わたしはかもめ2005年鴎の便り(12月)

便

12月15日

ロッテのベニーが野球学校設立へ[ニッカン]

「ハワイアンパンチ」からのクリスマスプレゼントだ。ハワイ出身でアジアシリーズMVPのロッテ・ベニー・アグバヤニ外野手(34)が、地元にベースボールアカデミーを設立する構想を明かした。敷地1000平方メートルの自宅を報道陣に公開。毎年オフには地元で野球教室を開催しており、来年1月には5回目を予定している。「自分みたいにワールドシリーズと日本シリーズの両方に出られるような選手を育てたい。将来はこの野球教室をアカデミーに発展させたい」と話した。

現在ハワイには、子供達にしっかりと基礎を教える組織はない。地元を愛するベニーはこの状況に黙っていられなかった。「ハワイからメジャーリーガーになったのは10人ぐらいだけ。基礎から教えていきたい」と話す。現在の野球教室は、10歳から高校3年生まで限定100人で行っているが、1年の大半を日本で過ごすため、継続的に指導できないのが現状だ。

将来に向け、広大な自宅の庭にバッティングケージをつくる予定もある。「前はフットボールの方がメジャーだったけど、今は野球の方が人気があるんだ」。常夏の島の野球人気を引っ張る第1人者が、第2の「ハワイアンパンチ」育成に乗り出す。

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ベニー「野球アカデミーつくりたい」[スポニチ]

ロッテのベニー・アグバヤニ外野手(33)は14日(日本時間15日)、「ベニー・ベースボール・アカデミー」を設立したい考えを明らかにした。ハワイ優勝旅行のチームから離れ、宿泊ホテルから車で約1時間の自宅でのんびりと過ごしたベニーが、壮大な夢を口にした。

「ベースボールアカデミーをつくりたいんだ。子供達に基礎を教えてあげたい。ハワイには組織的な野球学校がないからね」。もちろん引退後の話だが、対象となるのは10〜18歳で、生徒は約100人を募集する予定だ。既に同じハワイ出身で95年からロッテで2軍監督などを務めたレン・サカタ氏らと4年前から小中学生を対象に野球教室を開催している。故郷を愛するベニーが自身の技術と経験をハワイのチビっ子に還元していく。

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ロッテ・ベニーがハワイ『ベースボール・アカデミー』構想語る[サンスポ]

ハワイ出身のロッテ・ベニーが自宅に報道陣を招待。芝生が敷き詰められた庭でハワイ初の『ベースボール・アカデミー』構想の夢を語った。「メジャー、日本シリーズでの経験を子供達に伝えたい」とベニー。現在も球団から使用済みのボールを譲りうけ、野球教室で使用するなど、現地で野球普及に力を入れている。自主トレも既に開始しており「やっぱりこっちは暖かくていいね」と連覇にも抜かりなしだ。

◇セラフィニ白紙…リミットも返答なし

来季の契約を交わしていないセラフィニについて、球団側はで日本時間15日をタイムリミットに設定したが、この日は代理人からの返答がなく、進展もなかった。瀬戸山球団代表は「15日いっぱいは待つ」と説明したが、期限を過ぎても連絡がない場合は「1から考え直す」と明言。その後の再交渉では条件を下げる考えも示唆した。

◇バレンタイン監督は読書

優勝旅行の2日目は自由行動。選手達は家族らとプール遊びやショッピングで時間を過ごした。バレンタイン監督はロビーで、普段は見せないメガネ姿でゆったりと読書。すると、サーフィンに挑戦してきた西岡、渡辺正とバッタリ遭遇し「サーフィン?楽しかったデスカ?すごいデスネ〜」と感心していた。

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ベニーがハワイに野球アカデミー設立構想[報知]

ロッテのベニー・アグバヤニ外野手(33)が、生まれ育ったハワイでの「ベースボールアカデミー」の設立構想を披露した。アジアシリーズ終了後に里帰りしていたベニーはこの日、V旅行取材中の報道陣に対し、ミリラニ市内にある約1000平方メートル(約300坪)の自宅を公開。「コーチというのは将来の選択肢にある。そして『ベースボールアカデミー』をハワイに作りたいんだ」と壮大な構想を真剣なまなざしで語った。

アジア一軍団の主砲は、野球伝道師への道をすでに歩み出している。球団からはこの日、8ダース分の練習球が届けられた。全て子供達へのプレゼント用だ。また、2002年からは毎年、1月中旬に自宅近くで野球教室を開催。「私はワールドシリーズと日本シリーズに出場した。アメリカ、日本の基礎を教えていき、そんな選手になってもらいたい気持ちはある」と祈りを込めた。

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ロッテ“ゴネ得”だけは許さん!! [デイリー]

ごね得は認めない−。ロッテの瀬戸山隆三球団代表(52)が14日(日本時間15日)、来季の契約交渉が難航中の李ら3外国人選手に対し、残留の回答期限を過ぎての交渉には、条件見直しなどの対抗策を取る方針を示した。

「リミットの15日を過ぎたら白紙。以降に向こうから再契約をお願いされても、同じ条件とはいかない」。期限を翌日にした代表は、断固たる姿勢をみせた。昨夜、李とハワイの宿舎で会談したが、李は「全て代理人に任せているので」と意思表示せず。バレンタイン監督が直接交渉中のセラフィニも、代理人から連絡はない状況だ。

ここまで、李には年俸2億円と無期限の複数年をセラフィニ、フランコには倍増の年俸1億2000万円を提示し誠意を見せてきたが、それは期限内の話。期限を過ぎれば、条件を下方修正する対抗策をアピールして、粘り腰の助っ人達に、警鐘を鳴らした。

