わたしはかもめ2007年鴎の便り(1月)

便

1月2日

大嶺“投げ初め”4K[スポニチ]

ロッテの高校生ドラフト1巡目ルーキーの大嶺が、母校の八重山商工グラウンドで同校OBとの親善試合に先発。昨年10月2日の国体準々決勝(静岡商戦)以来のマウンドながら2回を1安打3四球無失点、4奪三振で“投げ初め”を終えた。それでも伊志嶺監督は「まだまだですね」と辛い採点。今後は10日の新人合同自主トレに向け、上京の準備を進める。

ページトップ

千葉マリンの初投げイベントに1万人[ニッカン]

2日、千葉マリンを開放して「初投げイベント」を開催した。プロ野球選手達が実際にプレーする場所で、自由にキャッチボールを行える企画で、子供から大人まで約1万人が入る大盛況。瀬戸山球団社長も「たくさんの人に喜んでもらえて良かったです」と笑顔で話した。ファンサービスには12球団トップクラスの自負があったが、昨年11月12日「マリーンズファンフェスト2006」では、ファンとの交流が少ないことにバレンタイン監督が激怒する場面もあっただけに、名誉挽回した形だ。また限定1000袋の福袋は、販売開始1時間半で完売した。

ページトップ

ロッテ、ファンと初売り&初投げ[報知]

ロッテが2日、千葉マリンで「初売り&初投げ会」を行った。昨年は4日に開催した福袋の初売りを繰り上げて実施。親子連れにキャッチボールをしてもらおうとの狙いで、本拠地・千葉マリンも開放した。その効果からか、昨年の倍となる延べ1万人が来場。5000円の福袋1000個が1時間半で売り切れる盛況ぶりだった。

昨年11月のファン感謝祭では、内容が今一つ、とバレンタイン監督からダメ出しされ、その“おわび”の意味も込め、職員も正月休み返上でイベントに取り組んだ。「ファンも喜んでくれた。今後も2日にやりたい」と盛況ぶりに球団関係者は胸をなで下ろしていた。

ページトップ

浅間、ズレータの入団知らなかった![スポニチ]

ロッテ入団5年目の浅間が、ズレータの入団決定を知らなかったことが発覚した。千葉マリンスタジアムで行われたトークショーに出席した際、司会者から「強力な助っ人が入りましたね」とふられ「知らなかった」とがく然。左ひじ手術からの復活に向け自主トレに集中していたためだが、ファンからツッコミの声が上がった。同席した千葉県出身の手嶌が「ズレータが“パナマウンガー”なら、僕は“利根川”でいく」と助け舟。ともにケガからの復活を期す地元出身の2人は「僕らが競い合うことで上に行けたらそれが1番」と口をそろえた。

◇大盛況「新春初売り&初投げ会」

ロッテの「新春初売り&初投げ会」が千葉マリンスタジアムで行われ、約1万人が訪れた。5000円の福袋を目当てに、先頭に並んだ千葉県在住の会社員は昨年12月31日深夜から場所取りを開始。1000個の福袋は約1時間半で売り切れた。今回初めて実施した一般へのグラウンド開放は約2000人が常時キャッチボールを行う大盛況ぶり。球団関係者は「来年もこの日取りで続けていきたい」と話していた。

◇大嶺、“投げ初め”4K

ロッテの高校生ドラフト1巡目ルーキーの大嶺が、母校の八重山商工グラウンドで同校OBとの親善試合に先発。昨年10月2日の国体準々決勝(静岡商戦)以来のマウンドながら2回を1安打3四球無失点、4奪三振で“投げ初め”を終えた。それでも伊志嶺監督は「まだまだですね」と辛い採点。今後は10日の新人合同自主トレに向け、上京の準備を進める。

ページトップ

ロッテ・ズレータ球団HPで決意表明「パナマウンガ・サムライ」[サンスポ]

元旦最初に更新されたロッテのオフィシャルホームページ上で、29日に新入団が決まった前ソフトバンクの主砲ズレータが2日、コメントを発表。自らを「パナマウンガ・サムライ」とし、「チームが再び日本シリーズを制するための力になれるよう頑張ります」。また、米国に帰国中のバレンタイン監督も「今度はそのビッグアーチで、マリーンズのピッチャーを助けてくれると思うと非常に楽しみ」とコメントを寄せた。

ページトップ

「父子の絆」(2)

◇本当の父親になって

「(大嶺)祐太をオレにくれ」。

石嶺吉盛(53)の、この言葉に祖父武弘(68)は「ハァ?」と答えるしかなかった。夕日色に日焼けした武弘は漁師として生計を立てている。身長175センチを超える偉丈夫である。沖縄海人(うみんちゅ)として生き抜いてきた体躯は頭に白いものが目立ち始めたとはいえ、シャツの下からのぞく太い鎖骨と肩の作りが単に体だけではなく、精神の強靭さをもうかがわせる。その武弘にしての絶句である。

2、3分の沈黙が流された。だが、結論は予想外に早く出た。「監督、あんたに預けるよ。全部、もらいなさい」。

その思い切りの良さは南方の、おおらかな島民性からのものなのかは、分からない。ただ、大嶺が生まれた幼年時代に、両親が離婚した事実はある。3歳の頃から育ての親になったのは祖父母だった。「孫だからね。そりゃ可愛い。可愛がって育てたが、それがこの子の将来につながるものなのかどうか。それならば実の父親ではないが、野球を通じての本当の父親になってもらいたかった」と武弘はあっさり結論を出した。伊志嶺は「祐太の持って生まれた能力を埋もらせる訳にはいかない」が本音だったが、それ以上に懸念したのは「じいちゃん、ばあちゃんに甘やかされて育ったこの子は、野球をやっていなければ遊びほうけて、まともな生活をしていけない」という思いだった。

自身が母親の溺愛を受け、中学時代には欲しいものは何でも与えられた。「エレキギターを買ってもらいましてね。ベンチャーズ、加山雄三…まだ目が飛び出るほどギターが高い時代です。決して裕福な家庭ではなかったが、わがままいっぱいの人間」にどんな人生が待っているか。スポーツ店、水産業、運送業、内装業、花店…。2、3年周期で職を転々としたのは、好きな野球をやるための時間をひねり出す方策ではあったが、野球以外は何をやっても中途半端だった。

伊志嶺は78年、八重山商工の監督を引き受けたものの、この時の6年間は沖縄県大会ベスト8が最高で、80年をピークにチームは衰退していった。

それが94年、少年野球チーム「八島マリンズ」を引き受けるとにわかに名監督の道を歩き始める。96、97年と徳島で行われた大鳴門橋学童軟式野球大会で連覇すると、01年の高円宮杯全日本軟式野球大会で日本一。八島小学校正門脇にある石碑はその時の顕彰である。さらにこの年の公式戦は40連勝、練習試合を含めると実に140連勝無敗という快進撃であった。もちろん、大嶺祐太ら昨春夏の八重山商工・甲子園メンバー8人はこの時の選手である。

一方、98年に立ち上げた中学硬式野球チーム「八重山ポニーズ」はアジア大会を制し、日本勢としては17年ぶりの世界大会出場権を得るまでになった。大嶺も中学生になっており、その意味では、小中高一貫教育で甲子園切符をつかみ取ったと言えなくもない。

それほどまでに伊志嶺を駆り立てたのは、彼自身の周辺にも大きな変化があったからでもある。95年に実母節子が突然死去。それだけではなかった。「祐太をくれ」と言い出すきっかけになった、もう1つの理由、事件が彼の周辺で起きる。(敬称略)

ページトップ