選手名 | 年俸 | 前年比 |
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渡辺正 | 1900 | ▼200 |
※金額は推定=万円、前年比△はアップ、▼はダウン
ロッテから戦力外通告を受けた黒木知宏投手が、34歳の誕生日前日の12日、都内で現役引退を表明した。現役続行にこだわり、野球浪人や海外挑戦なども検討していたが「(どこからもオファーのない)現状として、1番ベストな形が引退だった」と、目を潤ませた。
01年以降は故障に泣かされ、悔しい形で現役生活への幕を下ろしたが、今日からスタートする第2の人生へ気持ちを切り替えた。「野球の素晴らしさを伝えることに情熱を注ぎたい」。しばらくはフリーの立場として、これまでと違う角度から観察し、大好きな野球の振興活動を行っていく。来年2月にはメジャーキャンプ行脚で、指導・練習法などを勉強していく計画もある。「ジョニー」の愛称で親しまれた苦労人・黒木が、野球伝道師として新たな一歩を踏み出す。
ロッテを戦力外となっていた黒木知宏投手(33)が12日、都内で会見し、現役引退を表明した。来季以降も現役続行する意志を持っていたが、獲得希望の球団がなかったことから引退を決意した。男ジョニーは「素晴らしい経験をさせてもらった。悔いはない」などと語った。
黒木は宮崎・延岡学園高から社会人の新王子製紙春日井を経て95年にドラフト2位でロッテ入団。97年から5年連続で2けた勝利を挙げ、98年には13勝で最多勝。実力と人気でチームを牽引してきたが、01年以降は故障に苦しんだ。
黒木は当初、「燃え尽きるまでやりたい」と完全燃焼を念頭に移籍先を探したが、獲得に名乗りを上げる球団はなかった。ロッテ選手会は独自に来年のオープン戦などでの引退イベントを企画している。
笑って、泣いて、ジョニーが13年間の現役生活に別れを告げた。ロッテを戦力外となった黒木知宏投手(34)が12日、都内で会見し、現役引退を表明した。10月2日の戦力外通告から71日。他球団からのオファーはなく、強く希望していた現役続行を断念しユニホームを脱ぐ。闘志を前面に出した投球スタイルで一世を風びした“魂のエース”は、今後は解説者として野球の魅力を伝えていく。
さわやかな笑みを浮かべて会見場に現れた黒木の顔が、みるみるうちに紅潮していった。感謝の気持ち、悔しさ…。口調こそ終始穏やかだったが、目を真っ赤に腫らしてプロ生活を振り返った。
右肩を痛めた01年以降は右ひじ痛も発症して満足のいく成績が残せていなかったものの、今季はイースタン・リーグで32試合に登板。1年間故障なく投げ続けて復活への手応えをつかみつつあっただけに、戦力外通告直後も現役続行に強い意欲を示していた。千葉マリンなどで調整を続けながらオファーを待つ日々。しかし、声を掛けてくれる球団は現れなかった。
「色んな選択肢の中から1つ消え、2つ消えという中で、残された選択肢の中に引退がありました」。視野に入れていた海外挑戦も、浪人も現実的ではないと判断。「ここ2、3日で(引退を)決めた」と説明した。
98年に最多勝、最高勝率のタイトルを獲得するなどエースとして活躍した男が迎えた“終戦”。1番の思い出には、今や語り草となった98年7月7日のオリックス戦(GS神戸)を挙げた。9回2死から同点本塁打を浴び、チームの17連敗に泣き崩れたあの試合だ。「財産にしなきゃいけない。野球の素晴らしさ、怖さを色んなところで発信しないといけない」。
勝つ喜び、そして負ける悔しさ。黒木だから伝えられることがある。それが新たな使命。34歳の誕生日を迎える13日から第2の野球人生が始まる。何度も報道陣に頭を下げた黒木は、最後は笑って会見場を後にした。
さらば、ジョニー!!ロッテを戦力外となった黒木知宏投手(34)が33歳最後の日となった12日、都内で会見し、現役引退を表明した。来季も現役続行を希望していたが、他球団からのオファーがなく、引退を決意した。今後は野球解説者などで第2の人生を歩む予定。「選手での素晴らしい経験を違った形で伝えたい」。熱い男が13年間の選手生活に別れを告げた。
大きな瞳に、うっすらと涙が浮かんだ。時折、声が震える。黒木が静かに右腕を下ろした。
10月2日にロッテから戦力外通告を受けた後、現役続行への強い意欲を示していた黒木。待つだけ待った。しかし、声がかからない。「残った(選択肢の)中でベストな形が引退だった」。最後は消去法。無念の思いを口にした。
それでも、黒木は必死に顔をあげる。自らに言い聞かせるように、今後の去就について切り出した。
「自分は(千葉)マリンスタジアムでファンの後押しで育ててもらった。今後は野球を色んな方に伝えられればいい」。プロ野球解説者などで第2の人生をスタートさせる。
