10年間、指揮を執った札幌ドームでの戦いを終えると、栗山監督は「課題をつぶしていかないといけないところもたくさんある」と引き締めるように言った。
同時に、手応えも多く残った。「収穫もものすごく多かった。選手の特長が分かった」。打順や守備位置のバリエーションは確実に増えた。投手が抑え、先手を取る野球の“王道”をいけば勝てると再確認できた。
今後は本戦に向けた選手選考を本格化させる。メジャーリーガーや国内の代表経験者など、今回は入らなかった有力候補も多い。「最終的にはギリギリになると思うけど、ピッチャーは準備が必要。12月のどこかで(WBCの)ボールを渡してあげる」と投手陣への配慮を示した。
位置 | 選手 | 現所属 | 年齢 | 投打 | '17 W B C | '19 プ レ ミ ア | '21 東 京 五 輪 | '22 3 月 台 湾 戦 | '22 11 月 豪 州 戦 |
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投手 | 石川柊太 | ソフトバンク | 30 | 右右 | ○ | ||||
今永昇太 | DeNA | 29 | 左左 | ○ | ○ | ○ | |||
與座海人 | 西武 | 27 | 右右 | ○ | ○ | ||||
伊藤大海 | 日本ハム | 25 | 右左 | ○ | ○ | ||||
高橋奎二 | ヤクルト | 25 | 左左 | ○ | |||||
森浦大輔 | 広島 | 24 | 左左 | ○ | |||||
山崎颯一郎 | オリックス | 24 | 右右 | ○ | |||||
大勢 | 巨人 | 23 | 右右 | ○ | |||||
湯浅京己 | 阪神 | 23 | 右右 | ○ | |||||
戸郷翔征 | 巨人 | 22 | 右右 | ○ | ○ | ||||
佐々木朗希 | ロッテ | 21 | 右右 | ○ | ○ | ||||
宮城大弥 | オリックス | 21 | 左左 | ○ | ○ | ||||
高橋宏斗 | 中日 | 20 | 右右 | ○ | |||||
ダルビッシュ有 | パドレス | 36 | 右右 | ||||||
大野雄大 | 中日 | 34 | 左左 | ○ | ○ | ||||
田中将大 | 楽天 | 34 | 右右 | ○ | |||||
菅野智之 | 巨人 | 33 | 右右 | ○ | ※ | ||||
山崎康晃 | DeNA | 30 | 右右 | ○ | ○ | ||||
青柳晃洋 | 阪神 | 28 | 右右 | ○ | |||||
大谷翔平 | エンゼルス | 28 | 右左 | ※ | |||||
松井裕樹 | 楽天 | 27 | 左左 | ○ | ※ | ||||
栗林良吏 | 広島 | 26 | 右右 | ○ | ○ | ||||
山本由伸 | オリックス | 24 | 右右 | ○ | ○ | ||||
平良海馬 | 西武 | 22 | 右左 | ○ | |||||
捕手 | 中村悠平 | ヤクルト | 32 | 右右 | ○ | ○ | |||
甲斐拓也 | ソフトバンク | 30 | 右右 | ○ | ○ | ○ | ○ | ||
森友哉 | 西武 | 27 | 右左 | ○ | |||||
木下拓哉 | 中日 | 30 | 右右 | ○ | |||||
内野手 | 山田哲人 | ヤクルト | 30 | 右右 | ○ | ○ | ○ | ○ | |
源田壮亮 | 西武 | 29 | 右左 | ○ | ○ | ○ | |||
岡本和真 | 巨人 | 26 | 右右 | ○ | ○ | ||||
中野拓夢 | 阪神 | 26 | 右左 | ○ | |||||
牧秀悟 | DeNA | 24 | 右右 | ○ | ○ | ||||
村上宗隆 | ヤクルト | 22 | 右左 | ○ | ○ | ○ | |||
坂本勇人 | 巨人 | 33 | 右右 | ○ | ○ | ○ | |||
菊池涼介 | 広島 | 33 | 右右 | ○ | ○ | ○ | |||
浅村栄斗 | 楽天 | 31 | 右右 | ○ | ○ | ||||
今宮健太 | ソフトバンク | 31 | 右右 | ||||||
山川穂高 | 西武 | 30 | 右右 | ||||||
外野手 | 近藤健介 | 日本ハム | 29 | 右右 | ○ | ○ | ○ | ||
塩見泰隆 | アyクルト | 29 | 右右 | ○ | ○ | ||||
近本光司 | 阪神 | 28 | 左左 | ○ | ○ | ||||
西川龍馬 | 広島 | 27 | 右左 | ○ | ○ | ||||
周東右京 | ソフトバンク | 26 | 右左 | ○ | ○ | ||||
佐藤輝明 | 阪神 | 23 | 右左 | ○ | ○ | ||||
柳田悠岐 | ソフトバンク | 34 | 右左 | ○ | |||||
吉田正尚 | オリックス | 29 | 右左 | ○ | ○ | ||||
鈴木誠也 | カブス | 28 | 右右 | ○ | ○ | ○ |
※は自体。台湾戦はコロナ拡大で中止。
あれは1990年8月末だった。当時、プロ野球の遊軍記者だった私は、ゲームのないロッテの本拠地・川崎球場にいた。狙いは「村田兆治引退」のニュースだった。このシーズンもすでに2ケタ近い勝ち星をあげてはいた。だが、こだわり続ける「先発完投」が激減していたことから、あの性格ならやめるのでは、と思ったからだ。
調整練習を終えた兆治さんと、ようやく2人きりになれたのは駐車場で愛車に乗り込む寸前だった。
「どうした?三浦」の問いかけに「はっきり言います。兆治さんの引退を書くつもりで来ました」と返した。
「そうか。お前、書く自信はあるか?」と聞かれ、焦りながら「あるからここにいます」と返した。
「分かった。ならあとはお前に任せる。じゃあな」とだけ言って走り去った。
翌日の1面で「村田兆治引退」が掲載された。朝早く、その紙面を抱えて自宅のある成城に向かった。「このように書かせてもらいました」と新聞を差し出した。
読み終えた兆治さんはニャッと笑った。「よし、これでいいよ。お疲れさんだったな」。それだけのやりとりだったが、これこそが村田兆治たる所以なんだな、と強く感じたことを思い出す。
86年シーズン、ロッテの番記者を務めた。打は落合、投は村田が大看板だった。近寄りがたい雰囲気を醸し出しながらも、飛び込むほどに胸襟を開いてくれた。ブルペンでの投球練習の際には「ちょっと立ってみるか?」と言って、打席に入れてくれたりもした。一旦心を開けば、どんな時でも真正面から受け止める。4年経っても、相変わらず真っ正直で一本気な兆治さんがそこにいた。
引退後は、兆治さんが提唱者となった「全国離島交流中学生野球大会(離島甲子園)」の運営なども手伝わせてもらうなど、長いお付き合いをさせてもらった。
今年8月25日には、私が住んでいる佐渡島(新潟)で開催された離島甲子園大会のために来島した兆治さんと久々に会うことができた。
羽田空港での暴行容疑によって逮捕された後の10月1日には、突然の電話がかかってきた。保安検査所の女性係官への謝意や、暴行の意図はなかったことなどやりきれない気持ちばかりが伝わってきた。その最後の方だった。「自分も年をくってきたし、そろそろ今の家を処分して、マンション暮らしを始めることを考えているんだよ」。
それなのに、こんな最期になってしまうなんて。合掌。
阪神岡田彰布監督が村田兆治さんを悼んだ。訃報に驚きながら「これまで対戦した中では(フォークが)1番落ちてたんちゃうかな。三振したよ。屈伸の見送りやったと思う」と当時を回想した。プロ2年目の81年、神宮での球宴第3戦で初対戦。高めから落ちてきたフォークの軌道に、思わず屈伸するような形で見逃し三振を喫したという。交流戦もなくオープン戦も機会が少なかった時代。「(対戦は)オールスターだけだったんちゃうかな」と、真剣勝負が楽しみな投手だった。
引退後もモルツ球団のイベントで一緒にプレー。「やったやった。(引退してかなりたつのに球速が)140(キロ)くらい投げとったもんな」。健在だったマサカリ投法を思い返し、村田さんをしのんだ。
ロッテ吉井理人監督(57)が11日、投手コーチを務めた侍ジャパン強化試合の日程を終え、ZOZOマリンでの秋季練習に参加した。
強化試合4試合とその練習を振り返り「すごいです。あそこで選ばれてるメンバーはパフォーマンスもそうですけど、練習の取り組み方とか一流の選手が集まったって感じですね」と選手達をたたえ「朗希もいいの、見られたんじゃないですかね」と、ロッテから唯一参加した佐々木朗希投手(21)に触れた。
佐々木朗は10日のオーストラリア戦(札幌ドーム)に先発し、4回無失点だった。フォークが乱れた場面については「朗希の場合は滑るというよりも、ボールとロジンの相性が悪かったみたいで、逆にひっつきすぎるみたいなことを言ってました」と明かしつつ「やっぱり投げてるボールはすごいので、あれで慣れてくれれば戦力になるなという風には思ってみていました」と、来年3月のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)日本代表候補の1人として期待を高めていた。
ロッテは11日、球団OBの村田兆治さんの訃報に際し、本拠地ZOZOマリンに半旗を掲げた。侍ジャパン帯同から戻った吉井理人監督(57)も含め、秋季練習中にしめやかに黙祷を行った。
吉井監督は「素晴らしい、尊敬する野球人だと思っていたので、すごく残念に思いました」と、お悔やみを口にした。88年の近鉄時代の球宴で「一緒に練習しよう」と声を掛けられた。「すごく練習させられました。ポール間をガーッて走らされて、腹筋1000回くらいやらされて」と笑い「これくらい練習しないと一流になれないんだなと感じました」と回想した。
小野晋吾1軍投手コーチ(47)は「悲しいですね…」と声を落とした。村田さんの代名詞の背番号29を、プロ8年目の01年から付けた。日曜日の登板が多く“サンデー兆治”と呼ばれた大先輩にならい“サンデー晋吾”と呼ばれた。「おこがましいんですけれど、そう呼ばれるようになって。背番号を汚さないようにやっていました」。14年に29番を託した西野にも「この球団の29番は特別な番号だから、とにかく長く背負えるように頑張って欲しい」と伝えたという。それぞれが思いを背負い、来季へ向かう。
「マサカリ投法」で一時代を築いた名投手が天国に旅立った。ロッテ一筋で通算215勝を挙げた元投手の村田兆治さんが11日、亡くなった。72歳だった。独特のフォームで74年日本一の原動力になり、代名詞のフォークも武器に名球会まで駆け上がった。83年にはまだ珍しかった靱帯再建術(通称トミー・ジョン手術)で右肘にメスを入れ、本格復帰した85年は日曜日ごとに先発登板する「サンデー兆治」で開幕11連勝を飾った。日本選手では同手術初の成功例とされ、選手生命を伸ばす先駆けとなった。引退後も節制とトレーニングで体調管理を怠らず、還暦を迎えても130キロを超す速球でファンを魅了。ロッテの元エースで公私とも親しかった木樽正明氏(75)が、後輩との早すぎる別れを悲しんだ。
同じくロッテ一筋で112勝を挙げた木樽氏は、弟分の急逝に耳を疑った。「彼は2歳年下で、トレーニング、食事、遠征やキャンプの部屋まで一緒でした。私に弟はいませんが、本当に弟のような存在でした」と悲しんだ。
ともに高卒でロッテ入りし、自身の3年目にドラフト1位で村田氏が入団した。当時の植村投手コーチから「面倒をみてくれ」と頼まれ、自主トレから常に行動をともにした。「球は速かったですよ。でもコントロールがね」。腰痛を抱えた69年はブルペン起用が主だったが15勝を挙げ、最優秀防御率も獲得した。2年目の村田氏は同年に1軍定着もリーグ最多の80四球。先発しても制球難で崩れることが多く、「火消し」を任された木樽氏が「オレを壊す気か!」と何度も口にした冗談には、本音も入っていた。
制球難解消の切り札が、「マサカリ投法」だった。木樽氏は誕生の瞬間を鮮明に覚えている。71年頃、同部屋だった遠征先の旅館で就寝中に起こされた。村田氏は「ひらめきました」と浴衣のまま布団をまくり、畳の上で一心不乱にシャドーピッチングを始めた。新フォームを最初に披露された木樽氏の第一声は、「かっこ悪いぞ」だった。
それでも「見たことのない投げ方で、本人のオリジナルだと思う。体が早く開くの抑えるため、たどり着いた結論。『やってみればいい』と。技術的なことは言わなかった」と背中を押し、努力を重ねる姿を静かに見守った。「強い下半身と柔軟性がないとできない。猛練習の男だからできた」と、同71年はともに先発ローテーションに定着。74年日本シリーズでは、先発の両輪として24年ぶりVをつかんだ。
コーチでは右肘手術のリハビリに立ち会った。85年1月の自主トレでは沖縄にバッテリー組が集まり、2軍投手コーチでキャッチボールを手伝った。距離は30メートル以内に制限されていたが、「投げたくて仕方ないから離れようとする。また痛めたら大変」と、フェンスで動けなくなるまで後を追った。同年の村田氏は開幕11連勝と完全復活した。
猛練習のイメージが強い村田氏だが、入団当初は腹筋も背筋も満足にできなかったという。両手にダンベルを持って軽々と両メニューをこなす木樽氏の横で、村田氏は涙を流して苦闘する毎日だった。「自分にも厳しい男でしたから、それからの練習は努力家そのものでした」と懐かしんだ。
最後に会ったには今年6月12日。コロナ禍で3年越しの開催となった著書の出版記念イベントに声をかけると、「木樽さんのためなら」と千葉・銚子まで駆けつけた。「ああいうキャラクターです。お客さんを大いに喜ばせてくれました」。夜は自宅で歓待し、思い出話に花を咲かせた。「それが最後になるとは。家族ぐるみの付き合いでしたから。家内も悲しんでいます」と、永遠の別れを残念がった。
マサカリ投法で知られる、プロ野球元ロッテ投手として活躍した村田兆治さん(72)が11日に亡くなった。日刊スポーツ評論家の梨田昌孝氏(69)が近鉄の現役時代にバッテリーを組んだオールスターゲームの秘話を明かし、故人を悼んだ。
朝のニュースで知り、何とか命だけでもと思ったが、亡くなられて、ものすごくショックだった。
現役時代に、村田さんのフォーク、スライダー、真っ直ぐという3種類の球種で、ロッテの捕手がパスボールしていた。なぜ後ろにそらすのだろう、と疑問を感じて、受けてみたくなった。
プロ8年目の昭和54年(79年)にオールスターに出させてもらい、村田さんとバッテリーを組むことができた。私は初めての出場で緊張もあったが、もっとうまくなりたいという気持ちがあった。「ノーサインでお願いします」と言うと、けんもほろろに「ナシ、恥をかくよ、やめとけ。オレのボールを簡単に受けられるか」と返された。その時は、ランナーが出るまでノーサイン、出たらサイン出そうという話になった。無事に終わり、翌年のオールスターでまたバッテリーを組むことができた。運命を感じたよ。再びノーサインでお願いすると、「いいよ」と二つ返事でOKしてくれた。試合後に「ナシ、すごいな。オレの球をノーサインで受けた。日本一だ」という言葉をもらった。それがすごく自信になり、成長につながった。
実際に受けた「マサカリ投法」はすごいの一言だった。左足を高く上げて、お尻が捕手の方に迫ってくる。どんな球が来るんだろう、と打者はもちろん、捕手でも恐怖だったよ。あのダイナミックさに、「これや」と思いながら、夏の暑い時に汗をびっしょりかきながら、受けさせてもらった。
私の方が引退が早かったので、解説者として、村田さんをインタビューする機会があった。その時、ボールを持ってきて、人差し指と中指で握り、「ナシ、これを外せ。取ってみろ」。片手では全然取れないので、「無理ですよ」と言うと、「両手で取れ」と。それでも取れない。「すごい握力ですね」と驚くと、「フォークがなければ、この世界で生きていけない」とね。グラスを持つ時に、人差し指と中指で挟んで飲んだり、寝る前にボールを挟んだまま、包帯でぐるぐる巻きにしたり、すごく努力したという話を聞いた。こだわりのある人だった。
私にとって、村田さんはキャッチングの恩人。突然の訃報はショックだし、残念です。ご冥福をお祈りします。
マサカリ投法で知られる、プロ野球元ロッテ投手として活躍した村田兆治さん(72)が11日午前5時57分に亡くなった。警視庁によると、東京都世田谷区の住宅火災で搬送され、この家に住む村田さんと確認された。
兆治の訃報を聞いた瞬間、大きなショックを受けて身動きがとれなかった。あまりに突然の出来事に「一体どうしたんだ、兆治?」とぼう然とするしかありませんでした。
私が2つ年上で、プロ入りは兆治が1年先の同世代です。常に私を意識していたし、ロッテのエースとして強い阪急を倒すことに執念を燃やしていた、反骨心の塊のような一流投手でした。
1986年(昭61)4月6日、私の12年連続開幕投手が川崎球場でのロッテ戦で、兆治とお互いが2日間雨でスライド登板になった。結局私が完投勝ちを収めるのですが、常に好敵手でした。
性格は一本気で、自分が決めた道はひたすら進むタイプです。当初はボールは速いけどコントロールのつかない自滅型。でも独自に編み出した「マサカリ投法」は傑作で、フォークを操りながら勝てる投手に生まれ変わりました。
右肘のトミー・ジョン手術後は、スライダーを習得して復活。その後の「カムバック賞」が物語っているように、速球派投手に制球力がついて再び息を吹き返したのです。
前からタバコをやめていたし、体にも気をつけていたはずです。ストレートすぎるから、仲間内でも衝突することはあったけど、周囲は兆治の性格を知ってるから事態が大きくならなかったものです。
沢村賞の選考委員も辞退していたので、少し気になっていた矢先です。同じパ・リーグに生き、ライバル心をむき出しにし、時代を戦い抜いた大切な後輩でした。これが兆治との永遠の別れになってしまうのは、あまりにもつらすぎます。
ロッテOBで早大野球部監督の小宮山悟氏(57)が、亡くなった村田兆治氏を悼んだ。
入団1年目の90年が、村田氏の現役最終年だった。最初に言葉をかわしたのは、1月の合同自主トレの時だった。
「川崎球場でした。村田さんは参加してませんでしたが、たまたまいらっしゃって。挨拶に行ったら『頑張ってくれよ。(スカウトの)醍醐さんから話は聞いている。とにかく期待しているから頑張れよ』と声をかけてもらって、感激したのを覚えてます」。
1年目から同じ先発投手として行動をともにすることが多かった。
「地方での試合が多くて、山形で試合があって、翌日は仙台なんてスケジュールが結構ありました。その時、2人とも登板予定がないと、山形から一山、二山越えて、チームとは別に先にタクシーで移動する。村田さんとご一緒させられることが多かった。車内で音を立てると怒られるんです。会話は必要最低限。運転手さんもラジオを切った。しかも、村田さんはクーラーが一切ダメで『自然の風だ』と言って、窓を開けて走らされる。私は内心『おい、おい、おい』と思ってました。ちょっとでもリラックスした姿勢を見せたら怒られるから、前に重心をかけながらね。かなりの地獄でした」。
そう言って、懐かしんだ。「頑固な人でしたけど、本当に優しくしてもらいました」。小宮山氏の登板翌日には「昨日は良かったな」「あそこで、あの球はダメだぞ」などとアドバイスをもらうことも多かったという。
