わたしはかもめ2011年鴎の便り(12月)

便

12月30日

伊志嶺“沖縄の星”だ!オリオンビールCM起用も!?[スポニチ]

ロッテの伊志嶺翔大外野手(23)がオリオンビールのCMイメージキャラクターに検討されていることが30日、分かった。

沖縄に本社を置く同社はロッテとスポンサー契約を結んでおり、沖縄限定CMには過去に石垣島出身の大嶺や看板打者の井口らが出演。沖縄・宮古島出身の伊志嶺は1年目の今季126試合出場で打率.261、32盗塁の成績を残した。

本拠・QVCマリンには地元から応援団が駆けつけるほど沖縄での人気は高く、同社担当者は「当社には沖縄出身選手を応援したいという方針があります。伊志嶺選手は今年活躍されましたし、今後も活躍されれば可能性はあります」と話した。

伊志嶺自身も大のオリオンビール党だ。今年1月の入寮時には箱ごと持参。「オリオンビールデー」と銘打たれた6月12日の広島戦(QVCマリン)では福井からプロ初本塁打を放った。「地元ではみんなで飲みますからね。やっぱりオリオンビールが1番美味しいです」と伊志嶺。切れのあるプレーと爽快な笑顔はイメージにもぴったりで、CMデビューの日も近そうだ。

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2011年に亡くなった球界関係者[スポニチ]

1月10日
デービッド・シスラー(享年79、元レッドソックス投手)前立腺がん
2月4日
寺岡孝(享年68、元南海外野手)
同11日
チャック・タナー(享年81、元パイレーツ監督など4球団で監督)
同27日
デューク・スナイダー(享年84、元ドジャース外野手)
同28日
与那嶺要(享年85、元中日監督)前立腺がん
3月6日
尾藤公(享年68、元箕島監督)膀胱移行上皮がん
同8日
国枝利通(享年90、元中日内野手)肺炎
4月3日
矢部祐一(享年64、元巨人内野手)食堂がん
同21日
成田文男(享年64、元ロッテ投手)肝不全
同22日
柳原基(享年87、元セントラル野球連盟記録部長)
5月17日
ハーモン・キルブリュー内野手(享年74、元ツインズ内野手)食道がん
同25日
ポール・スプリットオフ(享年64、元ロイヤルズ投手)皮膚がん
同30日
伊藤四郎(享年78、元南海スカウト)大動脈瘤破裂
6月17日
森田斌(享年76、元大洋投手コーチ)白血病
同28日
渡辺長助(享年54、阪神チーフスコアラー)心筋梗塞
7月7日
ディック・ウイリアムズ(享年82、元アスレチックス監督など)大動脈瘤
同28日
伊良部秀輝(享年42、元阪神投手)
8月6日
浅越桂一(享年75、元阪神内野手)脳梗塞
同8日
河野昭修(享年80、元西鉄内野手)腎不全
同9日
平光清(享年73、元セ・リーグ審判部副部長)肺がん
同15日
正力亨(享年92、元巨人オーナー)敗血症
同24日
マイク・フラナガン(享年59、元オリオールズ投手)
同29日
大悟法久志(享年64、青豊野球部監督、元明豊監督)呼吸不全
9月2日
吉国一郎(享年95、元コミッショナー)肺炎
同2日
金井義明(享年79、元コミッショナー事務局長)肺塞栓
同9日
久万俊二郎(享年90、元阪神オーナー)老衰
10月9日
小島昌也(享年26、元オリックス外野手)心室細動
11月3日
マティ・アルー(享年72、元ジャイアンツ、太平洋クラブ外野手)糖尿病の合併症
同26日
西本幸雄(享年91、元近鉄監督)心不全
同26日
水谷貞雄(享年87、元四日市野球部監督)肺炎
同30日
伊藤光四郎(享年74、元阪神外野手)呼吸不全
12月9日
松園直巳(享年89、元ヤクルトオーナー)心不全

