元大洋(現DeNA)選手で、横浜ベイスターズの初代監督、のちロッテでも指揮を執った近藤昭仁氏が27日午前1時23分、敗血症性ショックのため、神奈川県の病院で死去した。80歳だった。数年前にパーキンソン病と診断され、自宅などで闘病生活を送っていた。先月、誤嚥性肺炎で入院。最後は家族にみとられ、眠るように逝った。
きっぷが良く、現役時代から強気で鳴らした近藤氏が静かに逝った。長男の光博氏は「子供や孫に囲まれ、最後は眠るように亡くなりました」と話した。ボクシング・元ヘビー級世界王者のムハマド・アリと同じパーキンソン病を患い、自宅や関連施設などで闘病を続けていた。今年2月、神奈川県内の病院に入院。そのまま帰らぬ人となった。
高松一、早大から大洋に入団。同郷同学の先輩でもある故三原脩監督のもとでプロ1年目からレギュラーを獲得した。大毎(現ロッテ)との日本シリーズでは、2本の決勝打で全て1点差の4連勝に貢献し、チームは前年の最下位から日本一。近藤氏はわずか3安打ながらMVPに輝いた。
新人の日本シリーズMVPは近藤氏のほか、68年高田(巨人)、75年山口(阪急)だけ。3安打以下のMVPも96年ニール(オリックス)18年甲斐(ソフトバンク)しかいない。打率は高くないものの、ここ一番の勝負強さから「超二流」と呼ばれた。
62年から65年には4年連続でセ最多犠打を記録。65年には当時のプロ野球記録となる41犠打をマークした。74年に現役を引退。大洋でコーチを務め、その後、ヤクルト、西武で働き、リーグ優勝や日本一に貢献。89年から3年間は巨人でヘッドコーチを務めた。
93年に古巣横浜の監督に就任。石井琢朗、鈴木尚典ら若手を起用し、のちのマシンガン打線の中軸を担う選手たちに道を開いた。95年に退団後、当時の広岡GMに請われて97年にはロッテの監督に就任。福浦和也を抜擢するなど、ここでも若手育成に励む。しかし、2年目の98年、6月13日から7月8日にかけて、1分けを挟んで18連敗を喫し(現在もプロ野球記録)、そのシーズン限りで退団した。その際に「監督は孤独な職業だが、何度もやりたい職業。次は弱いチームじゃなくて、強いチームでね」とユーモアもあった。
06年には原巨人で再びヘッドコーチを務めるも体調不良で1年限りで退任。翌年はフロントに入り、08年以降は評論家活動を行っていた。長い指導経験をもとに切れ味のある評論で知られ、テレビではTBS系列で鋭い舌鋒を披露した。ゴルフの腕前は球界屈指。気さくな人柄で、周りに人が集まる親分肌でもあった。
元大洋(現DeNA)選手で、横浜ベイスターズの初代監督、のちロッテでも指揮を執った近藤昭仁氏が27日午前1時23分、敗血症性ショックのため、神奈川県内の病院で死去した。80歳だった。
元大洋(現DeNA)選手で、横浜ベイスターズの初代監督、のちロッテでも指揮を執った近藤昭仁氏が27日午前1時23分、敗血症性ショックのため神奈川県内の病院で死去した。80歳だった。球界から寄せられてた追悼の声は以下の通り。
ロッテは4月3日の西武戦に先発予定のブランドン・マン投手(34=レンジャーズ)が、開幕前最後の登板で課題を残した。
イースタン・リーグ日本ハム戦に先発し、5回2/3を1被弾含む5安打4失点。9奪三振の一方で3盗塁を許した。西武打線は昨季12球団最多132盗塁の機動力を誇る。視察した井口監督は「あと1週間でしっかり調整してもらえたら。クイックも含めて」と注文。左腕は「タイミング、テンポを変えて投げれば大丈夫だと思う」と改善へ意欲を示した。
ロッテ2年目の安田尚憲内野手が、井口監督の前で今季1号含む3安打とアピールした。イースタン・リーグ日本ハム戦に4番三塁で出場。
1点を追う9回、無死一塁から左越えの逆転サヨナラ2ランを放った。開幕は2軍スタートの見込みだが「どういう状況でもアピールを続けるのが大事。久々の長打でほっとしました。早く上がれるように、1軍のイメージを持ってやっていきたい」と力強かった。
ロッテは今季ZOZOマリンにDJブースを常設し、DJによる音楽で試合観戦を盛り上げるイニングイベントを実施すると27日、発表した。
月曜日から金曜日の試合は3回裏終了後、日曜日の試合は8回表終了後に行う。土曜日は実施しない。
またこれを受け、株式会社拓匠開発と試合中イベントのスポンサー契約を締結。イベント名を「拓匠開発 presents PLAY MUSIC」とする。
DJブースは、ZOZOマリン・フロア3の、昨年まで放送室として使用していたスペースに設置。DJCREW氏が常駐DJとして音楽を担当する。同氏は昨年から、ロッテ勝利後に行うセレモニーの楽曲をプロデュースしている。
ロッテは26日、公式チアパフォーマー「M☆Splash!!」のコスチュームを変更すると発表した。
新衣装は昨年に引き続き、マリンテイストがモチーフ。ネックラインが横に広がったボートネック、袖が付いたボレロの他、ハイウエストのショートパンツなど、今までの衣装になかったデザインを採用した。船員や水兵をイメージし、明るくアクティブな雰囲気に仕上がった。
M☆Splash!!は04年に結成し、衣装変更は17年以来9度目。リーダーのASUKAさんは「私達M☆Splash!!は7人の新メンバーを加えて、2019シーズンは19名で活動していきます!!今年はマリーンズチームカラーの白と赤を取り入れ、海の近くにあるZOZOマリンスタジアムをイメージしたマリンテイストの衣装にリニューアルしました!!試合前のオープニングダンスや球場外周のステージでのダンスショー、イニング間でのパフォーマンスなど、球場の様々な場所でパフォーマンスしているので、ぜひ注目して見てください。そして私達のパフォーマンスと皆さんの応援で、一緒にマウエへと突き進んでいきましょう」とコメントした。
ロッテは26日、昨年に引き続き今季の公式戦全試合を、CS有料放送チャンネル「日テレNEWS24」で生中継すると発表した。
対象はシーズン主催全71試合で、試合開始から終了まで放送する。またクライマックス・シリーズに進出した場合も、主催ならば中継する。