その年、村田氏は2ケタ10勝を挙げながら現役を引退した。その姿が、ルーキーだった小宮山氏には強烈な印象として刻まれた。
「村田さんの生き様というのかな。それは勉強になりました。意地を張って、自分のプライドを守るために頑張る姿というか。プロはこうじゃなきゃいけないんだと」。
ただ、こうも思った。
「何で、この成績で辞めちゃうんだ。もったいないと。私の中では、余力を残して、というのはちょっと違うと感じました」。
小宮山氏は2浪して大学に入ったため、他の大卒ルーキーよりも年を取っていた。そのため、醍醐スカウトに「年齢がいってからのプロ入りですから、長くやる気持ちは、さらさらありません。短命で構わない。燃え尽きようと思います」と話していたという。
「村田さんの引退を見たとき、やれるんだったら、とことんやらなきゃダメだと思いました。いい意味での鏡ですから」。
小宮山氏は44歳まで現役を続けた。
突然の別れを知り、何度も「本当に優しくしてもらいました」と繰り返した小宮山氏。「何て言ったらいいのか。ロッテの大エースと言っていい。本当、残念です」と悼んだ。
ロッテOBの村田兆治さん(72)が11日、亡くなった。多くの人が衝撃を受けた。福沢洋一さん(55)もその1人だ。「ニュースを見て、ビックリして。言葉にならなかったです」と言葉を絞り出した。
一呼吸置いて、じわじわと記憶が明瞭になっていく。「2年目に開幕戦でバッテリーを組ませてもらった時がフラッシュバックしました」と振り返った。
1990年(平2)4月7日、大阪の夜を福沢さんは忘れもしない。88年ドラフト外で入団し、強肩捕手として2年目の開幕ベンチを勝ち取っていた。オリックスとの開幕戦を翌日に控え、福沢さんは村田さんに食事に誘われた。
「2人っきりで。何だろうなとドキドキして。ドキドキと嬉しさが交差する感じでしたね」。
ステーキを前にして、当時40歳の村田さんから突然、告げられた。
「明日、頼むから」。
金田新監督からも全く聞いていなかった開幕スタメンマスクを、18歳年上の大先輩から直接、面と向かって通知された。ドキドキは最高潮。「ステーキの味も覚えていないくらいで」。その後はゆっくりと野球談議を交わした。
翌日の開幕戦は8番捕手でフル出場。1失点完投に導き、大ベテランの信頼を勝ち取った。バッテリーを組むようになって、さらにとことん鍛えられた。
「直球の威力は見たことないし、フォークは見たことないところでワンバウンドしてましたね。それを『止めろ、止めろ』と。ベース板の何メートル前でバウンドしても『止めろ』と。それくらい厳しく言われましたね」。
村田さんは試合に入り込むタイプだったという。そこに合わせる。「顔色を見ながら。スイッチ入った時はすごい球を投げてくるので」。必死に捕り続け、技術も磨かれていった。
福沢さんは03年に現役引退し、他球団も含めてコーチや2軍監督を経験し、19年からは古巣でスカウトを務めている。村田さんのオリオンズ時代から、ロッテに受け継がれているものはあるのだろうか。
「いいのか悪いのか別として、投手同士で本来だと教え合ったりはないんですけど、結構こうだよああだよとアドバイスを送ることが多かったんですよ。でも教えても、そう簡単にできることではない。『オレ、それ以上頑張るから抜けないよ』というような伝統がありました」。
協調しながら、高め合う。自身がスカウトとして担当した高部瑛斗外野手(24)や佐藤奨真投手(24)らもそうやって、立派な1軍戦力に成長した。
訃報に接したこの日午後、福沢さんは神宮球場のスタンドにいた。ドラフト1位指名した専大・菊地吏玖投手(22)の投球を熱心に見守った。村田さんの思い、ロッテの伝統を未来へつなぐべく、全国を駆け回る。
国民民主党の前原誠司代表代行(60)が11日、ツイッターを更新し、村田兆治さんの死去を受け、思いをつづった。
「私は村田兆治投手が大好きで、高校・大学と野球部に所属しましたが、ピッチャーとしてフォークボールを習得したのは、村田投手の影響です」。
接点は国土交通大臣だった時だという。
「憧れの方とは一度だけ、鹿児島県種子島でお会いしました。私が国土交通大臣として「全国離島交流中学生野球大会」(離島甲子園)の激励に伺った時、そもそも離島甲子園を提唱され、サポートをずっとされていた村田兆治さんとお会いしました」。
その時にもらったというサインボールも動画で紹介した。
「とても嬉しくて、ずっと国会の自室に飾っておりました。書かれていた言葉は「人生先発完投」。まさに村田兆治投手の「生き様」を表すお言葉だと受け止めました」。
最後に「突然の訃報。残念でなりません。プロ野球通算215勝の大エース、村田兆治さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます」と悼んだ。
マサカリ投法で知られる、プロ野球元ロッテ投手として活躍した村田兆治さん(72)が11日午前5時57分に亡くなった。警視庁によると、東京都世田谷区の住宅火災で搬送され、この家に住む村田さんと確認された。死因は煙を吸ったことによる一酸化炭素(CO)中毒とみられる。
人を見極める「コントロール」は、剛速球に勝るとも劣らない魅力だった。村田兆治さんとは15年ほど前に、弊社が後援する講演会で講師をお願いした。会場は地方の中学校。村田さんは懐に硬球をしのばせている。何に使うんだろう。
ステージに上がった村田さんは、努力の大切さやチームワークの重要性を説き始めた。とはいえ聴いているのは中学生である。私語が始まり、少し会場がざわついた。すると村田さんが大声を出した。
「おい、そこの君。立ちなさい。今から私が、150キロの速球を投げる」。
指差しされた男子生徒が、おずおずと立ち上がる。村田さんは先ほどの硬球をおもむろに取り出し、往年のフォームでふりかぶった。悲鳴、そして絶叫。生徒や教職員、保護者らを合わせ、数百人の会場は騒然となった。歴戦の強打者達を恐怖に陥れた、あのマサカリ投法で第1球!
村田さんが投じたのは…山なりの遅い球だった。フワ〜ッという、締まりのない音さえ聞こえてきそうな。もちろん、立たされた中学生は難なく素手でキャッチ。会場には安堵の空気が流れ、笑いに包まれた。再開後の講演では、お喋りする中学生は全くいなくなった。
その後で、教職員の方々が口々に驚いていた。
「村田さんがあの子を選んでボールを受けさせたのには、びっくりしました。クラスでも中心的な存在で、彼に影響されてクラスの雰囲気が変わったりすることが多いんです。瞬時にムードメーカーを見つけて、ああいった行動をなさるなんて」。
大ケガを乗り越え、積み重ねた215勝。剛速球のイメージが強い名投手は、目配りと瞬時の判断力を併せ持った人物だった。
ソフトバンク王貞治球団会長兼特別チームアドバイザー(82)が11日、マサカリ投法で知られ、プロ野球元ロッテ投手として活躍した村田兆治さん(72)が同日に亡くなったことについてコメントを寄せた。
球団を通じて「ホークス監督時代に3年間一緒にやってくれましたが、随分と苦労をかけてしまった。最近でも離島の子供達に元気に野球を指導していたので、まさかこんなことになるとは思わなかった。ご冥福をお祈りします」と悼んだ。
王会長と村田兆治さんは、ダイエー時代の95〜97年に監督と1軍投手コーチという間柄だった。
2010年の初夏、当時広告営業部員だった記者は、離島出身の上司から命じられた。村田兆治さんが提唱する、全国の離島中学球児による野球大会「離島甲子園」に協力することが決まり、同大会に関する紙面作りなどを担当することになったのだ。
同年(第3回)の開催地は、鹿児島・種子島。鹿児島県内で記者発表や野球教室を開催すると聞いて、すぐに鹿児島に飛んだ。村田さんへの顔合わせとともに、協賛者(社)も紹介してもらった。紙面化に向けて、協賛者に営業もかけた。村田さんにも、その旨を説明した「はず」だったが、「そんなつもりで、俺は紹介したんじゃないぞ!」と当初はよく怒られた。
後から考えれば、しっかりと筋が通っていないやり方をしていた。説明不足もあった。村田さんにも、真正面からぶつかっていなかった。言葉こそ多くないが、そのことをまだ20代半ばの若造に、教えてくれていた。いつしか、大会が終わる度に「ありがとな」と声をかけてくれるようになった。
村田さんにとって、引退後のライフワークの中心ともいえたのが「離島」での活動だった。「離島甲子園」が実現したのも、長年にわたって足を運んでいたからこそ。その思いをいつも聞かせてくれた。そして何より、子供達に対しても「本気」だった。
「本物を見せるのが1番なんだ」。180度の開脚でストレッチもほどほどに、還暦を過ぎても、130キロ台のキレのある速球で、子供達と「対戦」するのが野球教室でも恒例だった。こちらからすると名球会の大投手。子供達からすると「おじいちゃん」だったかもしれないが、時には自慢の速球を打ち返され、「もう1球だ!」とさらに速いストレートを投げ込んだり、代名詞だったフォークを投げ込む情熱に、子供達も感化されていくのは手に取るように分かった。
第6回の長崎・壱岐大会まで担当した。サインを求められれば、必ず「人生先発完投」と添えたが、「責任を最後まで果たす」ことなのだとも教わった。途中、メディアの部署に立場が変わった時も「サラリーマンだから異動はある。そこでどう頑張るかだ」と言葉をもらったこともあった。マウンドに上がればうまくいくこともあれば、ピンチを招くこともある。最近は「ピンチ」だったかもしれない。あの村田さんが、どう切り抜けていくのか。まだまだその背中を見せて欲しかった。
マサカリ投法で知られる、プロ野球元ロッテ投手として活躍した村田兆治さん(72)が11日になくなった。現役時代にチームメートだったレオン・リー氏(69)は日本プロ野球外国人OB選手会を通じてコメントを発表した。
「兆治さんは、我々リー兄弟とともにプレーしたチームメート。今日の突然の訃報に大変驚いている。彼とは、5年ともにロッテでプレーし数多くの思い出があった、つい最近のように思い出す。今までは、コロナで渡航は難しかった。来年度はロッテの同窓会を企画してもらい、兄弟で来日しようと思っていたので大変残念だ。彼の野球界での経歴は素晴らしい。引退後も野球界への貢献活動を継続されていた事を尊敬する。72歳の生涯は短すぎだ。ご冥福をお祈り致します」(78〜82年ロッテ野手)
マサカリ投法で知られる、プロ野球元ロッテ投手として活躍した村田兆治さん(72)が11日午前5時57分に亡くなった。死因は一酸化炭素中毒とみられる。
ソフトバンク藤本博史監督(59)は、現役だったダイエー(現ソフトバンク)時代の95〜97年に、選手と1軍投手コーチという間柄だった。宮崎秋季キャンプ休日のこの日、オンライン取材に応じ「急に亡くなったと聞いて、『えっ…』と思いました。ダイエーの時、村田さんはピッチングコーチで僕は選手。監督は王会長でした。その時に村田さんはピッチャーの方を見ていたけど、(野手の)僕はよく声をかけてもらいました。すごく寂しいです」と、悲しんだ。
藤本監督が試合に出られない時期には「腐るなよ」と励まされたこともあった。「僕も昭和の人ですが、僕以上に昭和の男気のある人だったなと思います。僕が現役時代はピッチングコーチがたくさんいましたけど、その中でも1番お世話になって、1番声をかけてもらったコーチでした」と回顧していた。
マサカリ投法で知られる、プロ野球元ロッテ投手として活躍した村田兆治さん(72)が11日に亡くなった。
チームメートだった西村徳文氏(62)も、突然の訃報に驚いた。
「ニュースで知り驚いています。『オリオンズ』のユニホーム姿の映像が流れると切なくて…。
村田さんには本当に良くしていただき、私がレギュラーになれたのも村田さんの厳しい教えがあったからだと思っています。82年に入団した年に、村田さんが故障され、84年にカムバックされた時に後ろで守らせてもらいました。
ご自身がめちゃくちゃ練習する方だったので、練習しない選手には厳しくて、エラーをすると『しっかり守れ』と怒鳴っていました。私は、自分で言うのも何ですが、練習だけは一生懸命やっていたので、私がセカンドでエラーした時には『お前はいいんだ。声を出してしっかり盛り上げてくれ』と接してくれました。そういう言葉1つ1つがありがたくて、より練習にも身が入りました。
食にも厳しい方でした。遠征中に軽食やお菓子を買って、夜宿舎に帰ってくると、『食材や油などきちんとしたものを選んで食べろ』と怒られました。一流選手の体作りや練習に対する姿勢を間近で勉強させていただきました。僕にはそれが良かったんだと思います。そういう方がいなかったら甘えていたでしょう。
私がロッテの監督を終わってから3年間は、離島での野球教室に参加させていただきました。子供達にも礼儀や大きな声での挨拶など、野球だけでなく教育にも一生懸命に取り組まれていました。20年にオリックスの監督を辞める時には『ご苦労さん。また野球教室で手伝ってもらうから頼むな』と言っていただいたのが最後でした。お世話になった先輩なので、本当にショックです」(82〜97年ロッテ野手、98〜12年ロッテ監督、16〜20年オリックス監督=西村徳文)
ロッテの秋季練習にテスト生として参加中の2投手が11日、ZOZOマリンで打撃投手を務めた。
元オリックスで、今季はBC・新潟でプレーした吉田一将投手(33)が先に登板。山本に右中間フェンス直撃打を浴び、藤原には強い打球を2本打たれたが、松川は見逃し三振に。この日の最速は145キロだった。
ロッテや阪神でプレーし、今季BC・栃木に所属した高野圭佑投手(30)は内角を攻めながら山本、松川、和田と3者連続で詰まらせた(山本は安打)。四球も出したが、150キロ台も3球マーク。藤原を152キロで空振りさせた。
ネット裏では吉井理人監督(57)、黒木知宏投手コーチ(48)、小野晋吾投手コーチ(47)がチェック。吉井監督は「高野は勢い、強いボール。吉田はしっかり丁寧にコントロールして低めに投げていたので。今日ちょっと変化球浮いてましたけどね。2人とも特徴は出してくれたと思っています」と一定の評価。2人の合否については「今いるメンバーで構成の絡みで、みんなで判断していきたいと思っています」と即断はしなかった。
ロッテ吉井理人監督(57)が11日、この日72歳で逝去した球団OBの村田兆治氏について「素晴らしい、尊敬する野球人だと思っていたので、今日こういう感じでニュースを知るのはすごく残念に思いました」と声を落とした。
この日朝、侍ジャパンで訪れた札幌から千葉へ戻り、ZOZOマリンでの秋季練習に参加し、報道対応した。村田さんの印象を問われると「トミー・ジョン(手術)第1号という、その印象が。自分も若い時にトミー・ジョンを勧められたんですけど、村田兆治さんのリハビリを見ていると、あんなにできる自信がなかったので僕はやらなかったですけど。復帰するのに2年くらいかかったんですかね。あそこまで根気よくリハビリをする勇気は自分にはなかったですね」と話した。
近鉄時代の88年、オールスター出場時に村田さんの方から話し掛けられたという。「一緒に練習しよう、って。すごい練習させられましたよ。ポール間をガーッていっぱい走らされて、腹筋1000回くらいやらされて。そのあとオールスター明け1週間くらい、調子悪かったので覚えてるんですけど」と笑いながら「これくらい練習しないと、一流になれないんだなというのは感じました」と当時を振り返っていた。
中日立浪和義監督(53)は11日、ドミニカ共和国で行われているウインター・リーグ視察のため、桂川通訳兼国際渉外担当、元渉外担当の大塚投手コーチとともに出国した。
現地では先に帰国しているルイス通訳兼国際渉外担当らと合流し新外国人大砲、投手候補などを22日まで視察予定。また出国直前に元ロッテ投手村田兆治さん(72)の訃報には、「突然の訃報に驚いています。野球に対して素晴らしい向き合い方をされていましたし、憧れでもありました。このような形でお亡くなりになり残念です。ご冥福をお祈りいたします」とコメントを発表した。
10年ほど前だった。大手の広告代理店から野球イベントの出演依頼があった。規模、スポンサー、そして出演料と文句のないオファーだった。都内の喫茶店で説明を聞き終えた兆治さんは、即決で出演を断った。「時間がない」が理由だった。「ユニホームを着て、マウンドで投げるには体作りから始まって準備がある。このイベントの開催日には調整が間に合わない」と言った。この時点でイベント開催日まで約3週間があったにもかかわらず、だ。もう還暦を過ぎていた時に。
イベント出演、始球式と引退後も年齢を感じさせない球速を披露。「50歳を過ぎて何キロが出る?」が注目されることは分かっている。1球にも準備を重ね、手を抜かない、いや抜けなかった。「そこそこ」「それなり」ができなかった。89年に通算200勝達成を控え、取材したご家族は「昭和生まれの明治男ですから」とその頑固で、あまりにストイックな姿を笑って話していた。
右肘トミー・ジョン手術から復活した先駆けになった。同じ手術を受け、悩む多くの投手が先駆者の話を聞きに来た。「(医師に)大丈夫と言われても、怖くて最後の(全力投球へ)踏ん切りがつかない」という投手に、「痛いんだよ。決まってるだろう。1球投げるごとに指先までビリビリ痛む。投げたいと思えば、我慢するんだよ」。その痛みを自ら口に、いい訳にしたことはない。消炎剤、痛み止めなどの副作用か、現役終盤は唇の周囲には多くの吹き出物が痛みを代弁していた。
明治男が顔をくしゃくしゃにしたことがあった。「王さんから投手コーチの打診を受けたよ」。喜びは我慢はできなかった。まだ夏。王貞治氏の去就のウワサが全く出ていない時期。“極秘事項”を嬉しそうに話した(その後、「王ダイエー監督」は日刊スポーツのスクープになったが…)。
サインには「人生先発完投」を添えてきた。順風満帆の野球人生ではなかったが、まさかの「降板」にはなってしまった。
ロッテ小野晋吾1軍投手コーチ(47)が11日、この日、72歳で逝去した球団OBの村田兆治氏について「悲しいですね…」と言葉を重くした。
この日も秋季練習でZOZOマリンを訪れた。「いや、もう、突然の悲報というか、ちょうど球場着いた時にそのニュースを知ったので、ほんと、言葉がないというか」と言葉を選ぶように話した。
村田氏が現役時代につけた背番号29を背負い、村田氏と同じように日曜日に投げることが多く「サンデー晋吾」と呼ばれた。
「本当におこがましいんですけど、サンデー晋吾と呼ばれるようになって。自分としては嬉しい半面、偉大な方だったんで、その成績に見合うような、背番号を受け継いでから、背番号を汚さないような思いで。偉大な背番号だったので、それを守るために必死で現役時代はやっていたので」。
01年にはサンデー対談が実現。体幹の大事さや指を鍛えることについてアドバイスを受けたという。
29番は現在、西野勇士投手(31)に受け継がれている。西野も村田氏同様、トミー・ジョン手術を受け、復活を果たした。小野コーチは「僕としても成績は及ばないまでも、とにかく長くプレーができるようにという思いでやっていたので。西野に託した時も、この球団の29番って特別な番号だから、とにかく長く背負えるように頑張って欲しいという話をしました」と明かした。
マサカリ投法で知られる、プロ野球元ロッテ投手として活躍した村田兆治さん(72)が11日午前5時57分に亡くなった。
ロッテ時代のチームメートだった水上善雄氏(65)が無念の思いを明かした。