栄光と挫折の野球人生だった。1995年に当時の新王子製紙春日井からドラフト2位で入団し、98年には最多勝利と最高勝率のタイトルを獲得した。
一方、その年の7月7日、当時のプロ野球連敗記録の「16」に並んでいた瀕死のチームを救うべくオリックス戦(神戸)のマウンドにあがったが、9回2死からまさかの同点2ラン。マウンドでガックリとひざをつき、号泣した。そんな熱い男だからこそ、ファンに愛されてきた。
01年途中に右肩を痛めてからは、全盛期のようなキレのある直球は戻らなかった。ここ数年は不振が続き、ついにそのときが…。13日の34歳の誕生日を前に、けじめをつけた。
記録より記憶に残る男。ステージが変わってもジョニーの熱い心は変わらない。
黒木の会見は前日11日の夜に急遽、設定された。この日、東麻布にある所属マネジメント会社の会見場には15畳ほどのスペースに、40人近い報道陣が殺到。本人は「マリンスタジアムで育ててもらった」と本拠地への愛着を口にしていたが、会見担当者は「もうロッテとは関係がなくなったので…」と経緯を説明した。
現役引退を表明した黒木に、共にロッテを低迷期から支えた42歳のベテラン・小宮山がエールを送った。「彼(の野球人生)は良かったときと、悪かったときの差が激しかった。そういう経験は大きい。将来、もし指導者として戻った場合も強みになる」と今後の活躍に期待。また、去就について相談を受けていたことも明かし、「最後は自分で決めなさいと話していたからね」と黒木の決断を支持した。
ロッテ・黒木知宏投手(33)が12日、都内で現役引退の会見を行い「思い残すことはない。決断に悔いはないです」と胸中を明かした。今後は、米国野球の視察や野球解説者など、幅広く活動していく予定。
「ジョニー」の愛称でファンから絶大な人気を誇り、97年から5年連続2ケタ勝利をマークした黒木も、01年に右肩を痛め、ここ2年は白星なし。10月2日の戦力外通告後、現役続行を熱望していたが、オファーは届かなかった。「選択肢が1つ、2つと消える中で、引退という選択になった。プロ野球選手として興味を示してくれなかったのは、自分の力不足です」と話し、今週になって引退を決意した。
13年間の現役生活で心に残っているのは98年にチームが18連敗したことだという。今後は「野球の素晴らしさを伝えていきたい。新たな気持ちで野球振興のためにやっていきたい」と、球界への恩返しに尽力するつもりだ。
ロッテが来季の契約更改で、“五輪出来高”の導入を検討していることが12日、分かった。北京五輪日本代表にはロッテから複数選手の選出が確実。球団はメダルの色や活躍度によって個人の評価を変える方針で、代表選手の発奮を促す。
12月のアジア予選では里崎、小林宏、西岡、成瀬、サブローが活躍。8月の五輪本大会には、予選で最終メンバーから漏れた渡辺俊を含め、6人以上が選出される可能性がある。球団はチームを離れる五輪期間中も、公式戦に出場したとして査定を行う方針。この“北京仕様”の特別査定に加え、活躍度に応じたボーナスの付与を検討している。
3日のアジア予選・台湾戦ではサブローの同点スクイズ、西岡の勝ち越し適時打と、ロッテ勢の奮闘は日本中の注目を集めた。昨年3月のWBC同様、JAPANでの活躍は公式戦以上に選手の知名度アップ、チームの人気向上に結び付く。球団関係者は「(代表メンバーには)一律いくら、というのではなく、個人の活躍の度合いによって幅が出てくる」と説明した。
日本が金メダル獲得に加え、MVP級のプレーを見せれば出来高が膨らむ一方、活躍なしでは報酬にはありつけない。日本代表の浮沈のカギを握るロッテ勢が、“五輪出来高”を発奮材料に北京へ乗り込む。
ロッテを戦力外となった黒木知宏投手(33)が12日、東京都内で記者会見し、現役引退を表明した。来季も現役続行を希望していたが、他球団から声が掛からず、引退を決意した。黒木は「(選手で)素晴らしい経験をさせてもらった。今後はそれを違った形で伝えていきたい」と話した。
黒木は宮崎・延岡学園高から社会人の新王子製紙春日井を経て1995年にドラフト2位でロッテに入団。97年から5年連続で2ケタ勝利を挙げ、98年には13勝で最多勝のタイトルを獲得。先発の柱として低迷期のチームを支えたが、2001年以降は故障に苦しんだ。
ロッテを戦力外となった黒木知宏投手(33)が12日、東京都内で記者会見し、現役引退を表明した。来季も現役続行を希望していたが、他球団から声が掛からず、引退を決意した。黒木は「(選手で)素晴らしい経験をさせてもらった。今後はそれを違った形で伝えていきたい」と話した。
黒木は宮崎・延岡学園高から社会人の新王子製紙春日井を経て94年にドラフト2位でロッテに入団。97年から5年連続で2ケタ勝利を挙げ、98年には13勝で最多勝のタイトルを獲得。先発の柱として低迷期のチームを支えたが、01年以降は故障に苦しんだ。