ロッテは安田が5回に3試合ぶりの安打を放つと6回にも右前打と復調の兆しを見せた。岩下は打たせて取る投球で4回無失点。楽天は則本昂大が5回途中に打球を受けて降板し3失点。辰己は3安打2打点で定位置獲得に前進した。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | R | |
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千葉ロッテ | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 2 | 3 | 0 | 8 |
東北楽天 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 |
東日本大震災から11日で丸10年になる。岩手・陸前高田市出身のロッテ佐々木朗希投手(19)は、大津波で父功太さん(享年37)と祖父母を亡くし、家も故郷の街並みも失った。悲しみに暮れた災害から10年。12日の中日戦(ZOZOマリン)で実戦デビューする。世界中からもらった勇気や希望を、伝える側になると誓った。
東日本大震災の被害はあまりにも甚大すぎた。被災地のために、と思っても人間1人にできることは限られる。でも、佐々木朗希が秘める力は大きい。
「10年前の僕はたくさんの人から支えられ、勇気や希望をもらいながら頑張ることしかできなかったんですけど、今はその時とは違って、勇気や希望を与える立場にあると思うので、活躍してそういうことができたらなと思います」。
小学4年生になる直前の悲劇だった。当たり前が当たり前でなくなった毎日。母や兄弟とともに、大船渡へ移り住んだ。悲しみは簡単に癒えない。10年後なんて想像できない。どんな出来事から勇気や希望を受け取ったのだろう。
尋ねると「ちょっと待ってくださいね」と回想し、16秒の沈黙の後「やっぱり野球をやっていたので、プロ野球とか高校野球とか、野球関係でそういうことが多かったかなと思います」としみじみと話した。
楽天の田中将大が大好きだった。転校先で新しい野球仲間もどんどん増えて、やがて彼らと青春までも共有した。「夢中になれる時間があったおかげで、大変な時やつらい時も頑張れたと思うので。野球があって、野球をしていて良かったなと思います」。朗希は希望を、野球で伝える側になりたい。
亡き父は「将来はすごい選手になる」と予言し、小学校低学年の朗希にも強い球を投げた。心配して止める人を、祖母は「いいんだよ、あれで」と制した。全てが今につながる。年末も墓前で手を合わせた。大投手への道を歩んでも、心にはいつだって。
だから、プロ野球選手として上京しても、決して風化することはない。「3月11日は毎年特別な日だと思います」と、厳粛な思いで10度目の3・11を迎えた。我慢の時を経て、12日にはいよいよ実戦デビューをする。「諦めないで一生懸命頑張ることを、言葉だけじゃなくてプレーとかでも見せることができたら」。佐々木朗希だけの宿命がある。
ロッテ安田尚憲内野手に10打席ぶりの安打が出た。
5回無死一塁から楽天則本昂の125キロの変化球を右前打。この回の3得点につなげた。
続く6回も右前に運び「徐々にですけど良くなってくると思いますし、いい形のスイングをしっかり作って、継続して出せるように頑張りたい」と引き締めた。開幕まで残るオープン戦は9試合。レアードの調整遅れもあり、一気に“開幕三塁”を決めにいく。
ロッテが楽天松井、ブセニッツの救援陣から、打者15人で8安打5得点した。山口や和田、高部などの若手もしっかり捉え、井口資仁監督も「1軍でしっかり後ろで投げている投手をしっかり打てました」と満足げ。
「今週でほぼ1軍は決めようと思っているので、あと4試合ですか。どういう形でアピールしてくれるか楽しみです」とますますの熱気を期待していた。
ロッテ佐々木朗希投手(19)が10日、静岡でのオープン戦楽天戦の試合前にブルペン投球を行った。27球を投げた。
試合後に井口資仁監督(46)は、あらためて12日の中日戦(ZOZOマリン)で登板予定があることを明言。「結果でなくて自分本来の、ここまでやってきたものを出してくれればと思います」と期待していた。