水上氏がロッテでプレーした76年から89年まで同僚だった。現在も交流があり、直近では今年8月に新潟・佐渡市で行われた、村田さんのライフワークといえる「離島甲子園」で一緒に野球教室などを行った。水上氏は「今年、久しぶりに離島甲子園に一緒に行かせてもらって、元気にしているんだなと思っていました。最近も電話でお話をさせてもらった。まさかまさかですね。びっくりしています」と残念がった。
水上氏にとって、村田さんは人生のお手本だったと言う。「私がエラーをして、その後に同点にされて、村田さんの勝ちをなくしてしまったことがあった。現役が終わった後に、講演会などでよくその話をしてくださっていたそうです。『水上というのがいて、エラーしたんだけど、その後にすぐに来て謝った。200勝するときには、全部僕のところに打たせてくださいと言ってきた。ミスをしても、素直な気持ちで次に取り返すことが大事なんだ』と。私自身、ミスの連続のような人生でしたので。村田さんの生き方をずっと見習っていました」と振り返った。
「離島甲子園」など、まだまだやりたいことを残してこの世を去ったであろう村田さんを、水上氏は思いやった。「まだまだこれからですよ、という話をしたばっかり。やりたいこともたくさんあったと思う。1人の野球人、尊敬できる人間というより、私自身が生き方をまねしてきた方です。気が抜けるという言葉じゃ言い表せないですね」と、心から悔やんでいた。
マサカリ投法で知られる、プロ野球元ロッテ投手の村田兆治さん(72)が11日午前5時57分に亡くなった。死因は一酸化炭素中毒とみられる。
名球会も公式ホームページなどで哀悼のコメントを発表した。
「日本プロ野球名球会会員の村田兆治さんが2022年11月11日にご逝去されました。ご生前のご功績を偲び、謹んで哀悼の意を捧げますとともに、心からご冥福をお祈りいたします」。
村田さんはプロ23年間で最優秀防御率3度、最多奪三振4度。通算215勝177敗33セーブ。89年には200勝を達成し、名球会入りしていた。
ロッテの秋季練習が11日、ZOZOマリンで行われた。
この日朝亡くなった球団OB村田兆治さん(享年72)の訃報に際し、バックスクリーン上には球団旗が半旗として掲げられ、午前11時54分頃には首脳陣、選手、スタッフらが黙祷を行った。
村田さんは1967年(昭42)に福山電波工(現・近大広島高福山)からドラフト1位で東京オリオンズに入団。マサカリ投法で知られ、通算215勝を挙げた。05年には野球殿堂入りを果たしている。
今から32年前に引退した村田兆治さんは、翌年から日刊スポーツの評論家になられた。ちょうどその頃、世の中にワードプロセッサーが登場。それまで原稿用紙に記事を書いていた私達も、キーボードをたたいて原稿を書くようになった。
あるとき、まだ駆け出しだった私は記者席でワープロをたたいていた。すると、評論の仕事で来ていた村田さんが隣にやってきて、こう言った。
「沢田君、そんなんで記事に魂がこもるのか。ペンをぎゅっと握って、紙に力強く書きつけないと記事に魂はこもらないだろ」。
冗談ではなく、真顔で説かれた。
「昭和生まれの明治男」と言われたように、生真面目かつ武骨な方だった。普段はよくしゃべるし、軽口も出るのだが、「評論をお願いします」というと、急に背筋が伸び、肩に力が入る。カバンからおもむろに筆ペンを取り出し、要点をスコアブックに書き出してから話し始める。口にする内容も堅くなりすぎて、新聞評論的には面白みにかけるきらいもあった。
私が担当者となって原稿を書くようになってからもそうで、「さっき雑談で言っていた話の方が面白いのになあ」と何度も思った。でもそれが村田さんらしさでもあった。
7、8年前、新宿・小田急百貨店のレストランで一緒に食事した。評論家としての契約更新をしないことをお伝えしたが、村田さんとしては気分のいいはずはない。それでも「わかった。電話や紙切れだけだったら納得いかないけど、ちゃんと面と向かって言ってくれたんだから許す」と言っていただいた。
筋の通らないことは大嫌いだった。その真っ直ぐさは今の時代にこそ求められるような気がする。早すぎる死が残念でならない。
DeNA三浦大輔監督(48)が11日、ロッテで活躍した村田兆治さん(72)の死去を受け、沈痛な表情で思いを語った。
この日の朝、球団スタッフから一報を聞き「びっくりしています。球場でお会いした時は声を掛けていただいた。『頑張れよ』ってすごく気さくに声を掛けていただいた。食事に行ったりとかそういうことはなかったけど、球場では声を掛けていただきました。ご冥福をお祈りします」と悼んだ。
マサカリ投法で知られる、プロ野球元ロッテ投手として活躍した村田兆治さん(72)が11日午前5時57分に亡くなった。警視庁によると、東京都世田谷区の住宅火災で搬送され、この家に住む村田さんと確認された。
近くに住む74歳の男性によると「(午前)3時頃にガラスが割れるような音がして、こげ臭いにおいがした。火が屋根より3〜5メートル程高く上がっていました」と出火当時の様子を証言。男性はすぐに119番通報したという。
男性は村田さんについて「外出が多い方で、夜でも家が暗かった印象です」。その上で「野球の普及活動にまだまだ活躍されていた方。とても残念です」と寂しそうに話した。
近くに住む84歳の女性は「村田さんは自分に正直な方だと思う」と話し、9月下旬に暴行容疑で現行犯逮捕されたことについても触れ「大変ショックを受けていたんじゃないかな」と心境を察した。
また近所に住む別の60代女性は「以前は車を運転されていたようで、あまりお見かけしなかったのですが、最近はお散歩にも出られていましたね」と直近の村田さんの様子を語った。「でも、後ろ姿はかなりほっそりされましたね。ゴミ捨てもご自分で所定の場所に置かれていて、ちゃんとされているなぁ、と感心しておりました」と振り返った。
東京消防庁によると、11日午前3時15分頃、東京都世田谷区の成城で2階建ての住宅から出火し、2階部分の約40平方メートルが燃えた。住宅には村田さんが住んでいた。意識不明の状態で病院に搬送されたが、午前5時57分死亡が確認された。現場は小田急成城学園駅から北に1.3キロメートル。一軒家が立ち並ぶ住宅街。
マサカリ投法で知られる、プロ野球元ロッテ投手として活躍した村田兆治さん(72)が11日午前5時57分に亡くなった。死因は一酸化炭素中毒とみられる。
ソフトバンクの1軍投手コーチに就任した斉藤和巳氏(44)は、ダイエー(現ソフトバンク)入団時に選手とコーチの関係だった。この日、自身のSNSを更新。「村田さん… 入団当時のホークス1軍投手コーチ。2軍選手の俺は…全くと言っていいほど接点はなかったけど…球界の大先輩…同じホークスのユニホームを着た方…「沢村賞」の選考委員を務められてた方。残念過ぎる。ご冥福をお祈りします。」とつづった。
マサカリ投法で知られる、プロ野球元ロッテ投手として活躍した村田兆治さん(72)が11日午前5時57分に亡くなった。警視庁によると、東京都世田谷区の住宅火災で搬送され、この家に住む村田さんと確認された。
東京消防庁によると、11日午前3時15分頃、東京都世田谷区の成城で2階建ての住宅から出火し、2階部分の約40平方メートルが燃えた。
村田さんの自宅には消防などが出入りし、警察が実況見分を行った。警視庁成城署によると、出火当時、村田さんは1人で自宅にいたという。死因については一酸化炭素中毒の疑いがあるとし、顔が判別できないほどの大きなやけどは負っていなかったという。署は火元の原因を捜査している。
火災があった住宅には村田さんが住んでいた。村田さんは意識不明の状態で病院に搬送されたが、午前5時57分死亡が確認された。現場は小田急成城学園駅から北に1.3キロメートル。一軒家が立ち並ぶ住宅街。
マサカリ投法で知られる、プロ野球元ロッテ投手として活躍した村田兆治さん(72)が11日午前5時57分に亡くなった。警視庁によると、東京都世田谷区の住宅火災で搬送され、この家に住む村田さんと確認された。
東京消防庁によると、11日午前3時15分頃、東京都世田谷区の成城で2階建ての住宅から出火し、2階部分の約40平方メートルが燃えた。住宅には村田さんが住んでいた。意識不明の状態で病院に搬送されたが、午前5時57分死亡が確認された。
プロ通算215勝177敗33セーブで最多勝1回など、数々の功績を残してきた村田さんは引退後、野球評論家としても活動。様々な社会貢献にも寄与してきた。2008年(平20)から、村田さんが提唱して全国離島交流中学生野球大会を開催し、今年も8月に新潟県佐渡市で大会を実施。名誉会長として同大会に参加していた。
この夏の大会では、中学生達を相手に野球教室を行い、参加した約200人の中学生の頭上を越える遠投キャッチボールを披露。キャッチボールでは、直球だけではなく、代名詞でもあった伝家の宝刀フォークも繰り出して会場をわかせていた。
一方で9月下旬に羽田空港で女性検査員の肩を押したとする暴行容疑で現行犯逮捕、送検されていた。同25日に釈放された際には「暴力だと言われた女性の腕を押したということでの逮捕。もう1度、彼女に誠心誠意謝りたい。それが第一」と語り謝罪。「たくさんのファンの方々、子供達に、イベントなどで、夢を持って希望を持って頑張れと言っていることに関して、今回の私の逮捕は非常に遺憾だと思いますし、あらためて深くお詫びしたい」と深く反省していた。
その後10月には沢村賞選考委員会があったが、本人の申し出により、今年から選考委員を辞退することを発表していた。
村田兆治さんに、フォークボールの指南をしてもらおうとしたことがある。日刊スポーツの評論家だった時に、担当としてつかせてもらっていた。色紙に押された横綱の手形と私の手が同じ大きさだったことから、調子に乗って「僕もフォーク投げられますかね?」と聞いたのがきっかけだった。
まずボールを握らされた。人差し指と中指で挟むフォークの握り。「力を入れてみろ」と言われてぎゅっとする。兆治さんがそれを両手で力ずくでもぎ取る。「こんなのじゃダメだ。何があっても抜けないくらいじゃないと」と言って私の手を触る。「厚みが足りないな」と、さらなるダメ出しをされて終わった。試し投げまでいくことはできなかった。私が野球経験のない素人だと分かっていても手が抜けない人。軽々しくフォークが投げられるかもと言ったのを恥じるとともに、プロの技術に対するプライドの高さや厳しさを教えてもらった気がした。
「奪ってみろ」と言われてフォークの握りで差し出された兆治さんの手から、ボールを抜くことはできなかった。びくともしなかった。指先だけでなく、骨格からしっかりしていた。並んで歩いていて、何かの拍子に肩がぶつかっても、よろけるのはこちらの方。当時は60歳を過ぎたくらい。まだ全身からパワーがみなぎっていた。詳しい話を聞いていないので間違っているかもしれないが、先日の空港での事件を耳にした時も、兆治さんが自分の力の強さを把握できておらず、空港職員の人を驚かせてしまっただけなのではないか?としか思えなかった。
西武ドーム(当時)の打撃ケージ裏に名球会の重鎮が数名集まったことがあった。離れて見守っていたのだが、呼ばれて近くに行くと「こいつはいい記者になるから」と紹介された。「もう40歳を過ぎて、伸びしろはないんです」と、のど元まで出かかったが「人生先発完投」がモットーの兆治さんからしてみれば、40歳もまだ若造なんだろうと思い直した。
ライフワークだった離島の球児のことを常に気にかけていた。教え子が甲子園に出た時は本当に嬉しそうだった。兆治さん、すみません。あれから10年以上たっても、いい記者にはなれていませんし、なれる気もしませんが、これから離島の球児達が活躍する度に、兆治さんのことを思います。
マサカリ投法で知られる、プロ野球元ロッテ投手として活躍した村田兆治さん(72)が11日午前5時57分に亡くなった。死因は一酸化炭素中毒とみられる。
広島OBの北別府学氏は同日、自身のブログを更新。「野球の一本道を歩んで来られた方」とのタイトルでしのんだ。
「尊敬する村田兆治先輩 一緒に様々な仕事をさせていただきました 同じ投手出身ということもあり 何かと声をかけて頂きました 私の闘病前、最後にお会いした際も 今後も野球の環境が整っていない地域の子供達へ一緒に野球を教えに行って欲しいと頼まれていました。いつお会いしても野球の話しかされない方、一本気であり本当に野球の一本道を歩まれてきた方でした。もう1度お会いして野球の話がしたかった!心よりご冥福をお祈りしています。」とつづった。
2人はセ・パ両リーグを代表する投手として同時期に活躍。引退後はともに沢村賞の選考委員を務めていた(村田さんは今年は辞退)。
「令和の怪物」と称されるロッテ佐々木朗希投手(21)が、ついに侍デビューした。
初めて命名されたのは、まだ「平成」だった。日刊スポーツの2019年4月7日付紙面。「国際大会対応研修合宿」と銘打ったU18日本代表1次合宿の紅白戦で163キロをマークした衝撃を報じた日だ。同5月1日に令和へと変わる約1ヶ月前、次代への期待が込められた。オーストラリア戦も、まさにワールド・ベースボール・クラシック(WBC)への“対応研修”。どこまで驚かせてくれるのか−とワクワクした高校時代の怪物ぶりを思い起こさせてくれた。
東北6県担当時代、岩手・大船渡高時代の佐々木朗の試合ではネット裏などで写真撮影しながら、スピードガン表示を全球メモすることが日課だった。1年夏に147キロデビューし、「岩手の大器」からスタート。冬を越えて153キロを計測した2年春には「岩手の新怪物」、157キロの同秋には「みちのくの新怪物」に。花巻東高から育った大谷翔平(現エンゼルス)に続く希望あふれる称号は進化していった。
私は1学年上の秋田・金足農の吉田輝星投手(21=現日本ハム)も担当させていただいたため、佐々木朗を「吉田が荒々しいワシなら、朗希は優雅なツルのよう」と表現したことがある。その直後に「163キロ」で舞い、「令和の怪物」となった。
社会面担当を経て、11月から野球担当となった。初日の今月1日、ロッテ秋季練習に配置され、ZOZOマリンへ。偶然にも佐々木朗が打撃投手を務めて再会した。力みを感じさせない長い手足から繰り出す優雅な全33球は、数年前と比べて大人びていた。
「令和の怪物」は「ユーキャン新語・流行語大賞2022」にノミネートされるほど、国内での認知度は確固たるものに。WBCで「世界の怪物」となるべく、しなやかな翼を優雅に大きく広げた。
マサカリ投法で知られる、プロ野球元ロッテ投手として活躍した村田兆治さん(72)が11日午前5時57分に亡くなった。死因は一酸化炭素中毒とみられる。
中日の立浪和義監督(53)は「突然の訃報に驚いています。野球に対して素晴らしい向き合い方をされていましたし、憧れでもありました。このような形でお亡くなりになり残念です。ご冥福をお祈りいたします」と球団を通じてコメントを発表した。
マサカリ投法で知られる、プロ野球元ロッテ投手として活躍した村田兆治さん(72)が11日午前5時57分に亡くなった。死因は一酸化炭素中毒とみられる。
ロッテ時代に村田さんとともにプレーした元プロ野球選手の愛甲猛さんが、自身のツイッターを更新。「本当にショックです。ついこの間江本さんとYouTubeで村田兆治さんの話をしたばっかりなのに。素晴らしい野球人でした。御冥福を御祈り致します」(原文まま)とつづった。
マサカリ投法で知られる、プロ野球元ロッテ投手として活躍した村田兆治さん(72)が11日午前5時57分に亡くなった。警視庁によると、東京都世田谷区の住宅火災で搬送された、この家に住む村田さんと確認された。死因は一酸化炭素中毒とみられる。
村田氏の記録などは以下の通り。
マサカリ投法で知られる、プロ野球元ロッテ投手として活躍した村田兆治さん(72)が11日午前5時57分に亡くなった。プロ通算23年間で215勝177敗、33セーブ。右肘の手術を乗り越え、40歳まで現役を続けた偉大な右腕の涙の引退試合を、1990年10月14日付の日刊スポーツ紙面で振り返る。(所属、年齢など当時)
ロッテ村田兆治(40)の23年間のラスト登板、604試合、5万2697球目はフォークボールだった。西武との最終戦(川崎球場)は雨の中、2万2000人の観衆がマサカリ投法を見た。年下のライバル清原を打ち取り、ホームランキングのデストラーデを三振に斬り、5回完封。40歳代投手として41年ぶりの10勝という快記録を残してマウンドを去った。
降りしきる雨と涙が混じり合う。モットーの「完全燃焼」を物語るそのしずくが、23年間の年輪を刻んだ顔ににじんでいた。村田は泣いた。どんな節目の白星にも涙を流さなかった男が、右手でそっとまぶたをぬぐう。一塁側ベンチ前で、ナインの手で4度宙に舞った。悔いなき野球人生のフィナーレに、超人投手は感無量だった。
「いよいよマウンドに立てなくなるんだな、という気持ちだった。思い残すことはありません」。西武相手に5回を散発4安打完封。40歳では史上2人目の2ケタ勝利というハクをつけ、現役最多勝男は現役生活に別れを告げた。「喜びも悲しみも全て、このマウンドにありました」。場内マイクで、2万2000人の観衆に挨拶。川崎球場での通算50勝目とともに、球界から1つの大きな歴史が幕を閉じた。
「人生先発完投」。引退を決意した夏場以降、サイン色紙に必ず書き添えてきた。「プロとして、最後まで恥ずかしくない終わり方をすべきだ」。この信念のもと、村田は自らを奮い立たせた。通算600試合登板を1−0の完封で飾った8月24日の対西武戦(西武)。そしてこの日の肌寒さを吹き飛ばす熱投は、手を抜くことを知らない硬骨漢の何よりの象徴だった。
だからこそ、ルーキーのような初々しさで臨んだサヨナラ登板。雨で流れた9月30日(西武戦)の仕切り直しにも、胸が張り裂けんばかりの緊張感に襲われた。午前8時50分、東京・成城の自宅を出る際「今日も雨だな」と厳しい表情で一言。試合前は、両ヒザが震え、動悸が止まらなかった。だが、その重圧をもプラスに転じ、全盛時並みの好投だ。
初回から、140キロ台の速球をかつての女房役・袴田のミットに投げ込んだ。ぬかるんだマウンドに右足をめり込ませながら、最後のマサカリ投法でレオ打線を詰まらせる。2回には、本塁打キングのデストラーデをこの日最速の145キロで空振り三振。もちろん、楽なコンディションではなかった。4回、突然、右足がケイレンしてしまった。「足場も悪く、踏ん張れずにバランスが崩れたんだ」。それでもこの回、無死二塁の危機を切り抜け、5回も1死一、三塁で併殺。この日の83球目、通算5万2697球目、現役最後の1球を宝刀・フォークボールで締めくくると、天も味方しての降雨コールドゲームとなった。
今でも右ヒジに残る長さ7センチの傷跡。山あり谷ありのドラマを残し、偉大な星は消えた。今季、自信を持って投げた速球を、実績のない若手打者にしばしば打ち込まれた。「先発やリリーフで失敗しても、取り戻す(雪辱する)ことができなくなり、責任を取ろうという気持ちになった」。試合後、引退決意の経緯を口にした表情に、初めて寂しさが漂っていた。
正式引退発表を「全日程終了後に」と固辞してきた律義さは、周囲に対しても忘れていなかった。4回表が終わり、西武の4番手・石井が登板する時になって、一塁の中村塁審に「マウンドに砂を入れて下さい」と申し入れている。選手会などから贈られた花束の1つを、やはり現役引退する袴田にそっと手渡した。温かい人柄と実績を残しての引退劇。1度は死んだ男ならではだろう。7年前、右ヒジ大手術をした際、通算156勝(31S)で終わるかに見えた野球人生も、その後この日までさらに59勝(2S)。たゆまぬ節制と強靭な精神力がもたらせた奇跡の復活史だ。