開幕戦のみプレーボールの45分前から、通常は同15分前から、プレゲームショーとして選手のインタビューなどを流す。中継担当者は「プレーボールから最後の1球まで、試合の模様をぜひ日テレでご覧ください。なおプレゲームショー(試合前の直前情報)を見られるのは日テレだけです」とコメントした。
ロッテ福浦和也内野手兼2軍打撃コーチ(43)が恩師の死を悼んだ。
横浜ベイスターズの初代監督で、ロッテでも97、98年に指揮を執った近藤昭仁氏が27日、亡くなった。福浦は同監督に目をかけられ、97年に1軍初昇格。「近藤さんが監督じゃなかったら今の僕はなかった」と感謝は尽きない。
この日、ロッテ浦和球場で訃報に対し「本当に残念。それしかない。初めて1軍に上げてくれた監督だし、背番号を9に変えてくれた監督。18連敗とか、苦い思い出もありましたけど、やっぱり寂しいですね。僕はまだ若かったですし、可愛がってもらったって言ったらおかしいけど(試合で)使ってもらってありがたかった。18連敗だって、誰もしたいと思ってやってる訳じゃない。勝てなかった悔しさは今も忘れないし、本当、申し訳ないなという気持ちが大きいです」と、沈痛な面持ちを浮かべた。
元大洋(現DeNA)選手で、横浜ベイスターズの初代監督、のちロッテでも指揮を執った近藤昭仁氏が27日午前1時23分、敗血症性ショックのため神奈川県内の病院で死去した。80歳だった。数年前にパーキンソン病と診断され、自宅などで闘病生活を送っていた。先月、誤嚥性肺炎で入院。最後は家族にみとられ、眠るように逝った。
プロ入り1年目の1960年(昭35)の日本シリーズでMVPに輝いた。巧打、好守の内野手として鳴らし、現役引退後は指導者として活躍。巨人、西武などでヘッドコーチを務めた一方、監督としては両リーグで最下位を経験した。
ロッテ・井口監督が27日、イースタン・リーグ、日本ハム戦を視察した。1軍メンバーでは、4月3日の西武戦(メットライフ)の先発が予定される左腕・ブランドンが6回途中4失点。昇格を目指す2年目の安田は逆転サヨナラ2ランを放った。指揮官は「ブランドンはあと1週間、調整してもらえたら。安田は結果を残して、また上がってきて欲しい」と期待を寄せた。
ロッテの公式チア・パフォーマー『M☆Splash!!』の衣装が27日、変更された。船員や水兵をイメージし、袖が付いたボレロ、ハイウエストのショートパンツなどの新デザインを採用。7人の新メンバーが加入し、19人のリーダーとなったASUKAは「チームカラーの白と赤を取り入れ、マリンテイストの衣装にリニューアルしました。ぜひ注目してみてください」と笑顔で呼び掛けた。
大洋(現DeNA)の二塁手として1960年の日本一に貢献し、横浜(大洋の後身)とロッテで監督を務めた近藤昭仁(こんどう・あきひと)氏が27日、敗血症性ショックのため死去した。80歳。香川県出身。通夜は31日午後6時、葬儀・告別式は4月1日正午、横浜市鶴見区鶴見2の1の1、総持寺三松閣で。喪主は妻、由紀子(ゆきこ)さん。
日本一チームで1番を打ち、引退後は計5球団で監督、コーチを務めた近藤昭仁氏が、天国へと旅立った。
早大から1960年に大洋へ入団すると、同郷で早大の先輩でもある名将、三原脩監督が就任した。前年まで6年連続最下位のチームは開幕6連敗。早大時代と同じ背番号「1」をつけた近藤氏が、二塁手に抜擢された。168センチと小柄ながら、1年目は117試合に出場。終盤戦は1番を打ち、初のリーグ優勝に貢献した。
大仕事を成し遂げたのは大毎(現ロッテ)との日本シリーズだ。第3戦で勝ち越し本塁打、第4戦でも先制適時打を放ち、チームは4連勝で日本一。わずか3安打でMVPに選ばれ、「僕はもらえない。たくさんの先輩に悪い」とはにかみながら、賞品の自動車のボンネットに座った。62年のシーズン後には、お姫様女優として売り出し中だった北沢典子(本名・由紀子)と結婚し、世間を驚かせた。
74年に引退後は大洋、ヤクルト、西武、巨人でコーチを歴任。球団名が大洋ホエールズから横浜ベイスターズに変わった93年に、監督で古巣に戻った(5、6、4位)。
97年からロッテで監督を務めたが、1年目は最下位(セ、パ両リーグで最下位になったのは史上4人目)。98年は6月13日のオリックス戦から7月8日のオリックス戦まで18連敗(1分けを挟む)のプロ野球ワースト記録を作った。
当時の連敗記録(16)に並んで迎えた7日のオリックス戦は黒木が力投したが、完投勝利目前の9回2死一塁から同点2ランを喫し、マウンドに崩れ落ちた。そして延長12回にサヨナラ負けし、プロ野球記録を更新。翌日も敗れ、連敗は「18」に伸びた。
結局、2年連続最下位で、この年限りで退任。監督としては、1度もAクラスに入れなかった。
ロッテはイニングイベントとして、常設するDJブースでDJによる音楽で試合観戦を盛り上げるイベントを月、火、水、木、金曜日は3回裏終了後、日曜日は8回表終了後に行うことが決まった。常駐DJであるDJ CREW氏が担当する。
これを受け、ロッテは株式会社拓匠開発と試合中イベントのスポンサー契約を締結。「拓匠開発 presents DJ PLAY MUSIC」のイベント名で実施する。
ロッテは、公式チアパフォーマーのコスチュームを変更する。
衣装は昨年に引き続き、マリンテイストをモチーフに。ネックラインが横に広がったボートネック、袖が付いたボレロの他、ハイウエストのショートパンツなど、今までの衣装にはなかったデザインを採用。船員や水兵をイメージし、明るくアクティブな雰囲気に生まれ変わった。
「M☆Splash!!」の衣装の変更は2004年の結成後9度目となる。「M☆Splash!!」リーダー、ASUKAは「7人の新メンバーを加えて、2019シーズンは19名で活動していきます!!今年はマリーンズチームカラーの白と赤を取り入れ、海の近くにあるZOZOマリンスタジアムをイメージしたマリンテイストの衣装にリニューアルしました!!試合前のオープニングダンスや球場外周のステージでのダンスショー、イニング間でのパフォーマンスなど球場の様々な場所でパフォーマンスしているので、ぜひ注目して見てください」と笑顔で呼びかけた。
ロッテの公式戦全試合が昨年に引き続き、CS有料放送チャンネル「日テレNEWS24」で試合開始から終了まで生中継されることが決定。
