わたしはかもめ2005年鴎の便り(7月)

便

7月2日

千葉ロッテ1−3西武(千葉マリン)

西武が粘るロッテを振り切り、連敗を7で止めた。西武は1回、赤田の3号ソロで先制すると、5回には高波、赤田の連続適時打で2点を追加した。8回にロッテ橋本の4号ソロで1点を返され、なおも2死二、三塁とされるが、センター赤田の好守で追加点を許さなかった。9回には3人目森が走者を出すも3つの三振を奪い、3月27日以来のセーブをマークした。先発西口は8回を1失点に抑え、2年連続9度目の2ケタ勝利となる10勝目を挙げた。一方ロッテは終盤のチャンスにあと1本が出ず、西武戦の連勝は6でストップした。

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西武1000200003
千葉ロッテ0000000101
セラフィニ
「ノーコメントにして欲しい…。」
バレンタイン監督
「今日はこちらもいいピッチングをしたと思うが、残念ながら追いつくことができなかった。」

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先制されると…

リーグ戦再開後、初の連勝はならなかった。8回に橋本の4号ソロで2点差とし、9回も1死一、二塁と攻めたが届かなかった。交流戦を終えてから2勝6敗で、敗戦は全て先制された展開。バレンタイン監督は「残念ながら追い付くことができなかった。(西口は)変化球がキレていた。チェンジアップが良かった」と振り返った。試合後はボールの回転数まで判別する高性能ビデオの試験をグラウンドで行い、今後に生かす構えだ。

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ロッテ、西口にお手上げ[スポニチ]

9回2死一、二塁から重盗のサイン(打者がファウル)を出すなど、バレンタイン監督の必死の采配も勝利へは結びつかなかった。西口の前に打線が沈黙し、7回までわずか2安打。8回、橋本が4号ソロを放ち、マウンドから引きずり降ろしたが反撃もここまで。「ウチの投手陣もいい投球内容だったが、相手がそれ以上によかった。西口の変化球は右打者にも左打者も関係なく切れていた」と指揮官も最後はお手上げだった。

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ロッテ追い上げ及ばず…橋本4号ソロも「勝たないと…」[サンスポ]

好投・西口の前に打線は7回までわずか2安打と沈黙。バレンタイン監督は「うちもピッチャーは良かったが、残念ながら追いつけなかった」と振り返った。8回には橋本が一矢報いる4号ソロ。「あれで9回に交代するきっかけになってくれた。でも、勝たないと意味がない…」と言葉少な。9回は2四球で好機をつくったが、生かせなかった。

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加藤イースタンで完全試合[ニッカン]

◇27歳の誕生日、1軍アピール

加藤康介投手(27)が2日のイースタンリーグ・ヤクルト戦(ロッテ浦和)で球団初、リーグ史上3人目の完全試合を達成した。奪三振6ながら、コーナーを丹念につき完璧な投球で内野ゴロ11を奪った。直球も最速143キロでキレを見せた。この日は27歳の誕生日で「いい投球をしたいと思っていたので、最高の結果が出て良かった。野手のファインプレーなどで、自分を助けてくれたおかげ」と語った。01年入団で1年目に9勝、2年目に11勝を挙げている。今季は1軍で2勝1敗ながら、好調な先発投手陣の枠に入れず、5月6日に登録抹消された。「この試合をきっかけに1日でも早く1軍に上がり、いい投球ができるよう頑張っていきたい」。バレンタイン監督も「偉業は素晴らしいの一言。チーム全体にとっても良かった」と評価。2軍で好投を続けているだけに、1軍昇格の可能性も出てきた。

加藤
「自分の誕生日だったので、いい投球はしたいと思っていたので、最高の結果が出て良かったです。野手の人がファインプレーなどで、自分を助けてくれたお陰だと思っています。守ってくれた野手の人に感謝しています。5回を投げ終えて完全だったので、6回から意識していました。調子自体もよかったので、8回を投げ終えて、できるのではないかと思って最後のマウンドへ向かいました。この試合をきっかけに、1日でも早く1軍に上がりいい投球ができるように、また明日から頑張って行きたいです。」
バレンタイン監督
「加藤の偉業は素晴らしいの一言に尽きる。喜ばしいことだし、チーム全体にとっても良かったと思う。」