スコアラーが記したスコアカードをコピーし、初めて村田は持ち帰った。23年間の思い出が凝縮されたような「記念品」で締めくくったサヨナラ登板。空模様とは裏腹な秋晴れのような心境で、第2の人生(ネット裏から評論家活動)も「先発完投」を目指すことだろう。
(1990年10月14日付、日刊スポーツ紙面より)
マサカリ投法で知られる、プロ野球元ロッテ投手として活躍した村田兆治さん(72)が11日午前5時57分に亡くなった。警視庁によると、東京都世田谷区の住宅火災で搬送され、この家に住む村田さんと確認された。
プロ野球元ロッテ投手として活躍した村田兆治さんが11日午前5時57分に亡くなった。72歳。警視庁によると、東京都世田谷区の住宅火災で搬送され、この家に住む村田さんと確認された。
11日午前3時15分頃、東京都世田谷区の成城で2階建ての住宅から出火し、2階部分の約40平方メートルが燃えた。
住宅には元プロ野球の村田兆治さん(72)が住んでいるとみられ、警視庁が確認している。
東京消防庁によると、この家に住む70代の男性が意識不明の状態で病院に搬送され、午前5時57分死亡が確認された。
速球とフォークボールを武器に大きなロッキングモーションから投げ下ろす「マサカリ投法」で通算215勝を挙げた元ロッテの投手、村田兆治さんが11日、東京・世田谷区の自宅で火事があり、亡くなった。72歳だった。近鉄、西武で主砲として465本塁打&2452安打をマークし、村田さんから通算2000安打目を放っているサンケイスポーツ専属評論家、土井正博氏(78)が故人との思い出を振り返った。
彼は私より6歳下。プロ2年目から先発で投げてくるようになったが、最初の頃はただただ怖い投手だった。
とにかく球が速い。その上、どこにくるか分からない。ストライク、ボールがはっきりしていた。彼のストレートは、伸びてくる速いボールではなく、ズドンという音がするイメージの、重みを感じる大砲の弾みたいなストレート。ぶつけられてはたまらないから、打席ではまず逃げる備えをしていた。
だから勝負は早かった。彼の2年目、3年目までは、初球がボールだったらこっちの勝ち。バッター有利のカウントになってそのあと必ず甘いコースにきたから、そこを狙って打てば良かった。
その代わり、初球にストライクが入ってしまったらお手上げ。追い込まれたら打てない。やっかいな若手投手だった。
さらにやっかいになったのは、私が近鉄から太平洋(現西武)に移籍したあと(1975〜79年)だ。彼がフォークボールを覚えてからは、初球がボールになるかどうかを見てから−という余裕は持てなくなった。
消える魔球だった。「アイツのフォークは消える」。「消える前に(ストレートを狙って)打たなあかん」。チームメートと、みんなでそう話していた。
誰かのボールと比べてという話ができない。私がプロ入りする前には杉下茂さん(中日−大毎)がいたが、当時のパ・リーグでは、あそこまで落差のあるフォークボールは他に投げる投手がいなかった。現役時代も、引退してコーチ、評論家になってからも、同じくらいの落差、切れを感じたのは、佐々木(元横浜ほか)までいない。
私は通算2000安打を仙台で彼から打っている。区切りのヒットを超一流の投手から記録できた。よくこの自慢話をします。そういう特別な思い出が残せたのも、村田兆治という素晴らしい投手のおかげです。
サンデー兆治フィーバーのさなか、村田さんがポツリ。「話題になるのはありがたいけど、結構キツいものだよ。俺が投げることはバレている訳だから」。右肘の手術から復活した1985年。当時は予告先発制度がなく、先発投手は最重要機密。日曜日ごとの登板は事実上の「予告」になり、相手打線には準備され、ファンも詰めかける。相当なプレッシャーも抱えていたようだ。
手術の執刀責任者、フランク・ジョーブ博士からは「1試合で100球以上、投げてはいけない」と厳命されていた。それを隠し、120球、130球と平気で投げた。「日本では球数がどうのと言っていられない。先発したからには最後まで」と、そのシーズン10完投。今では考えられない話だろう。
左足を高く上げ、尻を突き出し、右腕を振り下ろす、変則かつ豪快なマサカリ投法。体にしみこませるのは並大抵ではない。夜中に自宅近くの公園で、金網に足をひっかけてフォーム固めをしていると…。「犬の小便の真似をしている不審者がいます」と通報されたこともあったという。
とにかく、強靱な下半身あってこそのフォーム。川崎球場の外野では20本、30本とダッシュを繰り返した。「兆治の走る姿は、どんなコーチのアドバイスよりも効く」といわれた。
食事にもこだわった。登板2日前はステーキ。他の日も、おかずは5品以上。できあいの総菜は不可。奥さまの手作りでないと、お膳をひっくり返す。金田正一元監督の教え通り、食事と練習による体づくりを貫いた。
シーズンオフの副業≠ニなるサイン会は、断ることができる範囲で厳選。「大量の色紙にペンを走らせると、右腕に負担がかかる」と若手選手に譲った。「ストイック」という言葉が似合う人で、最近まで130キロの速球を投げられたのも、どこかうなずける。
数年前、東京ドームの記者席で「ピッチングフォームは1度覚えたら、いつまでも投げられる。お前も覚えた仕事は忘れないだろう?いい記事を書き続けるように」と励まされた。記者生活1年目に出会い、色々なことを教えてくれた村田さん。ありがとうございました。
「送っていってやろうか」。声を掛けられた方向を見て2度驚いた。ダイエー(現ソフトバンク)担当時代の1997年、遠征帰りの博多空港でのこと。あの村田兆治さんが帰りのタクシーに乗せてくれるという。もう1つ驚いたのは村田さんが、駆け出し記者の当時住んでいたところを知っていたこと。取材中の雑談を覚えていてくれたらしい。王貞治監督に投手コーチとして招かれた村田さんは豪快に見えて繊細、人に優しい、本当にいい人だった。
3年間のダイエー投手コーチ時代、投手陣は12球団最弱だった。通算215勝の大投手でも、うまくいかないことが多かったようで、マウンドでは「すまんな。監督が代われと言っているから交代」が口癖だったと選手から聞いた。
村田さんは97年シーズン終盤、体調を崩して入院。病院を割り出して見舞いにいった。面会謝絶だったので名刺をナースに預けて引き揚げた。退院後、電話があった。
「ありがとな。人間、いいときばかりじゃないからな。人はこういうのを忘れないんだよ」。人付き合いをする上で、村田さんからいただいた言葉は今でも大切にしている。マサカリフォークを挟んだ人差し指と中指だけで、一升瓶を持ち上げるシーンを酒席で目撃したのは密かな自慢だ。
97年限りでダイエー退団が決まり、ロッカー整理を手伝った。「オマエにやるよ」といただいた「FDH」(福岡ダイエーホークス)のジャンパーは鷹ファンの友人にプレゼントしたが、結婚式を控えていた私に書いていただいた色紙は大切に保管している。その色紙に添えられていたのが、座右の銘「人生先発完投」の6文字−。村田さん、マウンドを降りるのが早すぎますよ。
「マサカリ投法」で通算215勝を挙げた元ロッテの投手、村田兆治さんが11日、東京・世田谷区成城の自宅で火事があり、死亡した。72歳。死因は一酸化炭素中毒とみられる。右肘の手術を乗り越えて活躍した先駆者としても知られ、近年は全国の離島をめぐって子供達に野球を指導。偉大な投手が突然、この世を去った。
不屈の闘志でファンを魅了し続けた村田さんが、深夜に衝撃的な死を迎えた。
11日午前3時10分頃に閑静な高級住宅街、東京・世田谷区成城にある村田さんの自宅2階から出火。意識不明の状態で見つかった村田さんは東京都内の病院に搬送されたが、死亡が確認された。死因は煙を吸ったことによる一酸化炭素中毒とみられる。72歳だった。
警視庁成城署や東京消防庁によると、近隣の住民の通報があり、ポンプ車など消防車両26台が出動し、午前6時50分頃に鎮火。2階のリビングから出火し、激しい火柱が上がる中、村田さんはキッチンと三和土を挟んだ小部屋で、部屋着姿で床に座った状態で発見された。
目立った外傷はなく、家も施錠されており、外部から侵入された形跡もなかった。自宅には村田さんだけだったという。自宅周辺は規制線が張られ、報道陣や近隣の住民が心配そうに集まった。リビングとみられる2階の窓は粉々に割れて窓枠も焼け焦げ、昼過ぎになっても周辺には煙の臭いが立ち込めていた。
村田さんは1968年に広島・福山電波工高(現近大広島高福山)からドラフト1位で東京(現ロッテ)に入団。頭角を現した2年目以降は先発、救援とフル回転。体を二塁ベース側へ傾けながら左足を高く上げる独特の投球フォームは「マサカリ投法」と呼ばれ、150キロ超の直球と落差のあるフォークボールを武器に活躍。75年に最多セーブ、81年には最多勝に輝き、最多奪三振は4度、最優秀防御率は3度獲得した。
82年に右肘を故障。翌年に当時はまだ珍しかった靱帯再建手術(通称トミー・ジョン手術)を米国で受け、84年終盤に復帰。85年は日曜日ごとに先発するローテーションで「サンデー兆治」と呼ばれ、17勝を挙げて復活した。復帰後に59勝。手術を克服した精神力を評して「昭和生まれの明治男」とも呼ばれた。小説家、山口瞳の著作『居酒屋兆治』は村田さんを作中の店名のモデルにしたことで知られ、1983年には俳優、高倉健主演で映画化もされた。
引退後もストイックにトレーニングを重ね、60歳を過ぎてもテレビ番組の企画で球速130キロ超をマーク。2008年以降は全国の離島をめぐり、中学生に野球を教える活動に励んでいた。
だが今年9月、羽田空港の保安検査場で女性検査員の肩を押したとする暴行容疑で現行犯逮捕された。釈放後に「たくさんのファンや子供達に対して深くお詫びしたい」と頭を下げ、10月には沢村賞の選考委員も辞退していた。
自宅の窓際にはバーベルが置かれていた。今でも体を鍛えていたのだろうか。右肘手術を乗り越えた先駆者としてファンに愛された球道者≠ェ突然、天国へ旅立った。
ロッテの投手として通算71勝を挙げ、ロッテで監督も務めた八木沢荘六氏(77)が11日、後輩・村田兆治さんの死を悼んだ。
残念というか、何で亡くなったのか、言葉がない。最近は1人で暮らしているみたいだった。この前に会ったのも4、5年前のプロ野球OBクラブのイベントで『元気でやれよ』と声を掛けて別れたと思う。
1番の思い出はキャンプでのキャッチボール。100メートルぐらいまで離れて『どうだあ!』という球を放ってくる。こっちは、そんなに遠くへ投げることはあまりなかったから。本当の剛腕だった。スピードとフォークボールにはすごく自信を持っていた。
自分が勝てたのはコントロールしかなかった。とにかく一生懸命やる投手だったね。本当に残念だ。
ロッテで通算112勝を挙げ、村田兆治さんの兄貴分でもあった木樽正明さん(75)が11日、千葉・銚子市内で訃報に接し、肩を落とした。2学年下の村田さんが入団して1年目の1968年は、鹿児島・指宿市での春季キャンプで2人部屋の同室。右肘の手術を受けてから復活までの期間は、2軍投手コーチとしてリハビリに付き添うなど50年以上の親交があった。
今朝の6時過ぎに知人からの電話で知り、ビックリしました。人違いであって欲しいとテレビを見ていました。あまりに急で…。悲しくて残念です。
村田が1968年に福山電波工高(現近大広島高福山)からドラフト1位で入団。投手コーチの植村義信さんから「新人の村田の面倒をみてくれ」と言われ、2歳上の私は兄貴代わりでした。鹿児島・指宿キャンプでは同じ部屋。1年目だから体力がなく、腹筋や背筋の体幹強化のメニューになると泣きながらついてきました。
数年後のキャンプも同部屋。当時は、コントロールが安定していなかった。野球の話をしていたところシャドーピッチングを始めたのですが、見たこともないフォームだった。これが独特のマサカリ投法。初めて見たときは驚きました。
釣りが趣味で、キャンプの休日は船で甑(こしき)島へ行ってメジナ釣り。性格は負けず嫌いで、数多く釣った私に対して悔しがっていましたね。
83年に右肘の手術を受けた後、私は2軍投手コーチとして、ずっとペアを組んでリハビリをしました。私の立場は変わりましたが、何とか復活させようと。病院のメニューを見てキャッチボールの長さを確認しましたが、村田は距離を延ばして外野フェンスまで行ったこともありました。
最後に会ったのは今年の6月12日。私が一昨年に出した本(野球の力〜銚子発〜)の出版記念パーティーがあって、銚子スポーツタウンに来てくれました。9月の空港の件があって、しばらく経ってから電話しようと思っていましたが、もっと早く電話をすればよかったと後悔しています。
ニッポン放送時代の1987年から90年代前半までロッテを担当したフリーアナウンサー、松本秀夫氏(61)が村田兆治さんの死を悼んだ。
何度も村田さんの優しさに触れました。私がニッポン放送で駆け出しのアナウンサーの頃、ロッテで名前を覚えてくれたのは村田さんと高沢秀昭さんの2人だけ。村田さんが1989年5月13日の日本ハム戦で通算200勝を達成したときの実況もしていたので、死去のニュースを知ったときは泣きました。
駒大(1部6位)と対戦した専大(2部1位)は4回途中からロッテD1位指名右腕・菊地吏玖投手(4年、札幌大谷)が救援したが序盤の失点が響き、打線も追い上げられず、1勝2敗で1部復帰はならなかった。菊地吏は5回1/3を4安打1四球3三振2失点で終え、「攻撃につながるようにしないといけないのに、9回は先頭を(四球で)出し、力不足を痛感した。この2回戦に先発できない自分はその程度だと思っている」と話した。
プロ野球ロッテで通算215勝を挙げた大投手、村田兆治さんの訃報に11日、球界は悲しみの声であふれた。村田さんが1995年から97年までダイエー(現ソフトバンク)でコーチとして指導した際に監督を務めたソフトバンクの王貞治球団会長は「3年間随分と苦労をかけてしまった」と振り返り「最近も離島の子供達に元気に野球を指導していたので、まさかこんなことになるとは思わなかった」と、突然の知らせに胸を痛めた。
好勝負を何度も演じた、通算3085安打の張本勲さんは「剛速球とフォークの2種類で渡り歩いた素晴らしい投手。非常に純粋な男で、頑固一徹な面もあった。惜しい男を亡くした」としのんだ。
ロッテで一緒に戦った有藤通世さんは「入団時から見てきたが、兆治ほど自分に厳しい投手はいない。慕っていた金田(正一)さんが(2019年に)亡くなって、相談相手もおらず寂しかったと思う」と話した。
東都大学野球リーグの1、2部入れ替え戦は11日、神宮球場で3回戦が行われ、駒大(1部6位)が専大(2部1位)に8−1で快勝し、2勝1敗で1部残留を決めた。専大は2017年春以来の1部復帰を逃した。
駒大は1回に4安打などで3点を先取し、2回に大森の2ランで加点した。専大はロッテからドラフト1位指名された菊地吏が3番手で登板し、5回1/3を2失点だった。
ロッテ時代に村田兆治さんとプレーした愛甲猛氏(60)が11日、自身のツイッターを更新し、「本当にショックです。素晴らしい野球人でした」と死を悼んだ。
江本孟紀氏(75)=本紙専属評論家=のユーチューブチャンネルで村田さんを話題にしたばかりだった。入団当初は投手だった愛甲さん。江本氏との番組での対談で、春季キャンプ初日に村田さんが十勝ワインを投手陣に配ったエピソードを明かした。「10勝」にかけていたという。
野手転向後は打撃練習で村田さんを相手に打ち込んだこともあった。「(直球の)回転がいいので、タイミングが合うと気持ちよく飛ぶ。それで打っていたら、段々球が速くなってきて、最後は要求もされていないのにフォークを投げてきた」と闘志あふれる人柄を明かした。
テスト生として10日からロッテ秋季練習に参加している元オリックス・吉田一将投手(33)、かつてロッテと阪神に在籍していた高野圭佑投手(30)が11日、千葉市美浜区のZOZOマリンスタジアムでシート打撃に登板した。
吉田は今季在籍していたBC新潟のユニホーム姿で、高野も同じく今季在籍していたBC栃木のユニホームを着用し、2投手とも走者なしの場面を想定して打者5人と対戦。高野はこの日最速152キロの速球で、藤原から空振りを奪った。
2人の投球を凝視した吉井理人監督(57)は「十分いい球を投げていたと思う。高野は強いボール、吉田はていねいにコントロールして低めに投げていた。2人とも特徴は出してくれたと思っています。合否に関しては球団と話し合って」と語った。
ロッテが11日、千葉市美浜区のZOZOマリンスタジアムでの秋季練習中、他界した球団OB・村田兆治さん(享年72)をしのんで正午前に黙祷を行った。また10時の練習開始時には、半旗が掲げられた。
取材に応じた吉井理人監督(57)は「素晴らしい野球人だと思っていました。残念です」と語った。近鉄入団5年目の1988年にオールスター初出場を果たした際に「東京ドームで(試合前に)声をかけてもらって腹筋を1000回しました」と村田さんの練習熱心さを振り返った。
ロッテ入団8年目の2001年から引退するまでの13年間、村田さんの代名詞、背番号29を背負った小野晋吾投手コーチ(47)は「村田さんに成績で及ばなくても、長くプレーしようと思っていました。体幹、指先の力について指導を受けて長くやれるように頑張れ≠ニアドバイスをいただきました」と話した。
本紙専属評論家の江本孟紀氏(75)がフジテレビ系「めざまし8」(月〜金曜前8:00)に電話で生出演。同日に死去した元プロ野球ロッテ投手、村田兆治さん(享年72)を追悼した。
同日午前3時10分頃、東京都世田谷区の村田さん宅から出火。村田さんは病院に運ばれたが、死亡が確認された。村田さんは広島県出身。プロ野球ロッテのエースとして215勝を挙げ、豪快な投球フォーム「マサカリ投法」で知られる。引退後の2005年に野球殿堂入りした。名球会のメンバーにも名を連ねる。
番組ではこのニュースを速報。電話で生出演した江本氏は「驚きました。この前、空港で逮捕されたときも驚きましたけど、まさかこんな…ね…」と絶句。村田さんの現役時代の印象を問われると、「真面目で、とにかく野球一筋。一生懸命やるタイプの人でしたね」と振り返った。「最近は会ったことがなかった」といい、最後に会ったのは「パーティーかどっかだったと思う」。「いつものように木訥と喋って、礼儀正しいし、いい人だった」と故人をしのんだ。
亡くなった元プロ野球選手の村田兆治さん(72)は通算215勝を挙げ、シーズンでもっとも活躍した先発投手に贈られる「沢村賞」の選考委員を昨年まで務めていたが、今年10月24日の選考会では、委員を辞退することが発表された。
村田氏は9月下旬に羽田空港で女性検査員の肩を押したとする暴行容疑で現行犯逮捕、送検されていた。
広島のエースとして通算213勝を挙げた北別府学氏(65)が11日、自身のブログを更新。同日に死去した元プロ野球ロッテ投手、村田兆治さんを追悼した。
北別府氏は「野球の一本道を歩んで来られた方」と題してブログを更新。「尊敬する村田兆治先輩 一緒に様々な仕事をさせていただきました」と書き出し、「同じ投手出身ということもあり何かと声をかけて頂きました」と回想。「私の闘病前、最後にお会いした際も今後も野球野球の環境が整っていない地域の子供達へ一緒に野球を教えに行って欲しいと頼まれていました」と思い出を記した。