対象試合はロッテ主催の公式戦全71試合、ロッテが主催となった場合のクライマックスシリーズ。試合開始15分前からは、選手のインタビューなど様々な試合前情報放送予定(開幕戦のみ45分前から)。
中継担当者は「プレーボールから最後の1球まで試合の模様をぜひ日テレでごらんください。なおプレゲームショー(試合前の直前情報)を見られるのは日テレだけです」とPRした。
プロ野球の横浜(現DeNA)、ロッテで監督を務めた近藤昭仁(こんどう・あきひと)さんが27日午前1時23分、敗血症性ショックのため川崎市内の病院で死去した。80歳。香川県出身。葬儀・告別式は4月1日正午から横浜市鶴見区鶴見2の1の1、総持寺三松閣で。喪主は妻由紀子(ゆきこ)さん。
香川・高松一高から早稲田大を経て1960年に大洋(現DeNA)に入団。小柄ながら走攻守そろった二塁手として活躍し、新人だった60年は球団初のリーグ優勝と日本一に貢献。日本シリーズでは最優秀選手(MVP)に選ばれた。実働14年で通算1619試合に出場して1183安打、65本塁打、360打点、打率2割4分3厘。オールスターゲームには2度出場した。
引退後は大洋、ヤクルト、西武、巨人のコーチを務め、93年に横浜の監督に就任して3年間、指揮を執った。97年からはロッテの監督を2年務め、2年連続の最下位だった。98年にはプロ野球記録となる18連敗を喫した。
ロッテのドラフト1位・藤原(大阪桐蔭)が広島の同1位・小園(報徳学園)から刺激を受けた。
中学時代に所属したオール枚方ボーイズのチームメートだった親友も開幕1軍入りし、「凄いと思うし、お互い頑張っていければいい」。89年前田幸長以来30年ぶりに高卒新人として開幕1軍入りする18歳はZOZOマリンでの全体練習に参加。開幕2日前となり「少しずつ、緊張感も出てきました」と引き締まった表情で話した。
横浜(現DeNA)、ロッテで監督を務めた近藤昭仁(こんどう・あきひと)氏が27日午前1時23分、敗血症性ショックのため川崎市内の病院で死去した。80歳だった。大洋入団1年目の60年に日本シリーズMVP。ヤクルト、西武、巨人のコーチなどを歴任し、ロッテ監督時代の98年にはプロ野球記録の18連敗を喫して「七夕の悲劇」と呼ばれた。
小柄な体の中に、厳しさと優しさを併せ持った近藤氏が天国に旅立った。長くパーキンソン病などを患い、今年2月25日に誤嚥性肺炎で入院。今月9日には34.8度の低体温になるも、そこからいぶし銀だった現役時代のプレーのような「粘り腰」を見せた。看護師から「スーパーじいちゃん」と呼ばれたが、この日未明、家族に見守られて静かに息を引き取った。
近藤氏は60年に大洋入団。三原脩監督に見いだされて同年球団初の日本一に貢献した。「魔術師」と呼ばれた名将の野球は「ときに応じて一流をしのぐ超二流」の選手を必要とした。俊足で勝負強く、バントも守備も巧みな近藤氏は、まさに「超二流」だった。コーチとしても西武・広岡達朗監督、巨人・藤田元司監督を支え、「3人の名将に巡り合えたことは誇り」と野球人生の勲章にしていた。
大洋が球団名を横浜に改称した93年に初代監督に就任。谷繁、石井琢ら若手を積極的に起用した。98年に38年ぶりの日本一に輝いたチームの土台を築いたのが近藤氏。しかし自身が指揮を執った3年間は結果を残せず、「もう一年勝負したかった」と悔やんでいた。
ロッテ監督時代の98年には、プロ野球ワーストの18連敗を喫した。連敗記録を更新する17に伸びた7月7日のオリックス戦では、9回2死から黒木が同点弾を浴びて号泣。「七夕の悲劇」と呼ばれた。同9日に連敗ストップ。近藤氏は「選手に非常につらい思いをさせた」と漏らした。
横浜、ロッテで指揮を執った計5年間は全てBクラス。両球団とも戦力的に厳しかったが、起用した若手が後に花開く。横浜では鈴木尚、ロッテでは福浦が首位打者を獲得。素質を見抜き、信じて使い続けた信念の人でもあった。
元ロッテのエース・黒木知宏氏は恩師の訃報に「ただ驚くばかりです」とコメントした。「七夕の悲劇」はあまりにも有名。16連敗で迎えた98年7月7日のオリックス戦に先発し、3−1の9回2死一塁からプリアムに同点2ランを浴び、マウンド上に座り込んで悔し涙を流した。
当時の指揮官が近藤氏だった。チームの低迷脱出を図り、先発→ストッパー→先発と配置転換された末の悲劇だったが、「苦しい状況でも我慢することを教えていただき、野球人黒木知宏を育てていただいた近藤監督のことは、一生忘れることはありません」と故人をしのんだ。
ロッテ・福浦が近藤昭仁さんの死去の報に接し「本当に残念です。寂しいですね」と沈痛な表情で口にした。
近藤さんがロッテの指揮を執ったのは97〜98年。福浦は当時、伸び盛りの若手で「初めて1軍に上げてくれたのも、背番号を9に替えてくれたのも近藤監督でした。僕はまだ若かったけど、可愛がってもらったというのもおかしいけど、(試合に)使ってくれた」と振り返った。
98年には「七夕の悲劇」とも言われた18連敗があった。「18連敗という苦い思い出もありました。あの悔しさは今でも忘れていない。18連敗したいと思ってやっていなかったけど…。(近藤さんに)申し訳ないという気持ちです」と話した。
ロッテの新外国人ブランドンが、ロッテ浦和でのイースタン・ロッテ戦に先発。5回2/3を投げてちょうど100球、5安打4失点ながら9三振を奪った。
「真っ直ぐとスライダーが良かったが、チェンジアップが駄目だった。後半はボールが高めに浮いたし、気をつけたい」。
3回2死から森本に左翼への2ランを被弾。5回には無死から渡辺の中越え二塁打で失点したが、その後は3者連続三振でピンチをしのいだ。
デビュー戦は4月3日の西武戦が有力。7年ぶりに日本球界に復帰した左腕は「去年、1番打ったチームだし、前回(オープン戦で)対戦できて良かった。情報を増やして対応したい」と意気込んだ。
視察した井口監督も「真っ直ぐもずっと強いボールを投げている。(西武の)強力打線を何とかしっかり抑えて欲しい。あと1週間、きっちり調整してくれたら」と期待を寄せた。
ロッテの2年目・安田が井口監督の見守る前で快打を放った。
イースタン・日本ハム戦の1点を追う9回、無死一塁から今季1号の逆転サヨナラ2ラン。指揮官が視察した試合での劇的な一発に「(井口監督が)来ているのは知らなかったけど、打てて良かった。どういう状況でもアピールが大切なので」と振り返った。