東日本大震災の発生から10年。岩手・陸前高田市出身のロッテ・佐々木朗希投手(19)が10日、被災地に希望を与える活躍を誓った。自身は小学3年時に被災し、父・功太さん(享年37)と祖父母を失った。当時の支援に感謝し、12日の中日戦(ZOZOマリン)で、待望の実戦デビューを果たす。
3・11から10年。自身も東日本大震災の被災者だった佐々木朗が、胸にしまっていた思いを口にした。
「毎年、忘れることはなかった。3月11日は毎年、特別な日だなと思います」。
高田小3年の春。地震の直後に押し寄せた大津波で、父の功太さんと祖父母を失った。自宅も流され、老人ホームなどでの避難生活を余儀なくされた。小学4年のときに陸前高田市から母・陽子さんの親族がいる大船渡市に移り住んだ。
ロッテの佐々木朗希投手が10日、静岡市の静岡県草薙総合運動場野球場のブルペンで、プロ2年目で初の実戦登板に向けて27球の投球練習を行った。12日にZOZOマリンスタジアムで中日とのオープン戦に登板し、2番手で1イニングを投げる予定。
5日にはZOZOマリンスタジアムで実戦形式の練習で打撃投手を務め、最速152キロをマーク。変化球も交えて計35球を投げ、調子を上げている。井口監督は「結果ではなくて自分の本来の投球や、ここまでやってきたものを出してくれれば」と期待した。
ロッテの岩下が力のある直球を軸に4回2安打無失点と好投した。課題の立ち上がりに走者を背負いながらもテンポ良く打たせて取り「打者と勝負できたところは良かった」と収穫を口にした。
昨季7勝を挙げ、今季も先発ローテーション入りが有力視される。「正直、開幕何戦目でも変わりない。投げろと言われたところで投げようと。それに合わせて準備したい」と頼もしかった。
小学校3年時に岩手県陸前高田市で東日本大震災に被災したロッテ・佐々木朗希投手(19)は10日、少年時代の記憶を振り返った。父・功太さん(享年37)ら家族を津波で失ったが、大好きな野球をやることで勇気と希望をもらったという。絶対に風化させないとの思いを抱えながら、12日の中日とのオープン戦(ZOZOマリン)でリリーフとして、プロ初の実戦登板を果たす。
シャイで物静かな青年に育った。悲しみに耐えてきたからこそ、優しさも知る。今年11月で20歳。大人となった佐々木朗ならば、父・功太さんを亡くした9歳の朗希少年に、どんな言葉を掛けるのだろうか。
「あんまり、くさいことを言うのが好きじゃないので…。まあ、楽しいときは楽しんで、悲しむときは悲しんで…。好きなようにやっていいのかなって思いますね」。
一瞬だけほほ笑んで、昔の自分に語り掛けた。岩手県陸前高田市で生まれ育った。高田小3年のとき、小学校で被災した。津波から逃れようと、みんなで高台へと逃げた。避難所で兄弟3人で一夜を明かし、翌朝には母・陽子さんと再会できたが、自宅は流された。最愛の父と祖父母は津波にのみ込まれた。
やり切れないむなしさ。寂しさと悲しみを1人で抱え込むことも多かった。「ネガティブな性格なので、そういうときもあった」と打ち明ける。それでも、全てを忘れさせてくれるものがあった。
「野球しているときが1番楽しかった。夢中になれる時間というのがあったおかげで、大変だったとき、つらいときも頑張れた。野球をやっていて良かったなと思う」。
嬉しい思い出もある。
小3から野球を始め、楽天・田中将大に憧れた。球場に足を運び、田中将のユニホームも買った。13年11月3日、巨人との日本シリーズで田中将が9回を締めて日本一の胴上げ投手となった瞬間は、仮設住宅でテレビ観戦した。
「そのときは田中選手に憧れていたので、凄く勇気をもらったし、感動した」。偶然にも、この日が朗希少年にとって12歳の誕生日だった。
「10年前の僕は、たくさん人から支えられ、勇気や希望をもらいながら、頑張ることしかできなかった。今はその時とは違う立場にいる。今年は試合でたくさん投げて、たくさんの人に勇気や希望を届けることができるように頑張りたい」。
大船渡時代に高校野球史上最速163キロを計測。一瞬にして「時の人」となったが、それまでは震災の出来事を自ら明かすことはしなかった。ところが、プロ入りした昨年からは、自らの記憶を発信する。震災を知らない子供達も増えた。「やっぱり、経験していないので、伝えることは凄く難しい」と素直な思いを口にする。