村田さんについて「いつお会いしても野球の話しかされない方、一本気であり本当に野球の一本道を歩まれてきた方でした」と人柄をしのび、「もう1度お会いして野球の話がしたかった!心よりご冥福をお祈りしています」と追悼した。
同日午前3時10分頃、東京都世田谷区の村田さん宅から出火。村田さんは病院に運ばれたが、死亡が確認された。村田さんは広島県出身。プロ野球ロッテのエースとして215勝を挙げ、豪快な投球フォーム「マサカリ投法」で知られる。引退後の2005年に野球殿堂入りした。名球会のメンバーにも名を連ねる。
ロッテが11日、千葉市美浜区のZOZOマリンスタジアムで午前10時から秋季練習を行い、球団OBの村田兆治さんの死を悼み、半旗を掲げて弔意を示した。
11日午前3時10分頃、東京都世田谷区の元プロ野球選手村田兆治さん(72)宅から出火した。村田さんは病院に運ばれたが、死亡が確認された。死因は煙を吸ったことによる一酸化炭素(CO)中毒とみられる。
村田さんは広島県出身。プロ野球ロッテのエースとして215勝を挙げ、豪快な投球フォーム「マサカリ投法」で知られる。引退後の2005年に野球殿堂入りした。名球会のメンバーにも名を連ねる。
警視庁成城署や東京消防庁によると、2階建て住宅の2階約40平方メートルが焼けた。ポンプ車など消防車両26台が出動し、午前6時50分頃に鎮火した。村田さんは2階から運び出されたという。署などが火災の原因を調べている。
2階の窓ガラスが割れ、室内の柱などが黒く焦げていた。近所の主婦(84)は焦げたような臭いで火災に気付き、外に出ると赤い火柱が上がっていたという。道ですれ違った際に挨拶を交わすこともあったといい「亡くなったとは信じられない。かわいそうだ」と話した。
現場は小田急線成城学園前駅から北へ約1キロの住宅街。
村田さんは今年9月、羽田空港の保安検査場で女性検査員の肩を押したとする暴行容疑で警視庁に現行犯逮捕された。携帯電話を手にしていたため金属探知機に引っかかり、トラブルになったとみられている。釈放後、報道陣に「たくさんのファンや子供達に深くお詫びしたい」と話していた。
テスト生としてロッテの秋季練習に参加している元オリックスで今季BC新潟でプレーした吉田一将とロッテ、阪神などでプレーし今季は同栃木に所属した高野圭佑がZOZOマリンで行われたシート打撃に登板。吉田は山本に右中間フェンスを直撃する一撃を浴びたが球を低めに集め、高野は最速152キロを計測するなどアピールした。
見守った吉井監督は「2人とも特長を出してくれた。合否はみんなで判断したい」と慎重だった。
元広島エースの北別府学氏が、亡くなった村田兆治氏を追悼した。「野球の一本道を歩んで来られた方」のタイトルで自身のブログを更新。最後に会った際に「今後も野球の環境が整っていない地域の子供達へ一緒に野球を教えに行って欲しい」と頼まれたという。昨年まで共に沢村賞の選考委員を務めた間柄。北別府氏は「いつお会いしても野球の話しかされない方、一本気であり本当に野球の一本道を歩まれてきた方でした。もう1度お会いして野球の話がしたかった!」とつづった。
村田氏の座右の銘は「人生先発完投」。まさか、こんな形で人生に幕を下ろしてしまうとは誰が想像しただろう。挫折と栄光に彩られたプロ野球人生。ファンの記憶に残る偉大な投手だった。
マサカリ投法―。左足を高くはね上げ、右腕を上から振り下ろす独特で豪快なフォーム。直球とフォークだけで荒武者ぞろいのパ・リーグを生き抜いた。投手人生を語る上で欠かせないのが右肘の手術だ。投手の肘にメスを入れるのがタブー視された時代。32歳で故障すると座禅を組み、滝に打たれる荒行も行った。様々な治療法を試みた末、83年に当時はまだ珍しかった右肘の靱帯再建手術(通称トミー・ジョン手術)を米国で受けた。
先駆けは反発を受ける。手術に批判的な声も多く、ロッテ球団からは「失敗したら引退する」との一筆を書かされた。日本では再起不能とされた故障から、強固な意志で逆風や厳しいリハビリに耐えてマウンドに戻る。35歳だった85年4月14日の西武戦で3年ぶりの白星。100球を超えて右手がしびれ始めたが、稲尾和久監督がマウンドへ来ても「3年も辛抱した。この試合を俺にくれ」。絶対にボールを渡さず、155球を投げ完投した。
85年は主に日曜日毎に先発。17勝を挙げ「サンデー兆治」の愛称が定着した。40歳で臨んだ90年も10勝をマーク。手術から前例のない劇的な復活劇は、後に続く投手に大きな勇気を与えた。今では手術は有効な治療法として認識されている。
引退後、66歳だった16年の始球式では130キロ超の直球を投じファンを驚かせた。現役時代から自らに厳しい練習を課し、引退後もトレーニングを続けた。不器用で、武骨で、一本気で。誰もが「頑固」だと口をそろえた。人さし指と中指の間にナイフで切り込みを入れ、フォークを投げ続けた末の通算暴投数はプロ野球歴代最多の148。当時捕手の袴田英利にノーサインで投げていたためだ。この数字も、村田氏にとっては誇りだった。
レジェンドOBの突然の訃報を受け秋季練習最終日だったロッテはZOZOマリンで半旗を掲げ、ナインによる黙祷も行われた。
吉井監督は「素晴らしい野球人。残念です」と沈痛な表情。近鉄でプロ5年目だった88年に球宴初出場した際、村田氏から「一緒に練習しよう」と声をかけられて感激も、まさかの猛練習。「ポール間をめちゃくちゃ走って腹筋も1000回した。球宴後1週間ぐらい調子が悪かったけど、一流になるにはこれくらいやらないとダメなんだなと思いました」と思い出を語った。
現役時代に「サンデー晋吾」としてブレークし「サンデー兆治」と呼ばれた村田氏の背番号29を継承した小野投手コーチは「01年に対談した時に“長く頑張れ”と言葉を頂いた」と振り返った。
深夜の誓いからわずか47日後の悲劇…。9月23日の羽田空港での暴行容疑による逮捕から釈放された同25日に都内の自宅付近で取材した花里雄太記者(38)が、事件を反省し、今後に向けた決意などを熱く語っていた「昭和生まれの明治男」の当時の様子を振り返った。
まさか、こんな最期を迎えるとは、今でも信じられない。ヤクルトがセ・リーグ連覇を決めた9月25日の午後10時頃。今回亡くなられた自宅近くの公園で村田さんの口調は熱を帯びていた。
記者は現役時代を知らず、昔の映像やマスターズリーグでの投球しか見たことがなかった。頑固一徹な性格で「昭和生まれの明治男」とも呼ばれるレジェンドの初取材で、しかも釈放直後。緊張しながら現場へ向かった。70歳を過ぎても大柄な体格を維持し威圧感も感じたが事件の経緯を丁寧に話してくれ、いつしか緊張は解けていた。「触れたのは事実は事実。女性に誠心誠意、謝りたい」と何度も口にしていた女性への謝罪とともに「夢と希望を伝授しながら行動は責任を持ってやっているつもりだった」と子供達への裏切りだと自責の念に駆られていた。
村田さんは08年に全国離島交流中学生野球大会(通称・離島甲子園)を提唱。全国の離島を精力的に巡り、大会や野球教室を開催していた。その中から昨秋ドラフトで佐渡島出身の菊地大稀投手が巨人入り。4月の1軍デビューを喜んでいた。自らの失態を深く反省した上で、今後について「75、76歳で(活動を)やめようと思っていたけど人生に引退はない。子供達のために80まで頑張る。老体にムチを打って骨が折れるかもだけど」と野球界への恩返しを続けることを誓っていた。
話の合間には動画班の持っていたハンディーカメラをフォークの握りでつかむパフォーマンスも披露した。スタッフがカメラを揺すっても外れず「なめんなよ」とニヤリ。伝家の宝刀・フォークを投げ続けた、衰え知らずの指先の力にも驚いた。
まだまだ野球界のために貢献してくれるものだと信じていた。現役時代は「サンデー兆治」とも呼ばれた村田さん。あの深夜の誓いも日曜日だった。わずか47日後に届いた悲報。今はただ、心よりご冥福をお祈りしたい。
村田氏の古くからの友人で札幌市で焼き肉店を営む金淳姫さん(72)は突然の訃報に「ショックです。つい先日、色紙とボールを頂いて…。これが形見になってしまった」と悲しんだ。
村田氏がダイエー(現ソフトバンク)のコーチを務めていた95年頃からの付き合い。暴行容疑で逮捕された直後の9月30日には金さんの元に「頑張って生きます」とのショートメールが届いた。金さんは「頑張って生きるとおっしゃっていたのに…。本当に残念です」と話した。
ダイナミックな「マサカリ投法」で人気を集めた元ロッテ投手の村田兆治(むらた・ちょうじ)氏が11日、東京都世田谷区成城の自宅で発生した火事で死亡した。72歳。広島県出身。死因は煙を吸ったことによる一酸化炭素(CO)中毒とみられる。通算215勝で現役引退後も球界発展のために尽力。9月に羽田空港で暴行事件が起きてから2ヶ月。あまりにも衝撃的な最期となった。
高級住宅街の成城にある村田氏宅が出火したのは11日午前3時10分頃。2階リビングが激しく燃えていた。駆けつけた消防隊は同じ階の小部屋で部屋着姿の村田氏を見つけたが、既に意識はなく、壁などに寄りかかるように床に座った状態だった。午前5時57分に、搬送先の病院で死亡が確認された。
警視庁成城署によると、村田氏が発見された小部屋は燃えた部分が少なく、死因はCO中毒とみられる。火元はリビングとみているが、暖房器具やタバコなど出火の原因につながりそうなものは見つかっていない。
当時、住宅には村田氏しかいなかった。近隣住民は「奥さんは7、8年前、父親を介護するため神戸市の実家に戻ったと聞いた」と話しており、長く独り暮らしだったとみられる。
署によると、外部から侵入された形跡はなく、目立った外傷もなかった。遺書なども見つかっていない。署は失火と放火の両面で捜査する方針で、出火の原因を調べている。
村田氏は1967年ドラフト1位で東京オリオンズ(現ロッテ)に入団。独特の「マサカリ投法」で人気を集めた。83年、日本球界で初めて右肘の靱帯再建手術(通称トミー・ジョン手術)を受けた。85年に復活すると開幕11連勝。主に日曜日に投げていたことで「サンデー兆治」の愛称で呼ばれ社会現象となった。
現役引退後、05年に野球殿堂入り。60歳を超えても130キロ台の直球を投じた。離島を巡る野球教室などもライフワークにしており、今年9月にはなじみの中華料理店を訪れ「次世代の育成に力を入れていかなきゃね」と意欲を燃やしていた。
だが、同月23日、羽田空港で保安検査員の肩を押したとして暴行容疑で現行犯逮捕。釈放後は家にこもりがちだったという。「年なのでそろそろ家を売ってマンションに住もうと思ってる」。親しい知人にはこう漏らしていた。先月24日に発表された沢村賞の選考委員も辞退するなど事件の影響が色濃く残っていた。
赤黒い大きな炎が寝静まった街に立ち上った。ガラスの割れるパリンという音が何度も響いた。驚いて外に出た近所の男性(74)は「(村田氏宅の)2階からさらに3〜5メートル、火が上がっているのが見えた」と119番通報した。ポンプ車など26台が駆けつけ、一帯がけたたましいサイレンの音に包まれた。隣に住む60代男性は複数の救急隊員が村田氏を運び出す様子を目撃。村田氏がいた2階の玄関から外階段に並んだ隊員がリレー方式で地上に下ろした。待機していたストレッチャーに乗せると、懸命な心臓マッサージが続いた。同居人はいなかったことから、隊員は隣人の男性に村田氏の顔で間違いないか確認。男性は「やけどなどはしておらずきれいな顔でした。あまりにもショックで言葉がありません」と声を震わせた。
村田氏の「ホーム」でもある元川崎球場の「川崎フロンターレ富士通スタジアム川崎」も即座に反応した。隣接する管理事務所内に献花台を設置し、同氏の関連グッズ約20点も展示された(20日まで)。田中育郎支配人(54)は「ファンの方にここを思い出してもらいたい」とコメント。終了時間の午後8時までに約100人が訪れ、埼玉県在住の会社員・中原隆世さん(26)は「悲報を聞き初めて来ました。びっくりしています」と話した。
ロッテのテスト生として、ZOZOマリンで行われている秋季練習に参加している元オリックスで、今季はBCリーグ新潟でプレーした吉田一将投手とロッテ、阪神などでプレーし、今季同リーグ・栃木に所属した高野圭佑投手がシート打撃に登板した。
首脳陣が見守る中で、吉田は売り出し中のダイナマイト山本に右中間フェンスを直撃する一撃を浴びたが、145キロの直球を軸に変化球を交えながら、低めに球を集めた。高野は最速152キロの直球をマークし、力強さをアピールした。
吉井監督は「2人とも特徴を出してくれた。あとは今いるメンバーの構成の絡みをみて、合否をみんなで判断していきたい」と、時間をかけて判断する方針だ。
ロッテナインは11日、ZOZOマリンで秋季練習最終日を行った。この日、球団OBの村田兆治氏の訃報が飛び込んできたことで、場内には半旗が掲げられ、昼には黙祷も行われた。
現役時代に「サンデー晋吾」としてブレークした小野晋吾投手コーチが取材対応。「サンデー兆治」と呼ばれた村田氏の背番号29を継承し、「嬉しい反面、偉大な方だったので、現役時代は背番号を汚さないようにと必死だった」と振り返った。
01年には対談した経験もある。「とにかく体幹、指の力をしっかりと鍛えなさい」とアドバイスされたこともあった。「長く頑張れ」と、エールも送られた。
「ロッテの29番というのは村田さんが長く付けられた背番号だったので、僕としては成績で及ばなくても、長くプレーできるようにと思ってきた。その後、西野に託したときもうちの29番は特別だから、とにかく長く背負えるように言葉を掛けた」。
通算22年で215勝をマークしたレジェンドに対して、小野コーチは20年で85勝―。特別な背番号を知る者だけに許される話だった。
ロッテ・吉井監督が球団レジェンドである村田兆治氏の訃報に、「素晴らしい、尊敬する野球人と思っていました。残念です」と沈痛な表情を浮かべた。
接点の少なさそうな2人だが、意外なところで交流もあった。吉井監督がプロ5年目だった頃、「まだ、駆け出しのクローザーだった」という1988年の初出場した球宴だ。
「兆治さんから“一緒に練習しよう”と声をかけてもらい、ポール間をめちゃくちゃ走って、腹筋も1000回した。球宴後1週間ぐらい調子が悪かったが、一流になるには、これくらいやらないとダメなんだなと思いました」と思い出を語った。
指揮官の右肘には手術の痕が残るが、それでも若い頃に医師から勧められたトミー・ジョン手術だけは断った。「兆治さんのリハビリを見ていると、あんなにできる自信がなかった。あそこまで根気強くリハビリする勇気が自分にはなかった」と振り返った。
元プロ野球選手の村田兆治さん(72)が11日午前5時57分に亡くなった。死因は一酸化炭素中毒とみられる。
ソフトバンクの王貞治球団会長(82)は突然の悲報に「ホークス監督時代に3年間一緒にやってくれましたが、随分と苦労をかけてしまった。最近でも離島の子供達に元気に野球を指導していたので、まさかこんなことになるとは思わなかった。ご冥福をお祈りします」とコメントを発表した。
村田さんは王会長がダイエー監督1年目だった1995〜97年の3年間、1軍投手コーチを務めた。当時は勝てない時期も続き3年連続Bクラス。王監督と苦しい時代をともに過ごし、現在の常勝軍団の礎を築いた。
スポニチ本紙評論家の鈴木啓示氏が、11日未明に死去した村田兆治さん(72)を惜しんだ。コメントは以下の通り。
寂しすぎて、残念で、言葉がない。朝5時過ぎに起きてテレビを付けたら、自宅が火事になったというニュースが飛び込んできて…。本当に、色々な亡くなり方があると思うが、この最期は寂しすぎる。こんな死に方は本当に悔しいし、辛いし、ガッカリした。畳の上で死ねるというのが、いかに幸せなことか…。
現役時代の彼はまさしくパワーピッチャーだった。兆治も俺と同じく不器用なタイプ。マサカリ投法という、あの投げ方は彼にしかできない。人に教えられたものではなく、自分で作り上げたもの。人に何を言われようと“俺はこの投げ方でやるんだ”という自負を持って戦っていた。
最近は羽田空港の一件が話題となったが、決してカッとするような男ではなかった。気持ちの優しい、不器用なタイプで、野球一筋でやってきたような男だった。
典型的なパワーピッチャーだったから、肘に負担が掛かって手術もした。当時は野球選手が肘にメスを入れたら終わりと言われた時代だったが、兆治はメスを入れて復活を遂げた。それ以降、他の選手も続々とメスを入れるようになった。他の選手に、勇気を与えることになったと思う。
引退後も野球界に貢献を…ということで、彼は離島に野球を教えに行ったりしていたよね。安らかに眠ってくれと言われても兆治にしてみたら、そうはいかないだろう。志なかばに違いない。
元巨人監督で野球評論家の堀内恒夫さん(74)が11日、自身のブログを更新。自宅で起きた火災により、同日未明に72歳で亡くなった元ロッテ投手、村田兆治さんの訃報に「言葉にならない」と絶句した。
「村田兆治」のタイトルでブログを更新。「村田兆治の自宅で火災が発生し村田本人が亡くなったと聞いた。この歳になっても沢村賞選考委員会やドリームベースボールで顔を合わせていた」とし、評論家として契約している新聞社の取材を受けたことを明かした上で「今はそれが精一杯」「心よりご冥福をお祈り申し上げます。合掌」と結んだ。
警視庁などによると、11日午前3時10分頃、東京都世田谷区成城にある村田さんの自宅2階から出火。同3時13分に近隣住民が119番通報した。村田さんは搬送時に意識不明の重体で、午前5時57分に都内の病院で死亡が確認された。死因は一酸化炭素中毒とみられ、今後解剖される見通しとなっている。火災が発生した自宅は地上2階、地下1階。村田さんは火災発生当時、自宅に1人でおり、2階部分で発見された。建物2階部分の40平方メートルが焼け、1階部分はほぼ燃えていなかったという。
1948年1月生まれの堀内さんは、49年11月生まれの村田さんより2学年上。現役時代に堀内さんは通算203勝、村田さんは同215勝をマークし、ともに「名球会」入りした。堀内さんが委員長を務める沢村賞選考委員会では村田さんも選考委員の1人だったが、10月24日に都内で開かれた今年の選考委員会では9月に羽田空港で保安検査員の肩を押したとして暴行容疑で現行犯逮捕、送検されていた村田さんが選考委員を辞退したと発表されていた。
また、名球会も公式サイトで「日本プロ野球名球会会員の村田兆治さんが2022年11月11日にご逝去されました」と訃報を伝え、「ご生前のご功績を偲び、謹んで哀悼の意を捧げますとともに、心からご冥福をお祈りいたします」と追悼している。
元プロ野球選手の村田兆治さん(72)が11日午前5時57分に亡くなった。死因は一酸化炭素中毒とみられる。
ソフトバンクの藤本監督は現役時代の95年〜97年に1軍投手コーチと選手の関係だった。この日、オンライン対応し「本当に急なことで亡くなったと聞いて“えっ”と思った。村田さんとはピッチングコーチと選手という形。王会長が監督の時に村田さんはピッチャーを全般的に見ていたけど、その時によく声をかけてもらった。試合に出られたなかったら“腐るなよ”と。そういう言葉ももらったから、凄く寂しい思いです」と神妙に語った。
ロッテは11日、チームの公式サイトで、この日未明の火災で死去した元ロッテ投手の村田兆治さん(享年72)の追悼コメントを掲載した。