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加藤、イースタンで完全試合![スポニチ]

イースタン・リーグのロッテ−ヤクルト戦(ロッテ浦和)で、ロッテの5年目・加藤康介投手(27)が史上3人目の完全試合を達成した。三振6、内野ゴロ11、内野フライ3、外野フライ7。この日最速143キロの直球と変化球が低めに集まった。

マウンドにできた歓喜の輪。寺本が用意したバケツに入った水を上からかけられたサウスポーは「誕生日だったので、いい投球をしたかった。守ってくれた野手のおかげです」とずぶ濡れになって笑った。

守備陣も5年目の左腕を助けた。8回、中前へ飛んだ畠山の痛烈な打球を大松がスライディングキャッチ。9回2死、梶本に対してカウント1−3となった場面では「腕が縮こまった」が、女房役の田中雅が強気に真ん中直球を要求すると、最後は二ゴロに仕留めた。

千葉マリンで一報を聞いたバレンタイン監督も「素晴らしい偉業。チームにとっても大きい」と祝福。交流戦後、1軍は2勝6敗と苦しむが、こんな投手が控えているのだから頼もしい。「これをキッカケとしたい」。今季1軍で2勝。2軍で5勝、3完封。5月5日の楽天戦(千葉マリン)以来となる28番の復帰準備は整った。

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加藤2軍ヤクルト戦で完全試合[報知]

◇18年ぶり!27歳誕生日114球で大仕事

加藤康介投手(27)が2日、イースタン・リーグ、ヤクルト戦(ロッテ)で、同リーグ史上3人目となる完全試合を達成した。1962年の山崎正之(巨人)、87年の増本宏(大洋=現横浜)以来、18年ぶりの快挙だ。

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ヤクルト0000000000
千葉ロッテ02010000x3

くしくもこの日は27歳の誕生日。「自分の誕生日だったので良い投球をしたいと思っていた」と気合十分で臨んだ左腕は、最速143キロの直球、変化球共にキレは最後まで衰えず「最高の結果を残せました」と114球での偉業に満面の笑みがこぼれた。

入団2年間で計20勝を挙げた加藤も、ここ2年間は制球難や故障などに苦しみ1勝だけ。昨秋に新球・チェンジアップを覚え、復活を目指した今季は4月に2勝。しかし、清水、小林宏、渡辺俊、久保、小野、セラフィニと6枚の先発陣が好調を維持しているため、5月5日の楽天戦(千葉マリン)を最後に1軍マウンドから遠ざかっている。

リーグ戦再開後、先発陣の不調が目立つロッテだが「みんなまだ1回しか投げてないからね」(井上投手コーチ)と1軍昇格の可能性は低い。それでも、快挙を伝え聞いたバレンタイン監督は「チーム全体にとってもいいことだ」と素直に喜びを表した。「この結果をきっかけに1日も早く1軍のマウンドに戻りたい」“救世主”として声がかかるまで、加藤は腐らず黙々と投げ続ける。

加藤康介(かとう・こうすけ)
1978年7月2日、静岡県生まれ。27歳。清水商、日大を経て00年、逆指名でロッテに入団。ルーキーイヤーの01年にいきなり9勝を挙げると、翌02年も11勝。今季、1軍では3試合登板し2勝1敗、防御率3.06。180センチ、80キロ。左投左打。独身。

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加藤がイースタンで完全試合…誕生日に快挙[サンスポ]

加藤康介投手(27)=日大出、5年目=が2日、イースタン・ヤクルト10回戦(ロッテ浦和)で完全試合を達成した。三振6、内野ゴロ11、内野フライ3、外野フライ7の内容。昭和37年の山崎正之(巨人)、昭和62年の増本宏(大洋)に続き、イースタン史上3人目の快挙。この日27歳の誕生日を迎えた加藤は「最高の結果。野手に感謝します」と二重の喜びに浸った。