一方で、「(子供が)理解するのは難しいと思うけど、そこを根気強く、知っている大人が向き合って伝えていくしかない」との持論も持つ。風化させる訳にはいかないのだ。プロで活躍すれば、自らの言葉も子供達に大きな影響を及ぼす。「いつ当たり前の日常がなくなるか分からない。それが怖いから、毎日感謝しながら一生懸命に生きる」。そんな実体験を伝えることも宿命なのだ。
「10年という節目だけど、僕にとっては毎年、忘れることはなかった。3月11日は毎年、特別な日なんです」。幼少期、キャッチボールをしてくれた父は「朗希は凄い!将来、プロになれる」と予言したという。12日の中日戦で、佐々木朗は2年目にして初めて実戦マウンドに上がる。
「一生懸命頑張るということを、言葉だけじゃなく、プレーでも見せることができたらいいなと思う」。
天国の父も楽しみにしていることだろう。
仙台の地でロッテ・佐々木朗の初登板を心待ちにする人がいる。同じ保育園、小学校、中学校に通い、別の高校に進学後も自主練習をともにした菊地広翔(ひろと)さん(19)だ。小3で野球を始めたときも、津波から必死に逃げたときも、そばにいた。
菊地さんが学校で算数のテストを受けていた時に教室は大きく揺れた。皆で校庭に待機したが、誰かが叫んだ「津波が来るぞ!」の一声でパニックに。菊地さんは学校付近の高台に駆け上がり助かった。泣き続けていると、他のクラスだった佐々木朗を見つけ「助かったんだ」と悟った。
小学校時代にはバッテリーを組んでいた。高校は大船渡東に進み、大船渡の佐々木朗と1度だけ対戦して3球三振。その親友を、あの夏ほど凄いと思ったことはない。19年7月24日。岩手県営球場で準決勝に臨んだ右腕は最速157キロの直球を軸に一関工を2安打完封。前日に電話で「見に行くよ」と約束した菊地さんは観客席にいた。「1番長く一緒にいて、1番よく知っていた朗希を尊敬してしまっていた」という。
昨年12月に菊地さんは関東に行く機会があり、高校卒業以来の再会を果たした。プロで1年を過ごした佐々木朗に「体が大きくなっていてびっくりした」。とはいえ、すぐに高校時代の恋愛話や、ともにファンであるアーティスト・あいみょんの話題で盛り上がった。野球の話も震災の話もしない。互いの全てを知っているから。
エールや励ましの言葉を送ったことはないが、今回は特別。「朗希も色んな思いを込めて投げると思う。頑張ってね、のメッセージだけ送りたい」。菊地さんは現在、仙台医健・スポーツ専門学校に通うが新しい夢もある。若い2人。寄り道しながらでも、一歩ずつ前に進めばいい。
ロッテの佐々木朗は10日、オープン戦が行われた静岡・草薙総合運動場野球場のブルペンで27球を投げて調整した。
投球後にはサブグラウンドで練習中の楽天・田中将の前を通ったが、会釈のみで言葉は交わさなかった。
井口監督は「(ブルペンは)見ていない。自分らしい投球をして欲しい」と、改めてエールを送っていた。
ロッテは6投手から16安打8得点。「6番・三塁」で先発した安田は、5回無死一塁で則本昂のスライダーを右前打するなど2安打。「徐々によくなっている」と手応えを口にした。
ドラフト3位・小川(国学院大)も則本昂から投手強襲の内野安打を放つなど、遊撃の定位置争いは激化。井口監督は「藤岡といい争いをしている。平沢も食らいついている。今週中には1軍メンバーを決めたい」と、うれしい悲鳴を上げた。
先発ローテーション入りを狙うロッテ・岩下が4回2安打無失点と好投した。それでも1、2回に2死から四球を与えたことから「力勝負して流れをつけたいと思っていたが、2死からの四球は自分にもチームにもよくない」と反省を忘れなかった。
開幕カードのソフトバンク戦、1戦目は二木、2戦目は美馬の先発が内定。本拠地開幕となる2カード目の楽天戦は1戦目の小島の先発が内定し、ローテーションの枠は埋まり始めた。7年目右腕は「正直、何戦目でも変わりない。先発に限らず、投げろと言われたところで準備したい」と、前を向いた。
楽天のエース・則本昂に4安打を浴びせて5回途中3点を奪った。終わってみれば6投手から16安打して8得点の大勝。オープン戦初のマルチ安打となる2安打を残した安田は「徐々に(打撃は)よくなっている。いい形を継続して頑張りたい」と、シーズン開幕に向けて引き締めた。
井口監督は「1軍で投げている投手をしっかり打てた。則本も何とか5回に打ち崩せた」と、圧勝に頬を緩めた。
ロッテの最速163キロ右腕・佐々木朗希投手(19)は震災当時、小学3年生。岩手県陸前高田市で被災し、父・功太さん(享年37)と祖父母を亡くした。野球のおかげでつらい時間も乗り越えられたという朗希は「今は勇気や希望を与える立場にある」と活躍を誓った。一問一答は下記の通り。
