1月7日、西岡選手が今季より登録名を「西岡」から「TSUYOSHI」に変更したい旨を球団に要望していることを明かした。球団では本人の要望を受けて現在、登録名変更に向けての事務手続きを進めている。
ロッテ・西岡剛内野手(22)が7日、さいたま市内のロッテ浦和球場で本格始動した。自身のブログ上で「重大発表」をすると予告していたこの日、今季の登録名を「西岡」からローマ字表記の「TSUYOSHI」に変更することを明かした。
移籍?まさか結婚!?メールの反響は数百通にも上り、様々な憶測を呼んだその“答え”は、西岡の両手に広げられたユニホームにあった。「07年は自分の背番号(7番)の年ということもあって、何か変えたかった」さらに「もう1回みんなに(名前を)覚えてもらうために。自分へのプレッシャーです」。チームがアジア王者に輝いた05年に大ブレーク。06年3月。WBCの米国戦では、三塁からのタッチアップが早かったという「疑惑の判定」によって、西岡という名前は日本中へ浸透した。今度は“ツヨシ”で覚えてもらえるよう、さらに活躍する覚悟を決めた。
球界で登録名をローマ字表記にした先輩に、昨季限りで引退した前日本ハムの新庄剛志さんがいる。2人は普段から連絡を取り合い、ユニホームの着こなしなどについても、よくアドバイスを受けるという。しかし今回は「平仮名で“つよぽん”にしたら?」と提案され、「それはかっこ悪いんで…」と断ったそうだ。
「7」にこだわる男にとって、07年は何が何でも譲れない年。この日はティー打撃など、2時間半ほど汗を流した。昨季後半に痛めた右ひざも「今は全然(痛みは)ない」と順調に回復。数字としては「3割、50盗塁」を目標に掲げた。今季は“TSUYOSHI”の名を、ファンの目に焼き付ける。
ロッテ・西岡剛内野手(22)が7日、さいたま市のロッテ浦和球場で本格的に始動。そこで登録名を「TSUYOSHI」に変更することを明かした。ローマ字表記の登録名で活躍、昨季限りで現役を引退した新庄剛志氏(34)の“後継者”に、まさしく“名乗り”をあげた。
背番号「7」のスピードスター西岡が、「07」年は「7」日に始動。決意のシーズンはサプライズで始まった。
「登録名を『TSUYOSHI』にします。プロ5年目の区切り。初心に戻って自分にプレッシャーをかける意味もある」。だが、変更の理由はそれだけではない。「つよし」といえば…そう、ズバリ「ポスト新庄」への“名乗り”だ。
「SHINJO」の登録名で昨季は日本ハムで日本一となり、現役を退いた新庄氏とは“メル友”の関係。本人からは「ひらがなで『つよぽん』にしたら?」と“珍指令”も受けていたが、強烈な個性とプレーでリーグを牽引した同氏に「(つよしの)後を継がせてもらいます」と決意を伝えた。
この日はティーバッティングや筋力トレで約2時間、汗を流した。2年連続のリーグ盗塁王は「今年こそ3割、50盗塁を果たしたい」。チームもV奪回を至上命題に掲げる今季、新庄ではない「TSUYOSHI」がパ・リーグを席巻する。
高校生ドラフト3巡目の黒滝(札幌日大)と、大学生・社会人ドラフト5巡目の江口(愛知学院大)が、ロッテ浦和寮に入寮した。9人の新人の先陣をきって新天地に移った両投手。江口は「やってやるという気持ち。身が引き締まります」。10日から始まる新人合同自主トレに向け、やる気をみなぎらせた。
SHINJOさん、TSUYOSHIが後を継ぎます!ロッテ・西岡剛内野手(22)が7日、ロッテ浦和球場で自主トレを開始。今季から登録名を「TSUYOSHI」に変更することを明かした。