「訃報」と題した投稿で「東京オリオンズ、ロッテオリオンズに在籍、1968年から1990年まで22年間活躍された村田兆治氏が11月11日(金)未明、お亡くなりになりました。(享年72歳)」と伝え、「ここに故人のご冥福をお祈りし、謹んでお知らせ申し上げます」と哀悼の意を示した。
さらに「村田氏は通算215勝を挙げ、その独特でダイナミックな投球フォームはマサカリ投法と呼ばれ、ファンに愛されました」と、現役時代の功績を記した。
11日午前3時10分頃、東京都世田谷区成城の村田さんの自宅2階から出火し、約40平方メートルが焼けた。警視庁などによると、意識不明で病院に搬送された村田さんの死亡が確認された。
チームは村田さんを偲び、この日、ZOZOマリンで行われた秋季練習で半旗を掲げた。
ロッテのテスト生として、ZOZOマリンで行われている秋季練習に参加している元オリックスで、今季はBCリーグ新潟でプレーした吉田一将投手とロッテ、阪神などでプレーし、今季同リーグ・栃木に所属した高野圭佑投手がシート打撃に登板した。
首脳陣が見守る中で、吉田は売り出し中のダイナマイト山本に右中間フェンスを直撃する一撃を浴びたが、145キロの直球を軸に変化球を交えながら、低めに球を集めた。高野は最速152キロの直球をマークし、力強さをアピールした。
吉井監督は「2人とも特徴を出してくれた。あとは今いるメンバーの構成の絡みをみて、合否をみんなで判断していきたい」と、時間をかけて判断する方針だ。
元プロ野球選手、村田兆治さん(72)さんが今日未明の火災で死去したことを受け、DeNAの三浦大輔監督も追悼した。
この日は横須賀市内での秋季トレーニング第3クール初日。練習前に取材陣に対応した指揮官は「先ほど知ってびっくりしています。球場でお会いしたときは声を掛けて頂いた。頑張れよって凄く気さくに声を掛けて頂いた。食事に行ったりとかそういうことはなかったけど、びっくりしています。ご冥福をお祈りします」と話した。
元広島のエースで野球解説者の北別府学さん(65)が11日、自身のブログを更新。この日未明に死去した村田兆治さん(72)を追悼した。
北別府さんは「野球の一本道を歩んで来られた方」のタイトルで更新。「尊敬する村田兆治先輩 一緒に様々な仕事をさせていただきました 同じ投手出身ということもあり 何かと声をかけて頂きました 私の闘病前、最後にお会いした際も今後も野球野球の環境が整っていない地域の子供達へ一緒に野球を教えに行って欲しいと頼まれていました」と思い出を振り返った。
「いつお会いしても野球の話しかされない方、一本気であり本当に野球の一本道を歩まれてきた方でした」とつづり、「もう1度お会いして野球の話がしたかった!心よりご冥福をお祈りしています」と追悼した。
11日午前3時10分頃、東京都世田谷区成城の村田さん自宅2階で火事が発生、約40平方メートルが焼けた。警視庁などによると意識不明で病院に搬送された村田さんの死亡が確認された。
11日午前3時10分頃、東京都世田谷区成城の元プロ野球選手、村田兆治さん(72)宅の2階で火事が発生、約40平方メートルが焼けた。警視庁などによると意識不明で病院に搬送された村田さんの死亡が確認された。
訃報を受け、ツイッター上では「村田兆治さん」がトレンド入り。往年のファンらにも衝撃が走った。
村田さんは1949年(昭和24年)、広島県生まれ。67年、福山電波工高(現・近大広島高福山)からドラフト1位で東京(現・ロッテ)に入団。69年に6勝をマークし、71年には後に代名詞となる「マサカリ投法」で投げるようになり、ロッテが日本一になった74年にはシーズン12勝、日本シリーズ第6戦で完投勝利を収め、胴上げ投手に。シリーズ最優秀投手賞を受賞した。
75、76年にパ・リーグの2年連続最優秀防御率、81年に開幕11連勝で最多勝のタイトルを獲得するなどリーグを代表する投手だったが、82年に肘を痛め、83年に渡米しフランク・ジョーブ博士による左腕の腱を右肘に移植するトミー・ジョン手術を受けた。
85年に開幕から11連勝するなど、17勝5敗の成績でカムバック賞を受賞。日曜日に先発しては白星を重ねることから「サンデー兆治」と呼ばれた。89年5月13日の対日本ハム戦で通算200勝を達成。この年、3度目の最優秀防御率のタイトルを獲得した。
90年に引退。22年の選手生活での通算成績は604試合に登板し、215勝177敗33セーブ、防御率3.24だった。通算148の暴投数は日本記録。その生きざまを表現した「昭和生まれの明治男」は90年の新語・流行語大賞の特別部門人語一体・語録賞に選ばれた。
華々しい実績の一方で、今年9月には羽田空港で保安検査員の女性の肩を押したとして暴行容疑で現行犯逮捕。その後釈放されたが、10月には沢村賞の選考委員を辞退していた。
ネットでは「何故これほどの偉大な選手がこんな最期を…」「こんな悲しい最期…」「野球観戦が好きになったきっかけを作ってくれた選手です。どうか安らかに」「仲本工事さんもそうだけどこんな亡くなり方悔しいなぁ」「こんな最後はあんまりだよ」「夢中になって見てた中学時代のヒーローの1人です」「火災だなんて本当にショックです」「悲しい晩年」などとコメントが寄せられた。
ロッテは11日、球団OBの村田兆治氏の死を悼み、ZOZOマリンで行われた秋季練習では、半旗を掲げた。
村田氏は1968年に入団し、「マサカリ投法」と呼ばれた豪快な投球フォームから通算215勝をマークした。
11日午前3時10分頃、東京都世田谷区成城の元プロ野球選手、村田兆治さん(72)宅の2階で火事が発生、約40平方メートルが焼けた。警視庁などによると意識不明で病院に搬送された村田さんの死亡が確認された。
午前3時13分に近隣住民が119番通報した。村田さんは搬送時に意識不明の重体で、午前5時57分に都内の病院で死亡が確認された。死因は一酸化炭素中毒とみられ、今後解剖される見通し。
火災が発生した自宅は地上2階、地下1階。村田さんは火災発生当時、自宅に1人でおり、2階部分で発見された。建物2階部分の40平方メートルが焼け、1階部分はほぼ燃えていなかったという。
火事を通報した、近隣に住む74歳男性が当時の状況を克明に語った。
「(午前)3時すぎにガラスがパリンと割れる音がした。空き瓶を地面にたたきつけるような音がして、ベランダに出たら、2階からさらに3メートルから5メートル、火が上がっているのが見えて119番通報した」とした。「かすかに焦げ臭い、焼けてる匂いがした。目の前でこういうことがあって怖かった」と振り返った。
村田さんとの関わりはあまりなかったというが、「夜でも家が暗いことが多かったので、外出が多いのかなという印象だった。野球の普及活動で活躍されていたので大変残念」と話していた。
中日・立浪監督が11日、報道陣の取材に応じ、この日未明に死去した村田兆治さん(72)を追悼した。
「突然の訃報で驚いています。野球に対して素晴らしい向き合い方をされていましたし、憧れでもありました。このような形でお亡くなりになり残念です。ご冥福をお祈りいたします」とコメントした。
11日午前3時10分頃、東京都世田谷区成城の村田さん自宅2階で火事が発生、約40平方メートルが焼けた。警視庁などによると意識不明で病院に搬送された村田さんの死亡が確認された。
元ロッテ、中日で活躍した愛甲猛氏(60)が11日、自身のツイッターを更新。この日未明に死去した村田兆治さん(72)を追悼した。
愛甲氏は「本当にショックです」と突然の訃報に驚き「ついこの間江本さんとYouTubeで村田兆治さんの話をしたばっかりなのに。素晴らしい野球人でした。御冥福を御祈り致します」と故人を悼んだ。
11日午前3時10分頃、東京都世田谷区成城の村田さん自宅2階で火事が発生、約40平方メートルが焼けた。警視庁などによると意識不明で病院に搬送された村田さんの死亡が確認された。
突然の悲報に朝から言葉を失った。11日午前3時10分頃、東京都世田谷区成城の元プロ野球選手、村田兆治さん(72)宅の2階で火事が発生、約40平方メートルが焼けた。警視庁などによると意識不明で病院に搬送された村田さんの死亡が確認された。
村田さんは、9月23日午後、逮捕容疑は羽田空港第1ターミナル北ウイングの検査場で、30代の女性検査員の左肩を右手で押すなどした疑いで現行犯逮捕されていた。携帯電話を手にしており、金属探知機に何度か引っかかったことに腹を立てたとみられ、右手で左肩を押したという。
同25日、東京空港署での釈放から数時間後、記者が帰宅した村田さんを直撃すると「じゃあ、そっちへ」と、夜10時過ぎの訪問にも関わらず、近くの公園で今回の経緯について話してくれた。90年に現役を引退しており、記者はギリギリ、現役時代を知らない世代。頑固一徹な性格から「昭和生まれの明治男」とも呼ばれており、かなりの緊張感を抱きながら現場へ向かったが、実際に会ってみると、印象はガラリと変わった。「(女性が)前にきたから“どいて”と。まさか、それが暴力になるとは…」と戸惑いつつも「触れたのは事実は事実。女性に誠心誠意謝りたい」と反省の弁を口にし、さらに新聞紙を切り抜くためにスーツケースに入れたままだったはさみも事を大きくしてしまったと丁寧に説明してくれた。話の合間、動画班の持っていたハンディカメラをフォークの握りでつかむパフォーマンスも披露。スタッフがカメラを揺さぶっても外れず、伝家の宝刀・フォークを投げ続けた指先もまだまだ健在だった。
何度も口にしていたのは「女性への謝罪」とともに「子供達への裏切り」だった。村田さんは、全国離島交流中学生野球大会(通称・離島甲子園)を提唱。次世代を担う人材の育成を目的に全国の離島を巡って、大会の開催や野球教室などを精力的に行っていた。それだけに「子供達に夢と希望を伝授しながら、行動は責任を持ってやっているつもりだった」と自責の念に駆られていた。
今後について「もうすぐ73歳。75、76で(活動を)やめようと思っていたけど、人生に引退はない。子供達のために80まで頑張る。老体にムチを打って骨が折れるかも分からないけど」と野球界への恩返しを続けることを誓っていた。過ちを犯した過去は変えられないが、未来は変えられる−。あの深夜の誓いからわずか47日。悲しい最期に、今はただご冥福をお祈りするしかない。
「今、出せる力は出し切った」「悔いはないです」−。11月8日、仙台・楽天生命パークで行われた12球団合同トライアウトを取材した。多くの選手が同じような言葉を口にした。きっと、後悔なら現役時代に数え切れないほどしてきたのだろう。自らの人生に刻む刻印として、最後の持てる力を全て出し切る。緊張から解き放たれ、誰もがどこか晴れやかな顔をしていた。
今年は計49人が参加した。合格率は5%前後といわれる狭き門。仮に合格、NPB球団と再契約を結んでも、そこから第一線で何年活躍できるか。本人の努力や覚悟はもちろんだが、それだけでは通用しないのもプロ野球の世界だ。彼らはそんな厳しい世界に再び身を投じようと、トライアウトに挑戦する。
記憶に残っているのは15年の12球団合同トライアウト。静岡・草薙で開催され、西武を戦力外になった田中靖洋投手を取材した。同投手は15年にプロ初勝利を挙げたばかりで、当時28歳。トライアウトでは参加選手最速の147キロをマークし、その後秋季キャンプでのテストを経てロッテに入団した。今季限りで現役を引退したが、ロッテでは貴重な中継ぎの一員として7年間プレー。プロ野球人生17年は立派の一言だ。一方で彼のように、トライアウトを挟んで長くプレーする選手はまれなケースともいえる。
今回のトライアウトは3年ぶりに有観客で開催された。入場料は500円。3141人の観客が集まったが、選手の家族、関係者も多かった。現役を引退した元ヤクルトの坂口智隆氏、巨人に移籍した長野久義も仲間を応援しようとやってきた。終了後。正面出口にはトライアウトを終えた選手を待つ家族らの姿があった。照れくさそうに出てくる選手。時折、拍手も起こる。最後の晴れ姿−。たとえ合格はできなくても、そう心に刻んでプレーした選手もいただろう。悔いはない。この日は誰もが主役だった。
11日午前3時10分頃、東京都世田谷区成城の元プロ野球選手、村田兆治さん(72)宅の2階で火事が発生、約40平方メートルが焼けた。警視庁などによると意識不明で病院に搬送された村田さんの死亡が確認された。
村田さんは今年9月、羽田空港で保安検査員の女性の肩を押したとして暴行容疑で現行犯逮捕。その後釈放されたが、10月には沢村賞の選考委員を辞退していた。
村田さんは1949年(昭和24年)、広島県生まれ。67年、福山電波工高(現・近大広島高福山)からドラフト1位で東京(現・ロッテ)に入団。69年に6勝をマークし、71年には後に代名詞となる「マサカリ投法」で投げるようになり、ロッテが日本一になった74年にはシーズン12勝、日本シリーズ第6戦で完投勝利を収め、胴上げ投手に。シリーズ最優秀投手賞を受賞した。
75、76年にパ・リーグの2年連続最優秀防御率、81年に開幕11連勝で最多勝のタイトルを獲得するなどリーグを代表する投手だったが、82年に肘を痛め、83年に渡米しフランク・ジョーブ博士による左腕の腱を右肘に移植するトミー・ジョン手術を受けた。
85年に開幕から11連勝するなど、17勝5敗の成績でカムバック賞を受賞。日曜日に先発しては白星を重ねることから「サンデー兆治」と呼ばれた。89年5月13日の対日本ハム戦で通算200勝を達成。この年、3度目の最優秀防御率のタイトルを獲得した。
90年に引退。22年の選手生活での通算成績は604試合に登板し、215勝177敗33セーブ、防御率3.24だった。通算148の暴投数は日本記録。その生きざまを表現した「昭和生まれの明治男」は90年の新語・流行語大賞の特別部門人語一体・語録賞に選ばれた。
引退後は解説者、評論家を経て95年から3年間、ダイエー(現・ソフトバンク)の1軍投手コーチを務め、05年に野球殿堂入り。野球を通しての離島振興をライフワークとし、離島の中学校による野球大会「離島甲子園」を開催。引退後も140キロの速球を投げていた。
11日午前3時10分頃、東京都世田谷区成城の元プロ野球選手、村田兆治さん(72)宅から出火、2階部分の約40平方メートルが焼けた。
警視庁によると男性1人が意識不明の状態で病院に搬送された。成城署が身元の確認を急いでいる。
ロッテは11日、OBの村田氏を悼み、ZOZOの秋季練習で半旗を掲げ、選手らが黙祷を行った。吉井理人監督(57)は「素晴らしい野球人、尊敬する野球人だったので残念」と無念の思いを口にした。
指揮官にとって、思い出深い出来事がある。近鉄時代の88年、当時5年目の吉井監督はオールスターに初出場。リリーフとして駆け出しの頃だったが、村田氏から「一緒に練習しよう」と声をかけられたという。「すごい練習させられましたよ。ポール間走をガーって走らされて、腹筋1000回くらいさせられて。オールスター明け1週間くらい調子悪かったのを覚えてますよ」と懐かしみ、「これくらい練習しないと一流になれないんだなと感じましたね」と実感を込めた。
村田氏はトミー・ジョン手術から復活した投手の先駆者として、カムバック賞も受賞。「本当に野球に真摯に取り組むすごい選手だった」と吉井監督は突然の別れを惜しんだ。
“マサカリ投法”で知られ、通算215勝の元ロッテ投手・村田兆治(むらた・ちょうじ)さんが11日、死去した。72歳だった。この日午前3時10分頃、東京・世田谷区成城の自宅から出火。村田さんは意識不明の状態で病院に搬送されたが、午前5時57分、死亡が確認された。死因は煙を吸ったことによる一酸化炭素(CO)中毒とみられ、警視庁成城署などが火災の原因を調べている。
突然の悲報が球界を襲った。村田さんの自宅から煙が上がったのは午前3時過ぎ。通報した70代男性は「ガラスが壊れる音が段々と大きくなり、自宅のベランダに上がると炎が5メートル近く上がっていたので通報した」と振り返った。消防が到着したのは約10分後。火が消し止められたのは、約2時間半後だった。
警視庁によると、村田さんは約40平方メートルが焼けた2階建て住宅の2階から意識不明の状態で運び出され、その後死亡が確認された。自宅から運ばれる村田さんを見た60代男性によると、ストレッチャーに乗せた後、心臓マッサージ、酸素吸入などの応急処置が行われ「ぐったりしていて大丈夫なのかなと。下着のような丸首のシャツに、下はパンツのみでした。今も動揺しています。残念」と話した。
成城署は死因について、煙を吸ったことによる一酸化炭素(CO)中毒の疑いがあると発表した。遺体は同署に安置され12日以降に解剖を行う予定。出火元は激しく燃えていた2階のリビングとみられるが、出火原因は不明。村田さんはリビングとは別の衣服や固定電話などが置かれた小部屋で、部屋着を着用し椅子ではなく床に座った状態で発見された。寝室は1階の半地下にあった。玄関は施錠され侵入の形跡もないため、放火の可能性は低いとみられる。また、重度のやけどや目立った外傷もなかった。部屋ではたばこなどは見つかっておらず、遺書などもなかったという。
火災当時は自宅内には他に誰もいなかった。球界関係者によると、淑子夫人は母親の介護のため離れて暮らしていたという。近隣住民の80代女性は「以前挨拶したことはあったけど、最近は全然見なかった。誰かが居るかもあまり分からなくて」と話し、60代男性は「2、3週間前に挨拶だけしたよ。ちょっと人目を避けているように見えた」と近況を語った。
村田さんは9月23日、羽田空港の保安検査場で、女性検査員の肩を手で押したとして、暴行容疑で逮捕されていた。釈放の際、「改めてもう1度深くお詫びさせていただきます」と謝罪したが、その後は公の場に姿を見せていなかった。
1967年、福山電波工高(現近大広島高福山)からドラフト1位で東京(現ロッテ)入り。71年頃から始めた「マサカリ投法」で頭角を現し、74年には12勝を挙げチームの日本一に貢献した。速球とフォークを武器に75、76年に最優秀防御率、81年には最多勝に輝いた。
82年に右肘を痛め、様々な治療を試みるが回復せず、83年にフランク・ジョーブ博士により左腕の腱を右肘に移植するトミー・ジョン手術を受けた。懸命のリハビリを乗り越え、85年には17勝5敗の好成績でカムバック賞を受賞。肘の負担を考慮し、中6日の間隔を空け日曜日ごとに先発。勝ち星を重ね「サンデー兆治」と称賛された。
89年には通算200勝を達成。90年に現役は引退したものの、体の鍛錬を欠かさず、OB戦やテレビ番組で60歳を超えても130キロを超える球速をマークした。05年に野球殿堂入り。08年から全国の離島の交流を目的とした中学生の野球大会を開催するなど、社会貢献活動にも力を入れていた。
「人生先発完投」。
兆治さんの座右の銘だった。名刺にもその言葉を入れていた。サインを求められると脇に記した。
現役最終年となった90年には10勝をマーク。最終登板でも145キロを計測した。だが潔くユニホームを脱いだ。数年前にインタビューした際、その時の心境をこう明かしてくれた。
「先発完投へのこだわりがあったから。100球を投げて試合を作って交代というのは、自分の生き方と違う。最後まで投げられないなら、潔くやめようと。それからは『人生先発完投』に、目標を変えたんだ」。
通算184完投を誇るレジェンドに私は聞いた。完投する上で、1番難しいのは何イニング目ですか?