開幕当初は先発として3試合に登板し2勝(1敗)。しかし、現在も先発を6人で回すほど投手陣が豊富なロッテ。登板機会がないため、2軍での調整が続いていた。

1軍は西武に完敗したが、朗報にバレンタイン監督は「素晴らしい偉業だ。チーム全体にとってもよかったと思う」と喜んだ。1軍のマウンド復帰へ、左腕は着実に結果を残している。

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加藤が2軍戦で完全試合[ニッカン]

ロッテの加藤康介投手が2日のヤクルト戦で完全試合を達成した。62年の山崎正之(巨人)、87年の増本宏(大洋=現横浜)に次いでリーグ3人目。アウトの内訳は三振6、内野ゴロ11、内野飛球(邪飛含む)3、外野飛球7だった。

この日が誕生日で「いい投球をしたいと思っていたので、最高の結果が出て嬉しい」と二重の喜びに浸った。

三振が6個と少なく、打たせて取る投球でアウトを重ねたことを「野手がファインプレーで助けてくれたおかげ」と謙虚に振り返った加藤。1軍は清水、小林宏、渡辺俊ら先発6人が揃い、ファーム生活が続いているだけに「1日も早く1軍に上がれるように頑張りたい」と、さらなる精進を誓っていた。

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ロッテ来季キャンプ前半は豪州で[ニッカン]

ロッテが来季から春季キャンプの一部をオーストラリアのジーロンで行うことが2日、明らかになった。3日に正式発表する。ロッテは99年から春季キャンプを鹿児島だけで実施してきた。だが、天候不良や施設の利便性などに問題があるため、メルボルンから車で約1時間のジーロンを候補地として、瀬戸山球団代表らが視察を重ねていた。来季のキャンプは前半をジーロン、後半を鹿児島で行う。

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準支配下選手20人、70人枠プラス2次ドラフト[報知]

◇NPB作業部会、4日実行委提出

日本プロ野球組織(NPB)のワーキングチーム(作業部会)が、現行の支配下選手70人枠のほかに20人ほどの「準支配下選手」枠の設置案をまとめ、4日の実行委員会(議長=小池唯夫パ・リーグ会長)の議題に挙げることが2日までに分かった。

選手獲得は70人の1次ドラフト、準支配下選手20人を2次ドラフトで指名する形式で、70人枠の中に米大リーグ式の故障者リスト(DL)を5人ほど設け、6月30日を期限に相互の入れ替えを可能にするプラン。球界のすそ野を広げる狙いで、準支配下選手には外国籍選手も加入。各球団の準支配下選手は合同チームを作り、社会人と試合するなどの構想も広がる。

作業部会は日本ハム以外のパ・リーグ5球団と巨人で構成され、これまで米大リーグ機構(MLB)、サッカーJリーグなどと協議を重ねた。選手枠拡大は、以前から3軍制構想を支持する広島を作業部会に招き議論。その結果、DL利用の案を発想したようだ。

小池会長は「4日は(作業部会の)報告があるだろう」と、週明けの実行委員会からドラフト制度改革が動き出すとの見方を示した。試案は13日の12球団代表者会議で協議され、最低年俸保証や準選手との契約などの問題も残るが、ようやく基本線が決まりそうだ。

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[東北ベースボール賛歌OB編]自慢の肩でランナー刺す…猪久保吾一[読売新聞]

◇ロッテの門たたく

「自慢の肩をアピールしろ。でなければ正捕手の座はない」。ロッテ入団6年目の1994年4月14日、猪久保は大阪・藤井寺球場での近鉄(現オリックス)戦に意を決してマスクをかぶった。

1点リードの8回、近鉄の先頭打者が一塁に出た。「こちらの投手は投球フォームが大きい。ランナーは必ず二塁を狙う」。予想は的中。地をはう送球でランナーを刺した。続く打者も一塁に出たが、やはり盗塁を防いだ。