さらなる飛躍を期す2年目。この日は計3安打をマークし「“しっかり強く振る”をテーマにやっている。今日のようにどんどんバットを振っていきたい」。開幕は2軍スタートとなる見込みで、井口監督は「しっかり結果を残して上(1軍)に上がってきて欲しい」とさらなる奮起を期待。安田も「早く(1軍に)上がれるようにしっかり準備したい。1軍でプレーするイメージを持ちながら(2軍でも)やりたい」と力を込めた。
プロ野球、大洋(現DeNA)の内野手として活躍し、ロッテ、横浜、巨人などで監督やコーチを務めた野球解説者の近藤昭仁氏が27日午前1時23分、敗血症性ショックのため川崎市内の病院で亡くなったことが分かった。80歳だった。高松市出身。
近藤氏は1960年に早大から大洋に入団。ルーキーイヤーの5月に二塁手に定着すると、終盤戦には1番打者として活躍し、球団創設以来初となる優勝に貢献した。その後もレギュラー二塁手として活躍し、球宴に2回出場。1973年に選手兼任コーチとなり、同年限りで現役を引退した。
引退後は74年から78年まで大洋、79年から81年までヤクルト、82年から86年まで西武のコーチを、89年から91年まで巨人のヘッドコーチを歴任。93年から3年間は、大洋の後身にあたる横浜、97、98年にはロッテの監督を務めた。また、06年に15年ぶりに巨人のヘッドコーチに就任。翌年には統括ディレクターとしてフロント業務を務め、育成枠登録などを助言した。
ロッテ監督時代の98年には、6月13日のオリックス戦での逆転負けを皮切りに連敗街道へ。7月7日のオリックス戦で先発エースの黒木が力投し、トンネル脱出まであと1死まで迫りながら、同点本塁打を被弾。最後は3番手の近藤がサヨナラ満塁弾を浴びてプロ野球史上初の17連敗。同試合は「七夕の悲劇」として語り継がれた。
通夜は31日午後6時、葬儀・告別式は4月1日正午からいずれも横浜市鶴見区鶴見2−1−1の総持寺・三松閣。喪主は妻の由紀子さん。献花や葬儀についての問い合わせは公益社=(電)03(5491)3070=まで。
ロッテは今季、常設するDJブースでDJの音楽で試合観戦するイベントを始めると発表した。
月、火、水、木、金曜日は3回裏終了後、日曜日は8回表終了後に行う。(土曜日は開催しない)。
これに伴い、株式会社拓匠開発と、試合中イベントのスポンサー契約を締結し「拓匠開発 presents DJ PLAY MUSIC」として開催される。
DJブースは、ZOZOマリンフロア3に位置する昨季までは放送室として使用したスペース。常駐DJであるDJ・CREW氏が務める。
ロッテは公式チアパフォーマー「M☆Splash!!」のコスチュームを変更すると発表した。
「マリンテイスト」をモチーフにネックラインが横に広がったボートネック、袖が付いたボレロ、ハイウエストのショートパンツなど、船員や水兵をイメージし、明るくアクティブな雰囲気に生まれ変わった。衣装変更は2004年の結成後、活動16年目で9度目になる。
M☆Splash!!のリーダー・ASUKAは「7人の新メンバーを加えて2019シーズンは19名で活動していきます。今年はマリーンズチームカラーの白と赤を入れ、海の近くにあるZOZOマリンスタジアムをイメージしたマリンテイストの衣装にリニューアルしました。試合前のオープニングダンスや球場外周のステージでのダンスショー、イニング間でのパフォーマンスなど球場の様々な場所でパフォーマンスしているので、ぜひ注目して見てください」とコメントした。
ロッテは主催公式戦全試合を昨年に続き、日本テレビ放送網株式会社が運営するCS有料放送チャンネル「日テレNEWS24」で試合開始から終了まで生中継することが決まったと発表した。
対象は主催公式戦全71試合、なお、主催になった場合のクライマックス・シリーズ(CS)も含まれる。
試合開始15分前からプレゲームショーとして選手インタビューなど、試合前情報を放送する。(開幕戦のみ45分前から)。
中継担当者は「プレイボールから最後の1球まで試合の模様をぜひ日テレでご覧ください。なおプレゲームショー(試合前の直前情報)を見られるのは日テレだけです」とコメントした。
ロッテ・安田尚憲内野手(19)が逆転サヨナラ弾を含む猛打賞の活躍。視察に訪れた井口監督の前で早期の1軍昇格を猛アピールした。
4−5の9回無死一塁。真ん中低めの直球を振り抜くと打球は左中間フェンスを越える1号2ラン。ベースを1周すると、ナインにもみくちゃにされた19歳は「最近、長打が出てなかったので内心、ほっとしました」と笑みをこぼした。
今季は石垣島キャンプからレアード、鈴木と三塁を争ってきたが、オープン戦終盤に失速し2軍行きを通達された。自分に足りないものを見つめながら「しっかり強く振ること」を意識してスラッガーへの階段を歩んでいる。
ネット浦和で見守った指揮官は「しっかり結果を残して上に上がって来て欲しい」とさらなる成長を求めた。安田も「なるべく早く上がれるようにしっかり準備したい」と力強く話した。
ロッテの新外国人、ブランドン・マン投手(34)=レンジャーズ=が先発し、3回に森本に2ランを被弾するなど6回5安打4失点。3盗塁を許しクイックの課題も露呈したが、「クイックは普通だと思う。1個目の盗塁はスライダーで2個目はちゃんと(クイックで)投げていればアウトだった」と謎(?)の反論。視察した井口監督は「あと1週間あるのでしっかり調整してもらえたら。クイックも含めて」と指摘した。
開幕5戦目の4月3日の西武戦(メットライフ)に先発予定の左腕は「いい打線なのは分かっている。前回対戦できてよかった。色んな打者と対戦して情報が集まっていくので」と“攻略”に自信。レオ打戦は昨季のパ・リーグトップの132盗塁をマークするなど機動力も大きな武器だが、が「走者を出さなければいい」と助っ人は最後まで強きの姿勢を崩さなかった。
この日は4失点も4連続を含む9奪三振の“怪投”。波に乗れば十分な戦力となるだけに、1週間後のマウンドで力を発揮できるか。
ロッテは27日、イニングイベントとして常設するDJブースでDJによる音楽で試合観戦を盛り上げるイベントを行うと発表した。土曜日をのぞく月、火、水、木、金曜日は3回裏終了後、日曜日は8回表終了後に行う。