しばらく熟考した後、目を見開いて言った。
「そりゃあ9回だよ。『あと3人だけ』と心にスキができる。これが1番の大敵なんだ。1番のライバルはいつでも己なんだよ」。
「昭和生まれの明治男」と呼ばれた兆治さん。本人の口から語られるエピソードは、現在の球界の常識からかけ離れたものばかりだった。
右肘痛に見舞われると、シーズン中の5月にもかかわらず和歌山の山中にこもり1か月、滝に打たれて精神修行した。
右肘手術後の復帰戦では執刀医のジョーブ博士から「100球まで」と厳命されながら、155球で完投した。
遠征先の宿舎には、ロウソクを持ち込んだという。
「登板前夜には興奮して寝られなくなるから。『無』になる必要があったんだ。般若心経を唱え、部屋を暗くして、ロウソクに火をつけてね。座禅を組んで、炎を見つめる。すると、最後の消える瞬間に『パッ』と明るくなるんだ。散り際の、最後の一花というのかな。オレもこんな風に、完全燃焼したいと思ったね」。
現役時代は右肘痛の地獄から生還し、カムバック賞を受賞した。困難に直面し、はい上がろうとする人に希望を与えた。
そんな兆治さんの、生涯の“ラストイニング”が、自ら招いた部分があるとはいえ、ピンチの連続だったことが、実に悔しい。
「いいか、加藤君。人生の壁にぶつかった時、どうするか。1番大事なのは、執念だよ。終わり方が中途半端じゃ、悔いが残るだろ」。
兆治さん。どん底からのカムバックは、これからだったじゃないですか。“明治男”のいない野球界は、寂しすぎますよ。
通算215勝を挙げた元プロ野球投手の村田兆治さん(72)が11日に急死したことを受け、東京・文京区の野球殿堂博物館では村田さんのレリーフ(ブロンズ製胸像額)に花を飾り追悼した。
村田さんは2005年に競技者表彰部門で野球殿堂入りし、同館の殿堂ホールにレリーフが掲示されている。この日の開館前、職員が白いバラをあしらった花をレリーフの上に飾った。
同館では現在、村田さんに関する展示はないが、ゆかりの品を公開することも検討しているという。
元ロッテ投手・村田兆治さんの世田谷区成城の自宅2階で11日、午前3時10分頃火災が発生し、約40平方メートルが焼けた。煙が上がるのを目撃した近隣住民が通報した。
警視庁によると、村田さんは意識不明の状態で見つかり、病院に搬送されたが午前5時57分、死亡が確認された。成城署によると、出火元はリビングとみられ、消防が駆け付けた際、村田さんはリビング付近の小部屋で床に座っている状態で発見されたという。
火災当時、村田さん宅には村田さんしかいなかったとみられ、死因は煙を吸ったことによる一酸化炭素中毒の疑いがある。目立った外傷はなく、重度のやけどもなかったという。現時点では、遺書などは見つかっておらず、家族らに自殺をほのめかす発言などもしていない。
村田さんは9月23日、羽田空港第1ターミナル北ウイングの保安検査場で、30代の女性検査員の肩を手で押したとして、暴行容疑で逮捕(同25日に釈放)された。「改めてもう1度深くお詫びしてさせていただきます」などと謝罪した。その後、公の場に姿を現すことはなく、12月10日に予定されている日本プロ野球名球会が主催する記念試合(沖縄セルラースタジアム那覇)も欠席の意向を示していた。
ソフトバンク・王貞治球団会長兼特別チームアドバイザーが11日、この日亡くなった村田兆治さんを悼んだ。
球団を通じ「ホークス監督時代に3年間一緒にやってくれましたが、随分と苦労をかけてしまった。最近でも離島の子供達に元気に野球を指導していたので、まさかこんなことになるとは思わなかった。ご冥福をお祈りします」とコメントした。
王球団会長がダイエー(現ソフトバンク)の監督に就任した95年から3年間、監督と投手コーチとして共闘してきた2人。現在、新型コロナ感染で入院中の病床から無念の思いを明かした。
元オリックスでBC新潟でプレーした吉田一将投手と元阪神でBS栃木でプレーした高野圭佑が11日、ZOZOマリンで行われた秋季練習にテスト生として参加。吉井監督が見守る中、シート打撃に登板した。
吉田は山本に右中間フェンス直撃打を浴び、藤原には安打性の当たりを2本浴びたが松川を143キロの直球で見逃し三振に。この日の最速は145キロだった。
2番手の高野も山本に左前安打を浴びたが、藤原をこの日の最速152キロの直球で空振りさせるなど、勢いのある投球を披露。
指揮官は「高野は勢いの強いボール、吉田は丁寧にコントロールして低めに投げていたので。今日は変化球浮いてましたけどね。2人とも特徴は出してくれたと思います。あとは今いるメンバーでブルペンの構成とか、そういう絡みも含めて判断していきたい」と話した。
毎日怒られてばかりだった。1989年2月、新人カメラマンの私は鹿児島・鴨池球場でロッテキャンプを取材していた。当時はドラフト1位の前田幸長投手、そして200勝まであと2勝と迫った村田さんが注目されていた。一挙手一投足を逃すまいと追いかけた。グラウンドでストレッチをスタートすれば、至近距離で撮影。そして、怒られた。「バシャバシャ、カメラの音がとうるさい。グランドに出たらベテランもルーキーもない。お前もプロなら俺の撮影は1日3回しかシャッター押すな」。球界を代表する大投手、しかもこわもて。容赦なく厳しい言葉を浴びせられた。
開幕してひと月半、200勝に王手をかけてから足踏みをしていた。5月13日、山形県野球場での日本ハム戦。試合前の取材を終え、カメラ席に戻る前に3塁ベンチ裏のトイレで用を足していた。先発予定の村田さんが入ってきて、横に立った。「今日はいくぞ。しっかり撮れよ」。窓の外に向かって、つぶやいた。
その言葉が嬉しく、その後30数年、カメラマンを続ける励みとなった。予告通り、その試合で通算200勝を達成。しかし、紙面に掲載されたのは、助っ人として東京から来た先輩カメラマンが撮影した写真だった。村田さんの期待に応えられなかった。嬉しさと悔しさ。どちらも胸に残っている。
ソフトバンク・藤本博史監督が宮崎秋季キャンプ休日の11日、オンライン取材に応じ、村田兆治さんとの突然の別れを惜しんだ。
「急に亡くなったと聞いてね。えって思いますよね。村田さんは投手コーチ、僕は選手という形で、村田さんは投手の方を全般的に見てたんですけど、その中でよく声かけてもらった方なんでね、僕は。『試合出られなくても腐るなよ』とか、そういう言葉をもらったので、すごく寂しい思いですね。僕が現役時代、投手コーチはたくさんいましたけど、その中でも1番お世話になった、声をかけてもらったコーチかなと思います。本当、昭和の人ですからね。僕も昭和の人ですけど、僕以上にそういう男気ある人だったなと思いますね」。
村田さんは95〜97年にダイエー(現ソフトバンク)で投手コーチを務め、現役時代の指揮官もともに戦っていた。
ロッテは11日、球団OBの村田兆治氏が火災により亡くなったことを受け、球団公式ホームページで追悼の意を表した。
「東京オリオンズ、ロッテオリオンズに在籍、1968年から1990年まで22年間活躍されました村田兆治氏が11月11日(金)未明お亡くなりになりました。(享年72歳)。ここに故人のご冥福をお祈りし、謹んでお知らせ申し上げます。村田氏は通算215勝を挙げ、その独特でダイナミックな投球フォームはマサカリ投法と呼ばれ、ファンに愛されました」と掲載した。
ロッテの吉井理人監督が11日、ZOZOマリンで行われた秋季練習で報道陣に対応。OBの村田兆治氏の突然の訃報に無念の思いを明かした。
「本当に残念です。素晴らしい野球人、尊敬する野球人だったので、こういう形で去るのは残念です」。
村田氏は1968年に東京オリオンズに入団。「マサカリ投法」で知られ、プロ野球通算215勝177敗33セーブで最多勝1回など数々の功績を残し、05年には野球殿堂入りしていた。
「(右肘の)トミー・ジョン(手術)第1号っていう印象が強い。自分も若い時にトミー・ジョンを勧められたけど、村田兆治さんのリハビリを見てると、あんなにできる自信がなかったので僕はやらなかった」と明かした吉井監督。さらには88年の近鉄時代に初出場したオールスターでは「兆治さんのほうから声をかけてくれて『一緒に練習しよう』って言ってくれて。すごい練習させられましたよ。ポール間走をガーって走らされて、腹筋1000回くらいさせられて。そのあとオールスター明け1週間くらい調子悪かったのを覚えてますよ。でもこれくらい練習しないと1軍になれないんだなと、そういうのは感じましたね」と振り返りながら、突然の別れを惜しんだ。
名投手・村田兆治さんの火災による急逝を受け、親交のあった野球評論家の中日OB・谷沢健一さんが追悼のコメントを寄せた。
「リーグが違い、普段は対戦することがなかったが、1974年の日本シリーズの思い出が強烈だ。150キロを超えるストレートと、それに近いスピードのフォーク。お尻を突き出して真上から投げ下ろすフォームに圧倒されて、恐怖感さえ感じたものだ。最近は名球会の野球教室のドリームゲームで『投げてくれ』と言われても『以前のように投げられなくなった。そんな姿を見せたくない』と言って投げなくなった。『村田兆治』のイメージを守ろうとしていたのだろう。話好きで、野球教室でも常に一生懸命。熱心で、手抜きをしなかった。今は突然すぎてただ当惑している」。
11日午前3時10分頃、東京都世田谷区成城の元プロ野球選手で自営業村田兆治さん(72)宅の2階で火災が発生、約40平方メートルが焼けた。煙が上がるのを目撃した近隣住民が通報した。警視庁によると、村田さんは意識不明の状態で見つかり、病院に搬送されたが午前5時57分、死亡が確認された。出火原因などを詳しく調べている。
涙雨が絶え間なく降り注いだ。「やめるな!」「まだまだやれるぞッ!」。川崎球場を埋め尽くした2万2000人の絶叫が響く。ぬかるむマウンド。村田は左足を高く上げ、一瞬の静止を経て、力強く右腕を振り下ろした。90年10月13日、西武戦。最後の公式戦登板は、朝から小雨だった。天もまた「マサカリ投法」の終演に、泣いていた。
初回先頭。打者は辻発彦。外角直球はボールになったが、手を出されてファウルになった。「花を持たせてくれるのかな」。一瞬思ったが、違った。2球目スライダーを鋭く、中前にはじき返された。レオ打線は最後まで本気で襲いかかってきた。それが嬉しかった。
1死後。秋山幸二には全て直球で3球勝負。空振り三振に斬った。直後、一礼して打席に立つ23歳がいた。清原和博だった。真っ向勝負。ストレート2球で追い込み、3球目は143キロ。内角を突いた。レフトフライ。全力投球に若き強打者も、フルスイングで応じた。
雨脚が強くなり、グラウンドに水が浮く。5回終了、降雨コールド。4安打、4−0での“完封勝利”だった。シーズン10勝目。通算215勝、184完投。この日も最速は145キロを計測した。これが引退する投手の球威なのか−。村田は27年前を振り返り、言った。
「惜しまれてやめるのが、男の花道。先発完投へのこだわりがあったからね。100球投げて、試合を作って交代というのは、自分の生き方と違う。最後まで投げられないなら、潔くやめようと。野球の先発完投から『人生先発完投』に、目標を変えることにしたんだ」。
右肘手術から奇跡のカムバック。そこから59勝を積み重ねた。だが右肘など全身は痛んでいた。だましだまし現役を続けることは、人生哲学と相いれなかった。
この日の引退劇を、たまたま理髪店のテレビで見ていた男がいた。兆治と面識はなかったが、胸が熱くなり、去る寂しさを思った。帰宅後、心模様をワープロで打ってもらい、サインを添えた。自分で届けよう。確か成城に住んでいると聞いたことがある。行ってみたら、道に迷った。3時間かかって、村田家に着いた。兆治は不在だった。クルマの上に花束と手紙を置いた。
夜、兆治は家に帰った。誰からだろう。封筒を開ける。思わず目を疑った。
「長い間、本当にお疲れさまでした。高倉健」。
真っ直ぐな男と男の生き方が、交差した瞬間だった。
己の限界に挑み、強い気持ちで切り開いた野球人生。兆治は言う。「壁にぶつかったとき、どうするか。1番大事なのは、執念ですよ。苦しくても苦しくても、最後までやり遂げるというね」。今でもサインを求められると、「人生先発完投」と記す。=敬称略・終わり=
2人に面識はなかったが、健さんは83年公開の映画「居酒屋兆治」の主演を務めていた。原作は山口瞳の小説。健さんは居酒屋「兆治」を営む主人公の藤野英治を演じた。藤野は高校時代に投手で、村田兆治への憧れから店の名を「兆治」にしたという設定。野球好きの山口が、村田の全力投球に魅了されていたことが背景にあった。
マウンド上で足が震えた。こんなことは今までなかった。右肘手術から2年。完全復活を目指して迎えた85年シーズン。村田の開幕後初登板は4月14日、日曜日。川崎球場の西武戦だった。ロージンバッグを投げ捨て、第1投。マサカリ投法から放たれるストレートには、情念が込められていた。“投手・村田兆治”は死んでいない。オレは勝つ−。
「低めに投げて、ゴロを打たせるスタイルに変えたんだ。昔のことは忘れて、今の自分と向き合おう。そう言い聞かせていたよ」。
チームに白星をもたらすため、過去の自分とは決別した。直球で押しまくるのではなく、カーブやスライダーを織り交ぜ、勝負所では宝刀フォークを落とした。
執刀医のフランク・ジョーブからは「100球を超えないように」と厳命されていた。敬愛する恩人との約束だが、破った。先発完投という自らの信念は、制御できない。「これで投手生命が終わってもいい」。気迫がレオ打線を黙らせる。155球。2失点完投。1073日ぶりの勝利。胸の鼓動は今でも忘れない。
「感謝の1勝だったね。ケガする前は、野手をあんまり信用していなかったんだ。全部三振を取ればいいと思っていたから。でもね、あの試合で野手が言うんだ。『僕の所に打たせてくださいよ』って。だからオレも言った。『オレ、勝ちたいんだ。勝たせてくれよ』とね」。
力投のダメージは大きかった。登板翌日から3日間、右腕は痛み続けた。ボールを握られず、走るのみ。キャッチボールは4日目。投球練習は5、6日目にようやくできるようになった。
現役時代、「鉄腕」と呼ばれた監督の稲尾和久には、右肩痛に苦しんだ過去があり、兆治のよき理解者だった。当時は中4日が主流だったが、回復には十分な登板間隔が必要と判断。中6日で毎週日曜日に投げるローテを組んだ。これが語り継がれる「サンデー兆治」だ。復活劇を見届けようと、日曜日のロッテ戦には観客が押し寄せた。声援を背に兆治は開幕11連勝をマークした。肉体だけではない。心の鍛錬も熱投を支えた。
「遠征先にはロウソクを持って行った。登板前夜には興奮して寝られなくなる。『無』になる必要があったんだ。般若心経を唱え、部屋を暗くして、ロウソクに火をつけてね。座禅を組んで、炎を見つめる。すると最後の消える瞬間に『パッ』と明るくなるんだ。散り際の、最後の一花というのかな。オレもこんな風に、完全燃焼したいと思ったね」。
この年、全て先発で24試合に登板。17勝5敗、防御率4.30。地獄から生還した男には「カムバック賞」が贈られた。困難に直面し、はい上がろうとする人々に、希望を与えるニュースだった。=敬称略=
155球の復活完投劇は6−2で勝利。4番・落合博満が2打席連続の2ランでエースを援護した。「試合前に『落合、お前今日何本打つんだ?』と聞いたら『2本です』と答えたんだ。有言実行してくれたよな」と村田は回想。当時の紙面には落合のこんな談話が載っている。「あれだけ村田さんが頑張っているのに、打たない訳にはいかんよ。何とか勝ってもらいたい、というムードでいっぱいだった」。
2父の容体が急変した−。右肘手術からの復活を目指し、リハビリに没頭していた村田は、知らせを療養先の和歌山・白浜で聞いた。84年10月20日。すぐに夜行列車へ飛び乗り、故郷の広島へと向かった。翌朝、実家を訪れると、実父の与行(よしゆき)さんは危篤状態にあった。だが寄り添う兆治の手を握り、こんな言葉を発した。「お前に…オレの右腕を…やりたい」。
最後の一言だった。「最高の男になれ」との願いを込め、息子に「兆治」と名付けた明治男の死。村田は泣いた。そして誓った。おやじのためにも復活する。天国から見ていてくれ−。
鍛錬にも一層、熱が入った。朝6時から自宅近くの砧公園を走った。オーバーワークだけは避けねばならない。少しずつ強度を上げていくが、筋肉が落ちているのは否めなかった。「いつになったら投げられるのか」という焦りもあった。不安を打ち消すには、無心になるしかない。夜には座禅を組み、心を整えた。
師走、キャッチボール再開。84年2月のキャンプでは、遠投の距離が60メートルを超えた。希望が見えてきた。
