わたしはかもめ2009年鴎の便り(10月)

便

10月19日

ロッテが総年俸削って赤字減らす[ニッカン]

ロッテ瀬戸山隆三球団社長は19日、今オフの契約更改交渉で選手の年俸総額ダウンを示唆した。「当然厳しくなるでしょう。2年連続Bクラスという結果を踏まえている訳ですから」と話した。昨年は球団の赤字が28億円まで膨らみ、監督、選手の高額年俸が球団経営を圧迫していた。その筆頭のバレンタイン前監督および外国人コーチやベニー外野手(37)らが退団したことで約7億円程度削減されたものとみられる。

さらに主力選手でも結果に応じたダウン提示でさらなる赤字削減を目指す。石川晃副代表は「前監督の年俸を選手にという考えはない。チーム内のゴタゴタを差し引くとしても結果が全て。個人的に頑張っていれば上がるだろうし、個別でしっかり考慮したい」と厳冬更改を口にした。球団経営の当面のメドとなる赤字20億円を目指すことになりそうだ。

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「精密機械」マダックス氏招聘へ…ロッテ[報知]

ロッテが来春の石垣島キャンプに、元メジャーリーガーのグレッグ・マダックス氏(43)を臨時講師として招聘する計画を進めている。練習後のミーティングへの参加を要請する見込みで、今季防御率4点台と低迷した投手陣に、超一流の投球術を注入してもらうのが狙いだ。

マダックス氏は、抜群の制球力で「精密機械」と呼ばれた。88年から20年連続2ケタ勝利。92年から4年連続でサイ・ヤング賞に選ばれ、通算23年間で355勝を挙げた。ゴールドグラブ賞18度は最多。メジャー球史に残る右腕だ。

球団幹部は140キロ前後の速球ながらも、サークルチェンジを散らす巧みな投球術を高く評価。「日本人に近い投球スタイルだし、練習量もものすごく多い。あれだけの投手だし、選手にはプラスになる」と説明。井口がパドレス時代の08年にチームメートだった縁もあり、今後は正式打診へ調整を進める方針だ。

マダックス氏は08年に現役引退し、コーチ経験はない。それでも、1軍投手コーチ就任が内定している西本聖氏とタッグを組めば、これ以上ない戦力になる。

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ロッテ来春キャンプにマダックス臨時コーチ[スポニチ]

ロッテが来春の沖縄・石垣島キャンプにメジャー通算355勝右腕のグレグ・マダックス氏(43)を“臨時コーチ”として招くプランを進めている。

球団関係者は「マダックスを講師として呼びたい。(現役時は)針の穴を通すコントロール、日本人に近い投球スタイルで練習量も多かった」と説明。ミーティングなどでの講演依頼に加えて、直接指導も仰ぐ意向だ。

今季チーム防御率4.23はリーグ5位。2年連続Bクラスの一因となった投手陣の再建は急務となっている。そこで浮上したのが多彩な変化球を抜群の制球力で操り“精密機械”と呼ばれたマダックス氏の招聘プラン。同氏は20年連続2ケタ勝利などメジャー屈指の技巧派投手として活躍。チームの投手陣は清水、唐川ら制球力で勝負するタイプが多いだけに、球団関係者は「あれだけの投手の話を聞ければ、選手にとって大いにプラスになる」と期待する。

今後は08年にパドレスでチームメートだった井口を通じて連絡を取る方針。“マダックス先生”から巧みな投球術を学んで来季巻き返しを図る。

グレグ・マダックス
1966年4月14日、米テキサス州生まれの43歳。84年ドラフト2巡目でカブス入団。ブレーブス、パドレス、ドジャースなどで大リーグ歴代8位の通算355勝。08年シーズンを最後に現役を引退した。92年から4年連続でサイ・ヤング賞を受賞。20年連続2ケタ勝利は史上初で、ゴールドグラブ賞18度は最多。ブ軍時代はグラビン、スモルツとの「最強3本柱」で黄金期を築いた。

◇西村新監督、千葉マリンの監督室開放

ロッテの西村新監督が千葉マリンの監督室を開放する。何かと前面に出ていたバレンタイン前監督とは一転、選手を前面に押し出す新監督は「選手は自由に監督室に入って来ていい。トレーナー室が埋まっていたらソファで横になってもらって構わない」とも話した。

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小宮山vs.ボビー(中編)[ニッカン]

ボビー・バレンタイン監督が就任したのは1995年。その当時まで、千葉ロッテ・マリーンズは低迷を続け、次々と監督交代劇が繰り広げられており、いわゆる「お家騒動」の渦中、この人事は功を奏し、念願のAクラス入りを果たした。

この年、同チームの小宮山悟投手も、前の年の3勝を大きく上回る11勝・防御率2.60の成績を挙げる。同時にこれまでの日本野球にはない、バレンタイン監督の全く新しい采配、野球観に対する信頼感を確たるものにしていった。ところが、フロントとの確執が噂される中、球団はバレンタイン監督をわずか1年で解任。チームのご意見番といわれた小宮山は、フロントに異を唱えるもかなわなかった。

一方、小宮山は1999年、シーズン中にフリーエージェント(FA)権を獲得。これに対し球団はFA権を行使する前に、小宮山に戦力外を通告。その理由はチームの若返り。これまでチームを牽引してきたキーマンへの対応にファン達は騒然となった。それでも同じ年の暮れには、横浜ベイスターズへの入団が決定する。

ベイスターズで2シーズン活躍した後、小宮山はついにFAを宣言。2軍への降格も経験し、フィジカル面での限界も感じはじめる中、憧れのメジャーへの挑戦を決意した。メジャーからのオファーの有無が確かでないにもかかわらずの賭けだった。それでも小宮山の思いは「あの監督のもとでもう1度マウンドに立ちたい」。あの監督とはもちろんバレンタイン監督、当時ニューヨーク・メッツを率いていた。

そして小宮山は念願のメッツ入りを果たす。渡米後は自分自身が開幕メンバーに選ばれるかどうかの不安もあったが、その開幕のセレモニーでバレンタイン監督は小宮山をグラウンドに立たせる。小宮山は「そこにいたるまで色々あり、夢がかなった瞬間だった」と語る。運命の男達は海を越えて再会し、新しいステージの幕を開けた。

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