また、これを受けて球団は株式会社・拓匠開発と、試合中イベントのスポンサー契約を締結し、「拓匠開発 presents DJ PLAY MUSIC」のイベント名で実施する。DJブースは、ZOZOマリンスタジアムフロア3に位置する昨年までは放送室として使用していたスペースで、今シーズンより常駐DJであるDJ CREW氏が音楽をプレーする。
ロッテは27日、球団の公式チアパフォーマーのコスチュームを変更したと発表した。衣装は昨年に引き続き、“マリンテイスト”をモチーフにした新衣装。ネックラインが横に広がったボートネック、袖が付いたボレロの他、ハイウエストのショートパンツなど、今までになかった斬新なデザインを採用。船員や水兵をイメージし明るくアクティブな雰囲気に生まれ変わった。
「M☆Splash!!」の衣装の変更は04年の結成後、活動16年目で9度目。M☆Splash!!リーダーのASUKAは「私達『M☆Splash!!』は7人の新メンバーを加えて2019シーズンは19名で活動していきます!!今年はマリーンズチームカラーの白と赤を取り入れ、海の近くにあるZOZOマリンスタジアムをイメージしたマリンテイストの衣装にリニューアルしました!!試合前のオープニングダンスや球場外周のステージでのダンスショー、イニング間でのパフォーマンスなど球場の様々な場所でパフォーマンスしているので、ぜひ注目して見てください。そして私達のパフォーマンスとみなさんの応援で一緒にマウエへと突き進んでいきましょう」と、とびきりのスマイルでファンに呼び掛けた。
巨人の元ヘッドコーチで横浜やロッテで監督を務めた近藤昭仁氏が27日午前1時23分、敗血症性ショックのため川崎市内の病院で死去した。80歳だった。スポーツ報知では、2016年3月の紙面で5回連載した[あの時]を再掲します。
人は何かを失ったとき、何かを手にする。18連敗は球史に残る屈辱だった。それでも敗者である彼らが、暗黒の27日間を通じて勝ち取ったものがある。それは、ファンとの固い絆だ。
98年7月5日、千葉マリン。ロッテはダイエーに3−10で大敗した。16連敗となり、日本記録に並んだ。4併殺に投壊。暴動が起きても不思議ではない。だが、選手出入り口前に集った200人のファンは、違った。声を振り絞って、歌った。
俺たちの誇り 千葉マリーンズ どんな時も俺たちがついてるぜ 突っ走れ 勝利のために
歌声と手拍子は1時間、続いた。大合唱は監督である近藤昭仁の耳に入った。暗闇の真っ只中にいた指揮官はその瞬間、目を真っ赤に潤ませた。ありがとう−。
心が折れることなく声援を送るファンの光景は、夜のニュースでも報じられた。エース格だった黒木知宏は翌々日の先発が決まっていたため、試合途中で球場を去り、帰宅していた。テレビ画面越しに応援団の思いが伝わってくる。黒木の頬にもまた、熱い涙が滴り落ちた。
「実はファンに怖さがあったんです。『何も起きなければいい』と。だけどテレビをつけたら、これだけ負けているのに、ファンが一生懸命歌っている。これまで『ファンのために』と言っていたけど、本当にそういう思いだったのか…。自分がゲスい気持ちになってしまったんです。だから7月7日は、何が何でも連敗を止めなきゃならない。腕がもぎれてもいいと思って、マウンドに立ちました」。
脱水症状に襲われ、全身痙攣を起こしつつ熱投した「七夕の悲劇」は、その2日後の出来事だった。
18連敗が止まった数日後。球宴休みを利用して、近藤はある人物を食事に誘った。私設応援団「ガルズ」の団長・石井努だった。現役監督がシーズン中、私設応援団と会食することは、極めて異例だ。近藤は振り返る。
「本当はファン全員を招待したかったんだ。どんな時も必死になって応援してくれた。あの声援が、どれほどありがたかったことか」。
黒木は「あの時」を球界の後進に語り継いでいくことも自らの使命だという。
「当事者ですから、僕には伝えないといけない義務がある。『財産になります』ではなく、財産にしないといけない。ゲームセットまで、勝負はゲタを履くまでは、分からない−と」。
光を求め、もがいた夏。男達の記憶は、決して色あせることはない。(特別取材班)=敬称略・終わり=
ロッテが18連敗を脱したのは7月9日のオリックス戦(神戸)。先発したエース・小宮山悟が14安打されながらも140球を投げ、6失点完投。9−6で打ち勝った。18連敗は6月13日、同じオリックス戦(千葉マリン)での小宮山の敗戦から始まっていた。注目度の高さから試合はTBS系のゴールデンタイムに生放送。連敗脱出は中継終了後、ドラマ「ひとりぼっちの君に」の中でテロップにて報じられた。
巨人の元ヘッドコーチで横浜やロッテで監督を務めた近藤昭仁氏が27日午前1時23分、敗血症性ショックのため川崎市内の病院で死去した。80歳だった。スポーツ報知では、2016年3月の紙面で5回連載した[あの時]を再掲します。
負の連鎖は、もはや人知を超越した段階に来ている。ロッテ・ナインがそれを痛感する“事件”があった。
14連敗のまま迎えた7月4日、千葉マリンでのダイエー戦、その試合前だ。午後4時半。練習を終えたナインを待っていたのは、千葉神社の宮司だった。厳かな衣装に包まれた神主を前に、監督の近藤昭仁ら首脳陣、選手25人が頭を下げた。前代未聞ともいえる球場での厄払い。重光昭夫オーナー代行の発案だった。一塁ベンチにはお神酒や清めの塩がまかれた。エース格だった黒木知宏はこう振り返る。
「僕は先発の準備でランニングをしていて、みんなが集まっている中に遅れて入ったんですが、『そこまで来てしまったのか…』と思いましたね。もう神頼みになってしまっていると」。
皮肉にもその夜、神が与えたのはさらなる試練だった。延長11回、5時間9分にも及ぶ死闘の末、15連敗を喫した。ある球団関係者は自嘲気味に話した。「ウチはお菓子の会社だもん、盛り塩よりも盛り砂糖の方が、効果があるかもなあ」。
連敗地獄の中、近藤の心労はピークに達していた。解任報道がさらにストレスを生んだ。それでもロッテグループの総帥・重光武雄オーナーからの激励の電話に、こう答えたことを覚えている。「倒れるまで、やらせて下さい」−。