「ようやく練習が実になった」。1軍定着を確実にしたと思った。

野球は幼稚園の頃始めた。ずっと三塁手だったが、盛岡商高野球部に入ると、強肩を買われ捕手に転向した。監督の佐々木宏の方針は「練習しない選手は試合でも使わない」。その言葉を励みに遠投や筋トレを繰り返した。

遠投ではコンマ1秒でも速く二塁や三塁に届く肩を身につけようと、低い球を投げた。家でも毎晩200回素振りした。それでも甲子園の土を踏めなかった。卒業後は社会人の本田技研鈴鹿(三重県)に進んだが、2年して実家のそば屋を手伝うために帰郷した。

「さあ、野球とは縁切れだ」。不思議なもので、そう決めるとロッテのスカウトから声がかかった。「まずは練習生なんだが、うちに来ないか」。思いもよらぬ道が開け、ロッテの門をたたいた。

◇正捕手の座争い

入団2年目の90年、春の1軍キャンプに呼ばれた。ブルペンキャッチャー。でも十分嬉しかった。

遠投の練習が来た。「そいつは任せてくれ」。低く、力強い送球が、監督・金田正一の目に留まった。2軍の試合を経験しないまま、いきなり1軍登録を果たした。「そば屋の出前持ちがプロ選手になった」。きつい冗談だったが、正直、自分もそう思った。

3年間、青柳進、福沢洋一らと正捕手の座を争ったが、5年目の93年に2軍へ戻った。絶対にはい上がる−。持ち前のガッツで自らを奮い立たせた。初めて野球人生を考えた。「どこまで行ってもおれは肩。盗塁させない捕手になるしかない」。

送球の腕の振りをさらに小さくした。手首足腰も鍛え直した。捕球と同時に送球するフォームも得た。

復活をかけた挑戦。それが翌94年4月の近鉄戦のマスクだった。2連続盗塁阻止で見事、自分の成長をスタンドとベンチに見せつけた。この年の盗塁阻止率は5割近くを誇った。

が、出番は増えなかった。金田から代わった監督・八木沢荘六は、91年にドラフト2位で獲得した定詰雅彦に注目していた。2人とも強肩が売りだったが、猪久保は技量が一歩及ばなかった。それは自分でもよく分かっていた。

結局、96年、ユニホームを脱いだ。盛岡に戻り、そば屋を手伝ったり、タクシー運転手をしたりした。今度こそ野球とは縁切りのはずだった。それが2年前、また人生を変える不意の訪問者が来た。何と相手は定詰だった。

◇ライバルとの再会

久しぶりの再会。「それにしても、何で今頃おれに用事が」。出された名刺にスポーツ用品のチェーン店の社員とあった。「あ、こいつもユニホームを脱いだんだっけ」。驚きは次の言葉だった。「我が社に来ませんか。今度、盛岡に新しい店を出すんです。最初は店員なんですが、その野球用品のコーナーに」。

就職話より、かつてのライバルが自分を覚えていてくれたことが嬉しかった。「経験が少しでも役に立つなら」。その場で引き受けた。

店では、たまに「あれ、あなた猪久保さん」と声をかけられる。そんな時はプロの思い出話に花が咲く。

子供はほとんど猪久保の経歴を知らない。それでもいい。「プロの世界には、結果を出さないと生き残れない厳しさがある。でも努力はいつか報われる。そんな野球の面白さが少年少女に少しでも伝わるとうれしい」。やはり、この人生は野球で生きていくしかない。もう、とっくに覚悟は決めている。

略歴
盛岡市出身。盛岡商高時代は山蔭徳法投手(のちに日本ハム入り)とバッテリーを組んだ。1989年、ロッテ入団。プロ通算118試合に出場し、24安打、1本塁打の成績を残した。プロ最後のシーズンとなった96年には、ユニホームに名前の「ごいち」を語呂合わせで入れたいと願い出て、背番号を「68」から「51」に変更した。現在、盛岡市の社会人野球チームに所属。

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