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米政府、キューバのWBC参加を拒否[スポニチ]

来年3月に行われる野球の国別対抗戦「ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)」へのキューバの参加が米政府に拒否されたことが14日、明らかになった。米財務省の海外資産管理事務所が同日、大リーグ機構にキューバのチーム派遣を認めないと伝えた。

米国はキューバに対して経済制裁を行っており、キューバを相手にした商取引には海外資産管理事務所の許可が必要になる。大リーグ機構と選手会は「キューバの参加を拒んだ政府の決定は非常に遺憾」などの声明を発表。今後も折衝を続けるが、キューバの出場は困難な状況となった。ラテン系諸国の出場ボイコットの可能性を報じる米紙報道もあり今後、大きな波紋を呼びそうだ。

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オリックス1億6800万でセラフィニも獲得[ニッカン]

オリックスは15日、ロッテを自由契約となった左腕セラフィニ獲得にもメドをつけた。複数のプロ野球関係者が「入団の意思を決めたようだ」と話した。12月5日にセラフィニが自由契約となった後、複数球団の争奪戦を制し、推定140万ドル(約1億6800万円)の1年契約にこぎつけた模様だ。JPの巨人移籍を許しただけに、セラフィニの加入は願ってもない先発補強となる。

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仰木さん死す、がんと闘い1年指揮[ニッカン]

近鉄、オリックスで指揮をとり、3度のリーグ優勝、1度の日本一に導いた仰木彬氏が15日午後4時10分、呼吸不全のため福岡市内の病院で死去した。70歳。仰木氏は肺がんで闘病中だった。通算14年に及ぶ監督時代に、イチロー(マリナーズ)、野茂英雄ら名選手を多数育て、意表を突く采配は「仰木マジック」と呼ばれた。今季は近鉄球団と合併した新生オリックスの指揮をとったが、体調不良で辞任し、同球団のシニア・アドバイザーに就任。だが、退任後は入退院を繰り返していた。葬儀は本人と家族の意向で、家族、親族のみの密葬で行われる。

酒を愛し、野球を愛した…。現役時代は二塁手として西鉄の黄金期を築き、近鉄、オリックスでは監督としてチームを優勝に導いた仰木さんがこの日夕方、福岡市内の病院で、息を引きとった。

「グラウンドで死ねたら本望や」。それが最近の仰木さんの口癖だった。

昨オフ、近鉄、オリックスの合併により誕生した新球団の監督を引き受けた。既に体調を崩していたが、古巣の窮地を見過ごす訳にはいかなかった。シーズン中も極秘裏に定期検査を繰り返していたが、がんは容赦なく体を蝕み続けた。

今年は「野球界への最後のご奉公や」と冗談めかしながら、気力を振り絞ってきたが、ついに力尽きた。

パ・リーグ一筋の野球人生だった。西鉄では、三原監督にその非凡な才能を見いだされた。中西、稲尾、豊田らと、野武士軍団といわれた常勝チームを牽引。コーチ業を経て就任した近鉄監督時代、その戦術は“仰木マジック”と称された。名監督だった三原魔術が仰木野球の原点だった。

18年間のコーチ時代を経て、88年に近鉄監督に就任。梨田、大石、阿波野らを擁して、伝説の『10・19』の名勝負を演じた。阪神大震災に見舞われた95年、オリックスで“がんばろう神戸”をスローガンにリーグ優勝。打ちひしがれた被災者を励まし、勇気づけた。連覇、そして長嶋巨人を破り日本一。熱パ仕掛け人として球界を盛り立てた。

まだ2軍選手だった鈴木一朗を「イチロー」とした名付け親だった。天才打者を世に送り出し、今やメジャーを代表するプレーヤーに育て上げた。体をひねって投げる野茂の変則フォームも、そのまま奨励するなど、個性重視がその特性だった。メジャーへ巣立った教え子の元へ、ここ数年は、毎年のように渡米して激励していた。

しかし今オフ、オリックス球団は仰木続投を望んだものの、それもかなわないほど病状は悪化の一途をたどった。酒豪として知られ、カラオケのマイクをもつと演歌や、越路吹雪の曲を歌った仰木さん。この日午後9時過ぎ、遺体は北九州市内にある自宅に運ばれた。グラウンドでは大逆転を何度も演じたが、奇跡は起こらなかった。

仰木彬(おおぎ・あきら)
1935年(昭10)4月29日、福岡県生まれ。東筑高時代4番兼エースで甲子園出場、54年に西鉄入りした。プロでは二塁手に転向、黄金時代の一員として活躍。14年間の現役通算は1328試合に出場、2割2分9厘、70本塁打。西鉄、近鉄コーチを経て88年に近鉄監督に就任。89年にリーグ優勝した。94年からオリックスに移り、95年にリーグ制覇、96年にイチローらを率いて、日本一に輝いた。04年に野球殿堂入り。昨年末、近鉄・オリックス合併球団の監督を任され、復帰した。監督通算は1856試合で988勝815敗53分け、勝率5割4分8厘だった。

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外国人進まぬ残留、代表契約白紙も

ロッテ瀬戸山球団代表が、残留交渉の進まない外国人勢に対して、15日の返答期限までに返事がなかったら「契約を白紙にする」と明言した。この日までダン・セラフィニ投手(31)、李承Y内野手(29)の代理人から返答はなく、同代表は15日(日本時間16日)に帰国する。「いい条件を提示しているつもりだし(15日以降に)もう1度交渉することになっても同じ条件は出さない」と話した。バレンタイン監督は「セラフィニを欲しがっているのはどこですか?」と報道陣に逆取材するなど気をもんでいた。

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