「プロ5年目の区切りとして何かを変えたかった。新庄さんには“後を継がせてもらいます”と一報を入れました」。球界が誇るイケメン内野手。さらなる飛躍へと自ら選んだのが、本家「SHINJO」に続くローマ字表記だった。名前は同じ「つよし」。そこで西岡が仲のいい新庄にメールで報告すると、返事は「平仮名で“つよぽん”にしたら?」「それじゃカッコ悪いっスよ」「わかった。OK!」。そんなやりとりで「TSUYOSHI」が誕生した。
07年は自分の年に。そんな思いが登録名変更の背景にある。「今年は背番号(7)と同じ年(07年)。全試合フル出場、3割50盗塁を目指す。北京(五輪アジア予選日本代表)にも選ばれるよう頑張りたい」。背番号にちなんで始動日も7日に設定。ランニングなどに加えトス打撃でも快音を響かせた。2月のキャンプインまでに昨年の5000スイングを超える、左右打席で計7000スイングを目標とする。
そして新庄が抜けたパ・リーグを盛り上げる。「そういう意識もあります。今年は調子が良くても悪くても、新庄さんみたいに笑顔でやり通したい」。後継者を襲名したTSUYOSHIが新庄に代わるパの顔を目指す。
西岡は登録名変更を、自身のブログで「7日に重大発表」と予告。その内容を「結婚」と思い込んだ女性ファンを中心に、数百件のメールが殺到する事態になった。「ほとんどが“結婚ですよね”で…」と西岡。さらに「ファンをやめます」「受験なのに勉強に集中できない」などなど。西岡は「色々と想像して欲しかったんですけどね」と頭をかいていた。
ロッテ西岡剛内野手(22)が7日、今季から登録名をローマ字表記の「TSUYOSHI」に変更すると発表した。埼玉・ロッテ浦和球場で本格始動し「プロ入り5年目という区切りの年で、初心に帰って何かを変えたかった」と理由を説明した。ローマ字での登録名変更は、日本人選手では前日本ハムの新庄氏以来2人目となった。
重大発表は「TSUYOSHI」への“変身”だった。昨年末に自身のブログで、「みんな納得してくれるかしないかは、分からへんけど…。変身すれば、みんなから祝福してもらいたい」と結婚を連想させるコメントを記載していた。西岡は「いたずら心でファンのみんなに妄想させたくて。申し訳ない」と無邪気な笑みを浮かべ陳謝した。
ファンのほとんどが結婚だと思ったようで、同僚福浦も「結婚ですよ」と予想していただけに肩すかしだった。登録名変更には「西岡家に悪いと思って」と父親に真っ先に相談した。家族の賛同も得て愛着のある背番号「7」の数字にちなんで、07年1月7日の大安に発表した。
新庄氏に「後を継がせてもらいます」と電話で連絡したことも明かした。新庄氏からは「ひらがなで『つよぽん』にしたら」とアドバイスも受けたが、「格好悪い」と却下。「新庄2世」と呼ばれることを西岡は嫌うが、ファッション誌へ登場するなど新庄氏とは共通点も多く、パ・リーグを引っ張る後継者としての期待は大きい。ファンを驚かせる演出も含め、今季はロッテの「TSUYOSHI」に注目だ。
オレが新庄の後継者だ!!ロッテ・西岡剛内野手(22)が7日、埼玉県内のロッテ浦和球場で始動し、練習後、今季の登録名をローマ字表記で「TSUYOSHI」に変更することを発表した。ローマ字表記の登録名では、昨季限りで引退した元日本ハム・新庄剛志氏(SHINJO)の印象が強いが、今回の登録名変更の陰には、新庄氏の存在があった。「リストバンドを変えろとか、ユニホームの着こなしとか、アドバイスがメールで来る」と、新庄氏と“メル友”だったことを明かした。
登録名変更にも「後を継がせてもらいます」と伝えた際、「ひらがなで『つよぽん』にしたら」と提案が…。さすがに「カッコ悪いので」と渋ると「分かった。オレは海外に行って来るぜ!」と、後継者名乗りを快く?承諾されたという。「5年目という区切りで何か変えたいと思った。また活躍しないと(名前を)覚えてもらえない。自分へのプレッシャーです」。背番号「7」にちなみ、07年1月7日を発表に選んだ。目標は3割50盗塁。新庄氏が去ったパ・リーグをニュースター「TSUYOSHI」が疾走する。
