長 | |
87 | 藤田信男 | 法大初優勝の名監督 |
山下実 | 慶大時代を築いた強打者 | |
88 | ※長嶋茂雄 | 背番号3、ミスタープロ野球 |
※別当薫 | 強打者で監督も歴任 | |
※西本幸雄 | 8度パ優勝に輝く名将 | |
※金田正一 | 通算400勝、4490奪三振 | |
横沢三郎 | プロ野球草創期の名審判 | |
芥田武夫 | 早大の名外野手 | |
永田雅一 | 大毎の名物オーナー | |
89 | ※島秀之助 | 初代のセ審判部長 |
※野村克也 | 捕手で3冠王 | |
※野口二郎 | 延長28回投げた鉄腕 | |
池田恒雄 | 球界に貢献大の出版人 | |
伊達正男 | 捕手から鉄腕投手に変身 | |
90 | ※真田重蔵 | 速球とドロップの好投手 |
※張本勲 | 3085安打の安打製造機 | |
佐伯勇 | 近鉄球団オーナー | |
91 | ※牧野茂 | V9導いた参謀コーチ |
※筒井修 | 3000試合出場の名審判 | |
※島岡吉郎 | 明大率いた御大監督 | |
中沢良夫 | 春夏甲子園の基盤をつくる | |
92 | ※広岡達朗 | セ・パで日本一監督に輝く |
※坪内道則 | 1000試合、1000安打第1号 | |
※吉田義男 | 牛若丸と呼ばれた名遊撃手 | |
吉田正男 | 中京商夏の甲子園3連覇 | |
93 | ※稲尾和久 | 西鉄時代築いた鉄腕投手 |
※村山実 | 2代目ミスタータイガース | |
94 | ※王貞治 | 868本世界のホームラン王 |
※与那嶺要 | 走攻守揃った日系2世 | |
広岡知男 | 野球の五輪参加に貢献 | |
95 | ※杉浦忠 | 日本シリーズ4戦全勝 |
※石井藤吉郎 | アマ強打者は全日本監督も | |
呉昌征 | 「人間機関車」は快足強肩 | |
村上実 | プロ草創期の阪急代表 | |
96 | ※藤田元司 | 巨人のエーズから名監督へ |
※衣笠祥雄 | 2215試合連続出場の鉄人 | |
牧野直隆 | 第4代日本高野連会長 | |
保坂誠 | 初の屋根付き球場建設 | |
97 | ※大杉勝男 | セ・パ1000本安打1000試合 |
山本英一郎 | キューバなどの交流に貢献 | |
98 | 井口新次郎 | 和歌山中、早大の名選手 |
中尾碩志 | 通算209勝の巧投手 | |
99 | ※中西太 | 怪童と呼ばれた強打者 |
※広瀬叔功 | 盗塁王の名外野手 | |
※古葉竹識 | 赤ヘル時代を築いた名監督 | |
※近藤貞雄 | 投手分業制のアイデア監督 | |
吉国一郎 | 第9代プロ野球コミッショナー | |
00 | ※米田哲也 | 通算350勝でタフネス右腕 |
福島慎太郎 | パ会長で人気回復に尽力 | |
01 | ※根本陸夫 | 西武黄金時代の基礎築く |
※小山正明 | 抜群の制球力で320勝 | |
武田孟 | 日米大学野球開催に尽力 | |
長谷川良平 | 広島支えた小さな大投手 | |
02 | ※山内一弘 | シュート打ちで2271安打 |
※鈴木啓示 | 「草魂」モットーに317勝 | |
※福本豊 | 俊足自慢は通算1065盗塁 | |
※田宮謙次郎 | 打者に転向し首位打者獲得 | |
中沢不二雄 | パ連盟初代会長は名解説も | |
生原昭宏 | 日米球界の懸け橋役果たす | |
正岡子規 | 野球文化の普及に貢献大 | |
オドール | 日米野球で親善に尽力 | |
03 | ※上田利治 | 通算1322勝の闘将監督 |
※関根潤三 | 投手・野手で球宴出場 | |
松田耕平 | 赤ヘル時代を築いたオーナー | |
ウィルソン | 野球を最初に伝えた米教師 | |
鈴鹿栄 | 少年用軟式ボールを考案 | |
04 | ※仰木彬 | イチロー発掘の人気監督 |
秋山登 | タフネス下手投げ193勝 | |
05 | ※村田兆治 | マサカリ投法で215勝 |
※森祇晶 | 日本一6度の名将 | |
志村正順 | スポーツの語り部アナ |
[注]※は競技者表彰委員会選出
楽天の本拠地、宮城球場の正面玄関前に“立ち食い寿司店”が誕生する。仙台市内で「成巧寿司」を営む佐藤成人さんが出店。白熱したゲーム中に観客席へ出前を届けるプランもあり、ファンにとっては美味しいサービスになりそうだ。佐藤さんはこの道38年の寿司職人。「本職だからシャリの味も違う。“これが本当の寿司だ”というのを手頃な値段で出したい」と意気込む。松島周辺の沖で水揚げした穴子のにぎりは横浜・佐々木、ヤクルト・高井も絶賛しており、さらに仙台名物の「牛タンにぎり」を売り出す。本マグロ、ウニなどの高級品を揃えるほか、ルーキー・一場の加入にちなんで「一場(市場)寿司」なども考案中だ。
小坂誠内野手が11日、1日に入籍した照美夫人(27)と挙式した。岩手県内の神社で親族のみが出席。「これからは1人ではないので、責任感をすごく感じています。1年でも長く野球ができるように一生懸命やるだけです」。