(敬称略)

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[11年球界物故者]成田文男さん、ロッテ支えた「下町のエース」[スポニチ]

エースとしてロッテを支えた成田さんは東京都足立区で育ち、荒川区にあった東京スタジアムを本拠として投げる姿から「下町のエース」と呼ばれた。

7月に42歳で急逝した伊良部氏より以前のロッテの18番を背負い、69年8月16日の阪急戦(西宮)ではノーヒットノーランを達成。70年には25勝を挙げて最多勝を獲得して、チームをリーグ優勝へと導いた。一方で3試合連続を含む15本塁打を放ち、2本の満塁本塁打は今も投手の日本記録として残るなど打撃でも非凡な力を発揮した。

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[11年球界物故者]伊良部秀輝さん、投げることが大好きだった“問題児”[スポニチ]

問題児扱いされたが、彼ほど野球に情熱を注いだ人はそうはいない。印象に残っているのは、05年3月の引退発表から4年がたった09年6月のこと。当時、現役復帰を目指して独立リーグに参戦していた伊良部さんを取材した。

復帰の決め手になったのは同年3月の第2回WBC。日本−米国戦をネット裏最前列で観戦して「球場で野球を見るのは久しぶりだったんですけど、松坂君や岩隈君の投球を見て、凄くレベルが高いのに感心した。見ていて楽しかった」。

引退後はうどん店を経営するなど多忙で、ブランクは大きかったが「もう40歳だし、何でもやってみようとね。元来、投げるのが好きで、その基本的な部分を1番大事にしようってね」。

かつてのヒールアップのフォームをやめ、トレーニングも体幹強化に重点を置いた。稲尾、金田の時代にはなかったからと、アイシングもやめた。40歳にして全てが新しい試み。それでも復帰へのこだわりを語る彼の目は、輝いていた。あの日の明るく情熱的な伊良部さんを、私は忘れることはない。

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[11年球界物故者]西本幸雄さん、ファンへの返信「こつこつ努力、いつか…」[スポニチ]

2011年も球界を支えてきた関係者の訃報も多く飛び込んできた。7月、日米球界で活躍した屈指の剛腕、伊良部秀輝さん(享年42)のあまりにも早すぎる死には、対戦した現役選手も絶句した。また、11月には大毎、阪急、近鉄と3球団で監督を務めた西本幸雄さん(享年91)が心不全で逝去するなど悲しみに包まれた。

玄関前には約150人の熟年から老年の男女が列をつくっていた。阪急や近鉄のジャンパーを着た者や球団旗を振る者もいた。私服で駆けつけたファンの人々だった。

11月29日、西宮球場跡地にほど近い葬儀場。誰もが「監督・西本幸雄」に別れとお礼を告げにきていた。

静岡県から来た高校教諭(56)は野球部監督駆け出しの1980年当時にもらった手紙の返信を額に入れていた。

恋や勉強に悩んだ当時北海道の女子高生ももらった返信を「宝物」と抱いていた。阪急初優勝の67年、西京極球場グラウンドになだれ込み、胴上げに加わった男性(65)は受付で「これを監督に」と当日の入場券を手渡した。遺族の長女や次女は「父も喜ぶでしょう」と棺に入れた。

西本さんはよく話していた。「こつこつと努力していれば、いつか報われると証明したかったんや」。弱小の「灰色」阪急、「お荷物」近鉄をともに初優勝に導いた。人々はその姿に自分を重ね合わせ「いつかは」と日々の仕事や生活を頑張ってきたのだ。夢を与えた功績こそ最も大きい。

年が明けると、四十九日法要で故郷の和歌山に帰る。生前最後の帰郷となった08年11月、子供のころカブトムシを捕った山を眺めて「俺も長いこと生きてきたなあ」と懐かしんだ。「おまえがいてくれたからこそ」と愛した妻・和子さん(08年7月死去)が眠る墓に納骨となる。

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