ロッテ西岡剛内野手(22)が7日、埼玉・ロッテ浦和球場で本格始動した。今季から登録名をアルファベット表記の「TSUYOSHI」へ変更することも発表した。8文字と多く、電光掲示板に名前が入り切らない可能性もあることから、球場によっては「TUYOSI」となることもありそうだ。
ロッテの西岡剛内野手(22)が7日、埼玉県さいたま市のロッテ浦和球場で本格的に始動した。ティー打撃や筋力トレーニングで約2時間、汗を流した。
今季は登録名を「TSUYOSHI」に変更。すでにパ・リーグに申請ずみで「(昨年)WBCにも出て、西岡という名前は覚えてもらえたと思う。プロ5年目の区切りだし、初心に帰って自分にプレッシャーをかける意味もある」と理由を説明。背番号「7」にちなみ、2007年にさらなる飛躍を期した。「今年は優勝が絶対条件。個人的には打率3割、50盗塁を達成したい」と宣言した。
06年9月25日、高校生ドラフトの日が来た。5時限目の授業を受けていた大嶺祐太(18)のもとへ八重山商工校長・添石邦男(59)が足を運んだ。
「指名があったよ。ロッテから」。相思相愛のソフトバンクは予定通り1巡目指名をしたが、抽選の末にロッテが交渉権獲得。その決定の瞬間から35分後の連絡だった。意外な一報に思わず右手で額を押さえた大嶺。記者団に囲まれた伊志嶺吉盛(53)もまた「予想もしていなかった球団でびっくりしています」「試合に負けたような予想外の結果」と本人以上の落胆を口にした。
「なにしろ、ソフトバンクが1番熱心に誘ってくれていましたから…。最終的に12球団から声はかかりましたが、ロッテは最後の最後に挨拶があったくらい」だからまさかの指名であった。会見で「嬉しいです」とは言ってはみたが、大嶺の本心は「新垣さん(ソフトバンク)が好きだし、沖縄、九州の選手が多い」ソフトバンク以外に選択肢を持っていなかった。
ただ、ここで伊志嶺は含みのある言葉を残している。「進学は100%ない」とした上で「社会人か、1年浪人するか、プロに行くか、3つの選択肢になる」と話す。プロ入りの可能性もまたにおわせている。
当然、交渉は難航した。というよりロッテ側が伊志嶺「親子」の動向を探りつつ、静観をするしかなかった。国体を挟んで10日目になってやっと第2回交渉が行われたほどである。
あまりにも強烈な伊志嶺「親子」の拒否は周囲に様々な憶測を呼んだ。伊志嶺は貝になった。ただ、添石、祖父母を交えての話し合いの中では「ロッテへ行かすのが最良の道」と腹をくくった。かなり早い時期でも決断だった。
一方、大嶺の思いは周囲の思惑とは全く違う逆方向へ動いてゆく。「自分で考えろ」と伊志嶺に言われ、下した結論は「1年浪人」であり、日を追うごとにその意思は固くなっていった。
最初に悲鳴を上げたのは祖父武弘(68)である。
06年11月6日。5日に行われた徳之島高創立60周年記念招待試合に参加していた八重山将校はこの日昼、石垣島に戻った。気温27.6度、北から6.7メートルの風が吹いてはいたが「かなり暑い日だった」と伊志嶺は記憶している。徳之島からの移動日ではあったが、練習に休みはない。午後3時すぎ、紅白戦が始まろうとしていた。
八重山商工の野球部グラウンドは道路に隣接している。全体はグリーンのネットで囲まれてはいるが、バックネット裏の、コンテナ型の監督室周囲は、道路側からは高さ1メートルほどのコンクリート塀があるだけで、通行する市民が気楽に「監督、元気か!」と声を掛けて通り過ぎてゆく。伊志嶺も気軽に手を振り、子供を見つけると監督室の冷蔵庫からコーヒーやら菓子を持ち出し配ってみたりする。
遠征の疲れもあり、鈍重な午後である。「監督!」。不意に声がした。振り向くと塀越しに、武弘がいた。自転車に乗っていた。(敬称略)