ロッテの最速163キロ右腕・佐々木朗希投手(19)は震災当時、小学3年生。岩手県陸前高田市で被災し、父・功太さん(享年37)と祖父母を亡くした。野球のおかげでつらい時間も乗り越えられたという朗希は「今は勇気や希望を与える立場にある」と活躍を誓った。
あの日から3654日。19歳になった朗希は静かに振り返った。「10年という節目ですけど、僕にとっては毎年忘れることはなかったので。特に10年目だからといって何かある訳じゃないですけど、3月11日は毎年特別な日だなと思います」。
2011年3月11日。当時小学3年の朗希は陸前高田市にある高田小で津波を経験した。高台に避難したため無事だったものの、自宅は津波で一瞬にして流され、父・功太さんと祖父母を亡くした。同市の犠牲者は行方不明者含め1750人以上。普通の生活が一瞬にして変わった。震災直後は母と兄弟、朗希の4人で、老人ホームでの避難所生活を余儀なくされた。「本当にいつ当たり前の日常がなくなるか分からない。それがすごい怖いなと思った。毎日に感謝しながら一生懸命生きていきたいと思う」と言葉を詰まらせた。
そんな朗希が唯一夢中になれたこと。それが野球だった。小学4年で母方の親族のいる大船渡に引っ越し、野球に没頭した。「やっぱり野球してる時が1番楽しかった。夢中になれる時間というのがあったおかげで、大変な時もつらい時も頑張れたと思う」。2013年の楽天の日本一にはくぎ付けになった。「その時は田中(将大)選手に憧れていたので、すごく勇気をもらいましたし、感動した記憶があります」。
大好きな野球とともに成長した少年は大船渡高3年の春には最速163キロをマーク。19年には4球団競合の末、ドラフト1位でロッテに入団した。「本当に野球があって、野球を知れてよかったなと思います」。その野球の楽しさを教えてくれたのは父だった。
「10年前の僕はたくさんの人から支えられ、勇気や希望をもらいながら頑張ることしかできなかったけど、今はその時とは違って勇気や希望を与える立場にあると思う」。9歳の少年は田中将のように日本中から注目される存在になった。そして、ついに“その瞬間”が訪れる。昨季は実戦登板なしに終わったものの、1年間の体作りを乗り越え、12日の中日戦(ZOZO)でプロ初実戦を迎える。この日もブルペンで27球を投げ、調整は順調だ。「何より諦めないで一生懸命頑張ることを言葉だけじゃなくてプレーでも見せることができたらと思います」。10年分の思いを胸に、夢のマウンドへ。1球1球に思いを乗せ、父、祖父母、そして東北へと届ける。
ロッテ・安田が則本昂打ちを果たすなど、オープン戦6試合目で初のマルチ安打。「徐々にですけど、形はよくはなってきている。いい形のヒットを継続して出していきたい」と気を引き締めた。
トンネルを抜ける一打は5回。初球の則本昂のチェンジアップを捉えて右前打。10打席ぶりの安打を放つと、続く6回にも牧田の初球カーブを捉えて右前打。積極打法で活路を開いた。
昨年は87試合で4番に座ったが、今季もその立場が確約された訳ではない。結果に苦しみ、打撃フォームを微妙に変えるなど試行錯誤が続く。井口監督は「練習の内容はよくなっている。開幕に向けて上げてくれればいい」。打率.150とまだまだ期待には及ばないが、復調の兆しは感じ取っている。
ロッテが楽天救援陣を攻略し、16安打8得点で快勝。本拠地開幕となる2カード目の楽天3連戦に向け、弾みのつく勝ち星となった。
7回はブセニッツ、8回は松井をつないで攻略。井口監督は「1軍で投げてくるピッチャーを打てましたのでね、そんなに、長打を打てる投手陣ではないのでしっかりつないでくれた」と納得した。
小技もきかせて相手投手陣を攻略。指揮官はドラフト3位・小川の好走塁を評価した。5回1死満塁では菅野が二飛。二塁手の黒川が体制を崩しながら背走キャッチ。浅い飛球も三塁走者の小川は本塁へ果敢にタッチアップし、ヘッドスライディングで1点をもぎ取った。井口監督は「試合勘を持っている選手。しっかりと戦力になってくれるなと思います」と喜んだ。
遊撃手争いについても「今、藤岡といい争いをしてくれていますし、そこに平沢も何とかくらいついてきていますので、最後までレギュラー争いをしてくれたら」と話した。