例えばよくある「休養」といった選択肢は、なかったのか。当時60歳。近藤は、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「逃げる気は、さらさらなかった。とにかく誰1人として、手抜きをしている選手はいなかったからね。選手の批判だけは、絶対しないようにと思っていたよ」。
遠征先で落ち込んでいる時、心が熱くなる電話があった。声の主は元巨人監督・藤田元司だった。近藤は89年から91年まで、ヘッドコーチとして第2次藤田政権を支えてきた。「無理するな。勝てないときは勝てない。選手をくさすなよ」。温かい言葉が心にしみた。
実はロッテに縁もゆかりもなかった近藤が指揮官に就任したのも、藤田のはからいだった。ロッテのフロントから「立て直し役に最適な人はいないか」と相談された藤田が、95年の横浜監督を最後に現場から離れていた近藤へと、白羽の矢を立てたのだ。「藤田さんから頼まれたら、断れないじゃん。他の人からの頼みだったら、やらなかったよ」。
勝利に見放され、不眠に苦しんでいた時、藤田が「1錠飲めば、グッスリ眠れる」と睡眠薬をくれたこともある。口にすると、本当に熟睡できてしまった。近藤は言う。「飲むのをやめたよ。怖くなっちゃって。大変な仕事だよな、監督は」(特別取材班)=敬称略=
12連敗を喫した6月28日。千葉マリンでの近鉄戦では6点ビハインドの6回裏、三塁側2階内野席で時限発火装置付きの爆竹が破裂。「バババーン」との爆音が球場内にこだまし、1万5000人の観衆や両軍が騒然となる一幕もあった。幸いケガ人はいなかったが、千葉西署の警察官2人が現場検証を行うなど、球場は不穏な空気に包まれた。
巨人の元ヘッドコーチで横浜やロッテで監督を務めた近藤昭仁氏が27日午前1時23分、敗血症性ショックのため川崎市内の病院で死去した。80歳だった。スポーツ報知では、2016年3月の紙面で5回連載した[あの時]を再掲します。
連敗地獄に陥っている間、ロッテの首脳陣は指をくわえて見ていた訳ではない。序盤から打つべき手は打ったが、止まらなかったのだ。
4連敗を喫した藤井寺での近鉄戦から一夜明け。6月19日、帰京する新幹線の車中だった。前夜に先発し、6回2失点ながらも敗戦投手となっていた黒木は、マネジャーに声を掛けられた。「監督が呼んでいます」。何の用事だろう?監督の近藤昭仁の隣に座ると、こんな打診を受けた。「クロ、明日からストッパーでいってくれ」。連敗の要因である守護神の不在をエース格・黒木で補う。秘策だった。
出番はすぐに訪れた。翌20日の東京D、日本ハム戦。2−0とリードした8回裏、中1日で黒木は救援した。だが1点差に迫られると、片岡篤史に逆転2点二塁打を浴びた。チームは6連敗。悪夢は続く。21日の同戦は壮絶な打撃戦と化した。10−9とロッテが1点リードの9回裏、1死二塁。終止符を打つべく、ジョニーは連夜の登板を果たした。ところが田中幸雄への直球は、サヨナラ2ランに。2夜連続の失敗。10−11での敗戦で7連敗−。「10点取っても勝てないのか…」。ベンチは絶望感で満たされた。
なぜ「守護神・ジョニー」は機能しなかったのか。
気迫全開で白星を重ねてきた「魂のエース」。その持ち味がストッパーとしては、裏目に出てしまった。
2度あることは3度ある。26日、千葉マリンでの西武戦。1−1の延長11回、黒木は1死三塁で救援したが、またも空回りした。2失点し、3度目のリリーフ失敗。チームは10連敗となった。試合後、近藤は先発への再転向をジョニーに指示した。
フロントが抑えの切り札として新助っ人・ウォーレンの獲得を発表したのは、その翌日のことだった。翌99年には30セーブを挙げ、パの最優秀救援投手に輝いた右腕。近藤の言葉が切ない。「1ヶ月前に来とったら、今オレがこうして取材受けることは、なかったよな」(特別取材班)=敬称略=
悪夢の「ストッパー3連敗」、さらには勝利まであと1球から同点2ランを浴びた「七夕の悲劇」など試練が続いた25歳の黒木だったが、終わってみれば13勝(9敗)で最多勝。5割9分1厘で最高勝率と2冠に輝き、初タイトルを獲得した。防御率3.29はリーグ2位。球団最年少の1億円プレーヤーになった。
巨人の元ヘッドコーチで横浜やロッテで監督を務めた近藤昭仁氏が27日午前1時23分、敗血症性ショックのため川崎市内の病院で死去した。80歳だった。スポーツ報知では、2016年3月の紙面で5回連載した[あの時]を再掲します。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | R | |
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千葉ロッテ | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 |
オリックス | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 4x | 7x |
プロ野球ワーストタイの16連敗が、やっと止まる。ロッテベンチだけじゃない。GS神戸の球場全体が異様な興奮に包まれていた。98年7月7日、オリックス戦。先発した黒木の力投で、勝利まであと1人に追い込んだ。3−1と2点リードの9回2死一塁。プリアムが右打席へと向かう。ジョニーの闘争心は最高潮だった。
「勝てると思いましたね。ファンの思い、チームの思いを受け止めて、最高の投球をしていたので。2ストライクに追い込んだときは、『よし、勝った!』と思いましたよね」。
カウントは1ボール2ストライク。女房役の福沢は内角高めにミットを構えた。暗く、長いトンネルを抜けるまで、あと1球−。
「元々、僕の生命線はインコース高めの直球だったので、そこに投げたんですが、ちょっと引っかかったんです。それが低めにいってしまって…」。
この日、黒木が投じた139球目。ローボールヒッターのプリアムはわずかな制球ミスを逃さなかった。内角低めの146キロを捉える。強烈な打球が左翼ポール際へと飛んだ。切れろ。切れてくれ−。切実な願いは届かなかった。同点2ラン。ジョニーはマウンドへと膝から崩れ落ちた。内野陣が集まり、声を掛けるが、立ち上がれない。