ロッテの佐々木朗希投手が、ZOZOマリンで行われる12日の中日戦デビュー戦に向けてブルペン入り。27球を投じ、当日に備えた。
1軍に帯同している佐々木朗はサブグラウンドで投球フォームの感触を確かめながら、キャッチボール。その後、本球場の室内ブルペンで投じた。井口監督は「初めての対外試合なので、ここまでやってきたことを出してくれれば」と、期待した。
「選手」から「コーチ」に肩書きが変わって3年目。ロッテ・大隣憲司2軍投手コーチは「いや〜、本当に選手の時の方が楽でしたね」と言うと、大きな笑みを浮かべた。
自分が最高のパフォーマンスを出せるように考えていた選手時代とは変わり、コーチとなった今は「2軍だけでも20人近くいる」という投手1人1人と向き合う毎日。「人それぞれ本当に違うので、色々な話をしながら、選手の状況を見ながら、『こういう指導の方がいいのかな』『こういう言い方の方がいいのかな』と探るのが本当に難しいですね」と話す。
12年のプロ生活のうち、11年をソフトバンクで過ごした。2012年に自己最多12勝を挙げると、翌年は第3回WBCメンバーに選出。だが、同年に黄色靱帯骨化症と診断され、手術を受けた。特定疾患から無事カムバックを遂げたが、故障に泣かされ、2017年のシーズン終了後に戦力外通告。12球団合同トライアウト、入団テストを経て、ロッテで再起に懸けた。
ロッテでは主に2軍で過ごし、1軍で投げたのは2試合。そのうちの1試合は、引退発表後に古巣ソフトバンク戦で投げた“引退登板”だった。「本当に怪我がたくさんあって、フルシーズン戦ったのは数えるほど」というキャリアに幕を下ろすと、飛び込んできたのはロッテからのコーチ就任の打診だった。
「プロで経験させてもらった色々な練習方法であったりを生かして、今の高校生や大学生に教えたら楽しそうだな、とは思っていましたけど、まさか自分がプロ野球でコーチをするとは想像もしていなかったです。だから、今でも1日1日勉強しながら、選手がいい方向に進めるように考えていこうという考え方ですね」。
指導者という立場となり、改めて感じるのは時代の変化だ。今年で37歳を迎える大隣コーチが中高生だった時代は、まだまだ昔ながらのスパルタ指導が色濃かった。だが、自分が受けた指導は今の若い選手達に通用しない。「教え方や言われ方が全然違う。だんだん変わってきたなと思いますね」と続ける。
「僕らの時みたいに『はいはい』と返事をする感じではなくて、自分の意見をちゃんと返してくる子が多いですよね。それはいいことだけど、間違っていることは間違っていると、しっかり言ってあげないと。ただ、その加減が難しいところ。今はどう伝えるか、どういう言い方がいいのか、それが大事だし、1人1人違うのが事実。自分がやらせたい方向や型にはめようとは思いませんけど、『こういうのはどうだ?』と話した時に、選手が『こうやりたいんです』と言った場合、柔軟な対応をしてあげたいと思います。そうしないと、結局選手が迷うだけ。そこは話をしながら、近すぎず、時には厳しく言えるような形を作っていきたいと思います」。
現役時代は泣かされ続けた怪我だが、その経験が今となっては指導者としての引き出しを増やしてくれた気がしている。野手に比べ、投手は故障が多い役割。怪我をした後、いかに這い上がれるかが、長くキャリアを続ける鍵でもある。
「僕はリハビリの時間が1番大事だと思うんですね。怪我をしたどうこうではなく、怪我をしてからリハビリの時間をどう過ごすかで、復帰してから結果が出るまでの時間を縮められると思っています。怪我をしたら落ち込むよりも、もう前を向くしかない。その時の状況をどう捉え、怪我の状況も考えながら、自分に何ができるのかを考える時間が大切。だから、キャンプ中も接する時間は短いんですけど、故障中の選手に話しかけにいったり、『この時間が大事やぞ』って伝えていました。本当に悔しい気持ちもあるだろうし、早く戻りたい焦りの気持ちもあるでしょう。そこを自分でコントロールしながら、今するべきことを考えられる選手になってもらいたいなと」。
選手にとっては、コーチが発する経験に基づく言葉は心強いに違いない。「そう思ってもらえるとありがたいですけど」と言うと、少し照れくさそうに笑った。
3年後、5年後と長期にわたり優勝争いができるチーム作りを目指すロッテ。その屋台骨を支える投手を育てるべく、選手に寄り添いながら指導を続ける。