「人はよく『アタマが真っ白になる』って言うじゃないですか。『いやいや、真っ白になるなんて、ないだろう』と思うかもしれませんが、打たれた瞬間、本当に真っ白になりました。『あ、終わった』と。その後は記憶がなくて。抱えられて降板するところは数日後に映像で見て、『オレはこういう風になっていたんだ』って。現実に悔しくて涙が出るとか、そういう感情はなかったです」。
試合は延長に突入したが、その時点でフランコや初芝を交代させていた。強打者を欠き、守護神不在のチームに勝ち目はなかった。延長12回。3番手の近藤が代打・広永にサヨナラ満塁弾を浴びた。プロ野球ワースト更新の17連敗。悪夢から覚めることはできなかった。
投球中から脱水症状に苦しんでいたジョニーはゲームセット直前、右肩と右肘に強い痙攣を起こしていた。右腕を上げたまま立花コーチらに抱えられ、GS神戸を後にした。そんな痛々しい写真が、翌日の紙面に掲載された。宿舎に戻り、ケアをすませて午前1時半。裕子夫人に電話した。
「かける言葉もないですよね。『負けた』と言って『大変だったね』みたいな感じです。難しいですね。27個目のアウトを取るのは」。
悲しくてやりきれない、七夕の夜が終わった。(特別取材班)
巨人の元ヘッドコーチで横浜やロッテで監督を務めた近藤昭仁氏が27日午前1時23分、敗血症性ショックのため川崎市内の病院で死去した。80歳だった。スポーツ報知では、2016年3月の紙面で5回連載した[あの時]を再掲します。
18連敗−。ドラフトによって戦力が均衡され、実力が伯仲するプロ野球の世界で、ここまで負けることは考えにくい。ロッテが1998年の6月から7月にかけて演じた悲劇は、今もなおプロ野球ワースト記録として残り、語り継がれる。当時の主力投手だった黒木知宏氏、監督だった近藤昭仁氏の証言をもとに、逆境の中で苦しみながらも、戦い続けた男達のドラマを再現する。
七夕の夜の出来事だった。黒木は当時を振り返る。
「織姫と彦星の1年に1度しかない日−。ロマンチックな日ですけど、僕には違う1日ですね。忘れろって言っても、無理ですよ」。
98年7月7日。ロッテは出口の見えないトンネルをさまよっていた。6月13日のオリックス戦(千葉マリン)から始まった黒星は、プロ野球ワーストタイの16連敗まで膨らんでいた。GS神戸で行われたオリックス戦。負の連鎖を断ち切るために先発したのは、「ジョニー」の名で愛された魂のエース・黒木だった。
「何が何でも連敗を止めると。『腕がもげてもいい』という思いでした」。
注目度は高かった。5位と6位の対決ながら、フジ系で全国に緊急生放送される異例の事態に。大報道陣が勝敗を注視していた。
「みんな負けるところを見に来ている。絶対に負けられないって、メラメラきてましたよね。でもグラウンドに出るとき、当時ヘッドコーチだった広野功さんから『ジョニーは幸せだね』と言われたんです。『これで勝ったら、これで負けたら…という大事な試合で投げられる。幸せだよ』って。幸せだ−というのが、僕の中で響いたんです」。
鬼気迫る表情でジョニーは右腕を振った。だが、この夜の神戸は高温多湿の悪条件。人知れず、黒木の体には異変が生じていた。
「6回で脱水症状になって…。マウンドに上がってボールを投げると、全身に痙攣を起こしていることは分かっていました。だけど、連敗を何とか止めないといけないし」。
これは大型連敗の最大の要因でもあったのだが、当時のロッテはWストッパーの河本育之、成本年秀をけがで欠き、終盤を託せるリリーフが不在だった。だからこそジョニーは首脳陣に異常を告げることなく、奮投するしかなかった。
8回を終え2安打1失点の快投。3−1とリードは2点。勝利の瞬間まで、あとアウト3つに迫っていた。
「ただ、本当は記憶があまりないんです。無我夢中で何も考えず、ひたすら1つのアウトを取る作業しかやっていなかったから」。
9回。先頭のイチローを三振に封じた。記憶がおぼろげな中でも、背番号51の表情は脳裏に焼き付く。
「イチローがギロッとにらみ返してきたことを覚えています。普通は日本ワーストタイだったら、哀れな気持ちがあるじゃないですか。ただ、イチローには関係なかった」。
走者を許すが、2死までたどりついた。あと1人。誰もが連敗地獄からの脱出を、信じて疑わなかった。(特別取材班)
ロッテの連敗は10を超えた頃から世間の関心事となり、ロッテ・ファンの落語家・立川談志は本紙の取材に「勝負は勝つヤツがいれば負けるヤツもいる。この際、とことん負けたらいいんじゃない。負けを楽しめと言いたいね」とエールを送っている。一方、フジ系でゴールデンタイムに全国生中継された「七夕の悲劇」は関東地区で視聴率3.3%と、数字的にも惨敗に終わった。
ロッテのドラフト1位・藤原恭大外野手(18)=大阪桐蔭=が27日、ZOZOマリンでの練習に参加。2日後の開幕戦に向けて「緊張感も出てきた。いい練習ができた。(開幕戦に)しっかり合わせていきたい」と抱負を語った。
開幕1軍は決定。ロッテの高卒新人では89年の前田幸長投手以来30年ぶりで、「光栄に思います」と話した。オープン戦は14試合に出場し32打数7安打の打率.219、3打点。井口監督は「足と守備は戦力になる」と評価。「1番・中堅」での開幕スタメンの可能性も残る。実現すれば球団の高卒新人では65年の山崎裕之氏以来、54年ぶりとなる。
親友・広島のドラ1小園(報徳学園)が開幕1軍を正式に決めた。「すごいと思いますし、お互いに頑張っていければ」と目を輝かせた。
横浜(現DeNA)、ロッテで監督を務めた近藤昭仁(こんどう・あきひと)さんが27日午前1時23分、敗血症性ショックのため川崎市内の病院で死去した。80歳。香川県出身。葬儀・告別式は4月1日正午から横浜市鶴見区鶴見2の1の1、総持寺三松閣で。喪主は妻由紀子(ゆきこ)さん。
早大から1960年に大洋(現DeNA)に入団。引退後は大洋、ヤクルト、西武、巨人のコーチを務め、93年に横浜の監督に就任した。97年からはロッテの監督を務め、98年にはプロ野球記録となる18連敗を喫した。
近藤さんの名を球史に残したのは1960年の活躍だ。この年、大洋に入団。チームは前年まで6年連続で最下位に沈み、西鉄(現西武)の黄金時代を築いた三原脩を新監督に招聘していた。いきなり開幕6連敗すると、控えだった近藤さんが二塁手に抜てきされる。小柄だが強気。守備良し、勝負強い打撃、俊足、そして鋭い読みと勘の良さを生かしてリーグ優勝に貢献した。
大毎(現ロッテ)との日本シリーズはストレート勝ち。近藤さんは第3戦で9回に決勝本塁打を放ち、第4戦は5回の適時打でチームを1−0の勝利に導いた。通算3安打で最優秀選手(MVP)をさらった。
“魔術師”と呼ばれた三原監督の野球は「ときに応じて一流をしのぐ超二流」の選手が必要とし、その超二流の存在を示したのが近藤さんだった。最も驚かせたのは売り出し中のお姫さま女優北沢典子(本名由紀子)さんを射止めて結婚したこと。童顔ながら“超一流の腕”を持っていた。
横浜(現DeNA)、ロッテで監督を務めた近藤昭仁(こんどう・あきひと)さんが27日午前1時23分、敗血症性ショックのため川崎市内の病院で死去した。80歳。香川県出身。
激しさと優しさを併せ持つ人だった。記者が初めてプロ野球担当になったのは97年のロッテ。監督は1年目で、挨拶に行くと「おう、よろしく」と笑顔で名刺を受け取ってくれたのを思い出す。
スポーツ新聞は細かくチェックしていたようで、オープン戦で若手が活躍したことを書いたときに「いい記事だったね。これからも頑張って」と、自信をつけさせてくれるような言葉をかけてもらった。一方で、瞬間湯沸かし器の面もあり、無礼な質問をする記者をどなりつけ、スタンドのヤジに激しく応酬したりもした。
1年目は最下位、2年目も18連敗を喫するなど連続最下位。担当を離れた2年目、10連敗中の遠征先で久しぶりに取材する機会があった。「策はないよ」と笑っていたが、当時の戦力を考えると、半分本気だったのかもしれない。
結局、3年契約を待たずに辞任することになった。しかし、積極的に起用した福浦和也、サブローらが、その後に主軸となり、10年には日本一に輝いた。その種をまいて育てたのは、当時2軍監督だった故山本功児さんと近藤監督でした。天国からプロ野球を温かく見守ってください。(97年ロッテ担当・中江寿)
ロッテのドラフト1位・藤原恭大外野手(18)=大阪桐蔭高=が27日、2日後の開幕戦に向けて、「緊張感も出てきた。(開幕戦に)しっかり合わせていきたい」と抱負を語った。
この日、ロッテ浦和球場でのイースタン・日本ハム戦には参加せず、ZOZOマリンでの練習に参加。「いい練習ができた。徐々に状態はよくなっていると思う」と手応えを口にした。
すでに開幕1軍は決定している。ロッテの高卒新人では89年の前田幸長投手以来、30年ぶりとなる。
「光栄に思います。それに見合った選手になれるようにプレーをしていきたい」と前を見据えた。
オープン戦は14試合に出場して32打数7安打で打率.219、3打点。藤原は「自分の実力は分かったので、これからもっと力を付けていきたい」と話している。だが、井口監督は「足と守備は戦力になる。そこに不調はない」と高く評価しており、「1番・中堅」での開幕スタメンの可能性も残っている。
外野陣の競争は激しい。安打製造機・角中、両打ちの加藤、進境著しい岡、実績のある荻野、清田も好調を維持している。
藤原の開幕スタメンが実現すれば、球団の高卒新人では65年の山崎裕之氏以来、54年ぶりの快挙となる。
親友である広島の小園(報徳学園)が開幕1軍を正式に決めた。
「すごいと思いますし、お互いに頑張っていければいいと思います」と切磋琢磨を強調していた。
ロッテは27日、イニングイベントとして常設するDJブースで、DJによる音楽で試合観戦を盛り上げるイベントを月、火、水、木、金曜日は3回裏終了後、日曜日は8回表終了後に行うと発表した。
また、これを受けて(株)拓匠開発と、試合中イベントのスポンサー契約を締結。「拓匠開発 presents DJ PLAY MUSIC」のイベント名で実施する。
DJブースは、ZOZOマリンスタジアムフロア3に位置する昨年までは放送室として使用していたスペースで、今季から常駐DJであるDJ CREW氏が音楽をプレイする。
横浜(現DeNA)やロッテで監督を務めた近藤昭仁氏が27日午前1時23分、敗血症性ショックのため川崎市内の病院で死去した。80歳だった。
高松市出身の近藤氏は高松一高から早大に進み、1960年に大洋に入団。ルーキーイヤーから二塁手として活躍し、同年の日本シリーズMVPに選ばれた。1619試合出場、1183安打。球宴には62年と65年の2度出場した。
選手兼コーチとなった73年に現役引退。広岡達朗監督時代の西武など複数球団のコーチでは優勝請負人としてチームを支えた。93年に大洋の後身となる横浜の監督に就任。93年5位、94年6位、95年4位とAクラスを経験することなく退任すると、97年にはロッテ監督に就任。初年度に最下位となると、2年目の98年は現在もプロ野球記録として残る公式戦18連敗を喫して最下位となり、この年限りで辞任した。
プロ野球の横浜(現DeNA)、ロッテで監督を務めた近藤昭仁(こんどう・あきひと)さんが27日午前1時23分、敗血症性ショックのため川崎市内の病院で死去した。80歳。香川県出身。葬儀・告別式は4月1日正午から横浜市鶴見区、総持寺三松閣で。喪主は妻由紀子(ゆきこ)さん。
1960年に大洋(現DeNA)に入団。小柄ながら走攻守そろった二塁手として活躍し、新人だった60年は球団初のリーグ優勝と日本一に貢献。日本シリーズでは最優秀選手に選ばれた。引退後は大洋、ヤクルトなどのコーチを務め、93年に横浜の監督に就任して3年間、97年からはロッテの監督を2年務めた。
ロッテは27日、公式戦全試合を昨年に引き続き、日本テレビが運営するCS有料放送チャンネル「日テレNEWS24」で、試合開始から終了まで生中継すると発表した。
対象試合はロッテ主催公式戦全71試合と、ロッテが主催となった場合のクライマックスシリーズ。また試合開始15分前よりプレゲームショーとして選手のインタビューなど様々な試合前情報を放送する。(開幕戦のみ45分前から)
中継担当者は「プレイボールから最後の1球まで試合の模様をぜひ日テレでご覧ください。なおプレゲームショー(試合前の直前情報)を見られるのは日テレだけです」とコメントした。