復帰登板は慣れ親しんだ川崎球場のマウンドだった。84年5月31日、イースタン・大洋戦。公式戦の投球は実に745日ぶりだ。「実戦で投げても大丈夫だろうか…」。前夜は熟睡できなかった。そんなモヤモヤは初回、第1球で吹っ飛んだ。
打席には右の石橋貢。左足を高く上げ、一瞬静止し、力強く右腕を振り抜く。あの「マサカリ投法」が帰ってきた。内角高めのストレート。石橋がのけぞった。気負いがあったのか、ボールは上ずった。最速は137キロ止まり。でも良かった。全力で投げた。投げられた。
33年が経過した今でも村田は、あの時を覚えている。
「ゼロからの出発だったからね。ああ、ようやく帰ってこられたと。ケガした後には、何度も辞めようと思ったから。それが美学だとも思っていたし。ケガする前はね、打者の誰1人として、怖いと思ったことなんてなかったんだ。でもそんな過去は忘れて、地に足をつけてやっていこうと思っていたからね。頑張ってきて良かったと思ったよ」。
1イニングを打者5人、無安打ながら3四球に暴投もあって2失点。荒れたが、大きな大きな50球だった。
取材を終え、1人愛車のハンドルを握った瞬間、万感の思いがこみ上げてきた。右肘に激痛が走ったあの日から、滝に打たれた夜、手術に臨んだロサンゼルスの情景が脳裏に浮かんだ。止めどなく涙があふれ、決意した。復帰じゃ満足できない。目指すのはエースとしての完全復活である−と。翌85年。勝利への渇望は、「サンデー兆治」という名の社会現象を生み出す。=敬称略=
5月31日、イースタン・大洋戦(川崎)に先発し、745日ぶりに公式戦のマウンドへ立つと、8月12日には西武戦(札幌円山)で818日ぶりに1軍戦に登板。9回の1イニングを9球で3人斬りした。9月25日の日本ハム戦(川崎)では先発として5回を投げ2失点も、勝敗つかず。1軍では5試合に登板。0勝1敗、防御率6.00だった。
蒸し暑い東京とは随分違う。西海岸の風は乾いていた。83年8月20日。村田兆治と妻の淑子はロサンゼルスに到着した。右肘の痛みは原因不明で、国内では完全な治療が望めない。それでも村田の「もう1度、マウンドへ」との思いは募るばかりだった。ロッテは親交のあるドジャースへ相談。同球団の医療担当を務めるフランク・ジョーブ博士の診察予約を取ってくれた。
空港には「アイク生原」こと生原昭宏が出迎えた。早大野球部出身。卒業後は亜大野球部監督を経て渡米し、ド軍のフロントに入った。翌日、生原は不安の中にいた村田を「ドジャースの試合を見に行こう」と誘った。シーズン中にメジャーを生観戦する機会があるなんて…。超満員のドジャー・スタジアム。兆治はグラウンドを見つめながら、ふとこう漏らした。
「投げたいなあ」。
8月22日、初診察。村田夫妻はセンチネラ病院へとジョーブを訪ねた。あいさつを終え、村田は言った。「野球を続けたいんです」。触診後、ジョーブは告げた。「肘の腱が切れている。治したいなら、手術するしかない」。村田の脳裏を当時の“常識”がかすめた。「利き腕にメスを入れた投手は再起不能」−。
村田は手術を選んだ。決断の瞬間をこう回想する。
「米国にはトミー・ジョンというこの手術で復活した投手がいると聞いたから、オレにも意地があるってね。前代未聞の挑戦だから。次の世代に向けた実験台…モルモットになろうと思ったんだ。万が一、失敗したら、野球をやめてもいい。名誉の戦死なんだってね」。
淑子は結婚前に航空会社に勤務していたこともあり、英語が堪能だった。滞在中は通訳も務めた。兆治は冗談交じりに言った。「『手術を失敗したら、ただじゃおかんぞ』と言えよ」。困惑する妻に、すぐフォローした。「日本語が分からないから、大丈夫だよ」。
「8・24」という日付を、村田は忘れずにいる。手術室で兆治は祈った。「神様、どうか私を救ってください」。全身麻酔後、メスが入った。左手首の腱を右肘に移植する大手術。麻酔が切れると、ジョーブはほほ笑んだ。「成功だ。おめでとう」。それは同時に、長く過酷なリハビリが始まることを意味していた。
退院前、ジョーブは厳しい表情で覚悟を問うた。「君が復帰できるかどうかは、日本に帰ってからのリハビリ次第だ。肘が以前のように動かないなら、それは君自身の責任になる」。
村田は帰国後、食事と入浴時以外は常に、スポンジを握った。やがて軟式のテニスボール、そして1キロの鉄アレイへ変わった。季節は秋。心を奮い立たせ、復活に懸ける兆治に、故郷からつらい知らせが届いた。「お父さんの体が、急変したの…」=敬称略=
全米のスポーツ医学の権威で、長らくドジャースの医療部門に携わった。74年には左肘側副靱帯を痛めていた左腕のトミー・ジョンに対し、腱の移植手術に成功。手術前に124勝だった同投手は、以降46歳までプレーし、164勝を挙げた。今では90%以上の成功率を誇る同手術は「トミー・ジョン手術」と呼ばれ、肘の治療法として定着した。巨人時代の桑田真澄、ヤクルト時代の荒木大輔もジョーブ博士のもとで手術に臨んだ。14年3月6日、サンタモニカで死去。88歳だった。
利き腕にメスを入れた投手は再起不能−。80年代、当時の常識にあらがい、完全復活を遂げた剛腕がいた。男の名は村田兆治。右肘を手術した翌々年の1985年、開幕11連勝を含む17勝5敗でカムバック賞を受賞。毎週日曜日に勝ちまくったことから「サンデー兆治」と呼ばれ、不屈の精神は人々に感動を与えた。「マサカリ投法」で一時代を築いた、ロッテのエースの復活劇。その裏側に迫る。
漆黒の闇。光は見当たらない。それはまるで村田の心象風景そのものだった。21時を回った。本来ならカクテル光線に照らされた中、ヒーローインタビューに応じている時間だろうか。83年5月。エースは“職場”を遠く離れ、和歌山・白浜の山中を走っていた。
敵は強打者ではなく、己の心。暗い山道を疾走した。目的地は人里離れた大自然の水場にある小さな滝。12キロは走っただろうか。「魔の滝」とはよく言ったものだ。けたたましく響く水流が出迎えてくれた。22時。もう初夏とはいえ、山奥を流れる水は冷たい。村田は目を閉じ、両手を強く合わせた。頭上から激しい圧が押し寄せる。痛い。苦しい。そして思った。「生きているんだな、オレ」−。
話は前年の82年にさかのぼる。村田は32歳だった。それまで通算156勝を挙げ、球界を代表する投手として君臨してきた。このシーズンでも8年連続の開幕投手を務め、2完封を含む4勝と好発進していた。
異変は同年5月17日、川崎での近鉄戦で起きた。右肘に激痛が走る。初回に2点を取られ、8球投げただけで降板した。レントゲン検査の結果は「異常なし」。それでも痛みは消えなかった。タオルが絞れず、顔もまともに洗えない。戦線離脱。10以上の病院を回るが、原因は不明のまま。シーズンを棒に振った。
翌83年のキャンプイン。長い休養により痛みは消え、復活へ牙を研いだ。だがオープン戦を前に無情にも、痛みは再発した。1試合も登板できずに開幕。4月末、登録抹消。村田の心身はボロボロだった。「帰ってくる日は分からない」。妻・淑子にそう言い残し、白浜に向かった。己を見つめ直し、何かをつかみたかった。
今、当時を振り返る。
「滝に打たれながら、邪念や雑念を払って、無になっていくんだ。それはね、『受け入れる』ということ。自分で選んだ仕事なんだから、壁にぶつかっても、最後の最後までやるんだと思った。終わり方が中途半端では、悔いが残る。あの時は執念だけが、自分の人生を支えていたんだと思うね」。
1ヶ月の精神修行を終え、帰京した。投球練習を再開すると、またも激痛が走った。国内で完治への道筋を示せる医師は、見つからないまま。とはいえ、滝に打たれて決めた現役続行への熱意は、揺るがなかった。
剛腕の思いをくんだ球団は、過去ロッテの内野手としてプレーし、駐米スカウトを担うジム・ラフィーバーに尋ねた。「米国にいいドクターはいないか?」。答えは明快だった。「兆治に伝えてくれ。フランク・ジョーブという名医がいると」=敬称略=
プロ野球・広島の投手として通算213勝を挙げた北別府学氏が11日に自身のブログを更新。同日に死去した元ロッテ投手の村田兆治さんを悼んだ。
北別府氏は「野球の一本道を歩んで来られた方」のタイトルで記事をアップし、「尊敬する村田兆治先輩 一緒に様々な仕事をさせていただきました 同じ投手出身ということもあり 何かと声をかけて頂きました」と回想。
「私の闘病前、最後にお会いした際も 今後も野球野球の環境が整っていない地域の子供達へ一緒に野球を教えに行って欲しいと頼まれていました」と明かし、「いつお会いしても野球の話しかされない方、一本気であり本当に野球の一本道を歩まれてきた方でした。もう1度お会いして野球の話がしたかった!心よりご冥福をお祈りしています」と追悼の言葉をつづった。
同日午前3時10分頃、東京・世田谷区の2階建て住宅から出火。警視庁によると、亡くなったのはこの家に住む村田さんと確認された。意識不明の状態で病院に搬送されていた。村田さんは「マサカリ投法」から繰り出す速球とフォークを武器に活躍した。
東京都世田谷区成城の元プロ野球選手で自営業村田兆治さん宅の2階で11日、午前3時10分頃火災が発生し、約40平方メートルが焼けた。煙が上がるのを目撃した近隣住民が通報した。
警視庁によると、村田さんは意識不明の状態で見つかり、病院に搬送されたが午前5時57分、死亡が確認された。出火原因などを詳しく調べている。成城警察署によると、火災当時、村田さん宅には村田さんしかいなかったという。死因は一酸化炭素中毒とみられ、現時点では遺書などは見つかっていない。火災当時の室内の様子などについても現時点では明らかになっていない。
村田さんは9月23日、羽田空港第1ターミナル北ウイングの保安検査場で、30代の女性検査員の肩を手で押したとして、暴行容疑で逮捕(同25日に釈放)された。「改めてもう1度深くお詫びしてさせていただきます」などと謝罪した。その後、公の場に姿を現すことはなく、12月10日に予定されている日本プロ野球名球会が主催する記念試合(沖縄セルラースタジアム那覇)も欠席の意向を示していた。
11日午前3時10分頃、東京都世田谷区成城の元プロ野球選手で自営業村田兆治さん(72)宅の2階で火災が発生、約40平方メートルが焼けた。煙が上がるのを目撃した近隣住民が通報した。警視庁によると、村田さんは意識不明の状態で見つかり、病院に搬送されたが午前5時57分、死亡が確認された。出火原因などを詳しく調べている。
元巨人監督でスポーツ報知評論家の堀内恒夫氏は「突然のことで驚いている。現役時代から節制をして、60歳台になってもまだ140キロ近くの球を投げているのを見て、うらやましかった。私とは2学年しか違わないのに。肘を手術した後にも、復帰を果たすなどよく立ち直った。ストイックな男だった」と振り返った。
「(空港での暴行事件があって)一緒にやっていた沢村賞の選考委員からも身を引いたから、最近は会っていなかった。残念だ」と突然の死を悼んだ。
11日午前3時10分頃、東京都世田谷区成城の元プロ野球選手で自営業村田兆治さん(72)宅の2階で火災が発生、約40平方メートルが焼けた。煙が上がるのを目撃した近隣住民が通報した。警視庁によると、村田さんは意識不明の状態で見つかり、病院に搬送されたが午前5時57分、死亡が確認された。出火原因などを詳しく調べている。
元日刊スポーツ社長で、前新潟県佐渡市長の三浦基裕さんは、ロッテの担当記者として村田さんを取材。その後も村田さんが提唱した全国離島交流中学生野球大会などで長い間付き合いがあった。
訃報に接し、「1ヶ月前に電話で話をしたのが最後になりました。その時も『相手の女性係員にはお詫びをしたい。俺はあまりに顔が近づいてきたから押しただけ。暴力はふるっていない。それだけは証明したい』と話していました」と語った。
「現役時代、先発の前夜はステーキを食べるというルーティーンを守り続け、野球教室で子供達の挨拶の声が小さい時や、集合の時にだらだらしていると、何度もやり直しをさせるなど、一途で一本気な人でした。なぜ突然に…という思いです」と故人を悼んだ。
中日・立浪和義監督が11日、この日の朝に火災により死去した村田兆治氏の訃報を受け、哀悼の意を表した。
立浪監督は「突然の訃報で驚いています。野球に対して素晴らしい向き合い方をされていましたし、憧れでもありました。このような形でお亡くなりになり残念です。ご冥福をお祈りいたします」とコメントした。
村田氏は、1968年に東京オリオンズに入団。「マサカリ投法」で知られ、プロ野球通算215勝177敗33セーブで最多勝1回など数々の功績を残し、2005年には野球殿堂入りしていた。
ロッテは11日、この日の朝に火災により死去したOB・村田兆治氏の訃報を受け、ZOZOマリンの秋季練習で半旗を掲げた。
村田氏は1968年に東京オリオンズに入団。「マサカリ投法」で知られ、プロ野球通算215勝177敗33セーブで最多勝1回など数々の功績を残し、05年には野球殿堂入りしていた。
番組では11日に行われた「侍ジャパンシリーズ2022」で日本が9−0でオーストラリアを破り、来春のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に向け、侍ジャパンは強化試合4試合を全勝で終えたことを伝えた。
スタジオで江川氏は侍ジャパンを解説。その中で江川氏の現役時代の剛速球を紹介した。1981年9月9日の大洋戦を例にし球速は当時のスピードガンで144.5キロだったが現在の最新AIで解析したところ158キロだった。
さらに1分間の回転数は2750回で佐々木朗希の2520回、大谷翔平の2528回を上回っていた。さらにボールのホップ値を分析すると今のプロ野球の投手の平均値と23.4センチも違うことを紹介した。
江川氏は回転数の秘密を「投げ方に特徴があって、指ではじかないです」と明かし、「こう投げるんです」と指を上から下へなでる仕草を見せた。さらに「子供の頃石投げをしていまして、その感じで風に石を乗せる感じで」と説明していた。
11日午前3時10分頃、東京都世田谷区成城の元プロ野球選手で自営業村田兆治さん(72)宅の2階で火災が発生、約40平方メートルが焼けた。煙が上がるのを目撃した近隣住民が通報した。警視庁によると、村田さんは意識不明の状態で見つかり、病院に搬送されたが午前5時57分、死亡が確認された。出火原因などを詳しく調べている。
村田さんは9月23日、羽田空港第1ターミナル北ウイングの保安検査場で、30代の女性検査員の肩を手で押したとして、暴行容疑で逮捕(同25日に釈放)された。「改めてもう一度深くお詫びしてさせていただきます」などと謝罪した。その後、公の場に姿を現すことはなく、12月10日に予定されている日本プロ野球名球会が主催する記念試合(沖縄セルラースタジアム那覇)も欠席の意向を示していた。
村田さんは1949年11月27日、広島県生まれ。68年に福山電波工(現近大福山高)から東京オリオンズ(現ロッテ)にドラフト1位で入団。「マサカリ投法」から繰り出す速球とフォークを武器に活躍した。
75年から2年連続最優秀防御率。81年に19勝で最多勝。翌年、右肘を故障したが、渡米して手術を受け、85年に17勝でカムバック賞受賞した。90年に引退。95年から3年間、ダイエー投手コーチを務めた。通算成績は604試合に登板、215勝177敗33セーブ、防御率3.24。
元ロッテ投手の村田兆治さんが11日、死去した。72歳だった。
同日午前3時10分頃、東京・世田谷区の2階建て住宅から出火。警視庁によると、亡くなったのはこの家に住む村田さんと確認された。意識不明の状態で病院に搬送されていた。
村田さんは1949年11月27日、広島県生まれ。68年に福山電波工(現近大福山高)から東京オリオンズ(現ロッテ)にドラフト1位で入団。「マサカリ投法」から繰り出す速球とフォークを武器に活躍した。
75年から2年連続最優秀防御率。81年に19勝で最多勝。翌年、右肘を故障したが、渡米して手術を受け、85年に17勝でカムバック賞受賞した。
90年に引退。95年から3年間、ダイエー投手コーチを務めた。通算成績は604試合に登板、215勝177敗33セーブ、防御率3.24。
9月23日には羽田空港第1ターミナル北ウイングの保安検査場で、30代の女性検査員の肩を手で押したとして、暴行容疑で逮捕されたこともあった。
ロッテのエースとして活躍した村田兆治氏が11日、死去した。72歳。死因は煙を吸ったことによる一酸化炭素(CO)中毒とみられる。ロッテ時代のチームメートで、若手だった村田氏に投球の助言を送るなどしたデイリースポーツ評論家・小山正明氏(88)が突然の死を悼んだ。
訃報をニュースで知り非常に驚いている。今は『兆治、一体、どうしたんだ』という心境だ。まだ72歳か…。若い。早過ぎる。生前の兆治は人間らしい実直な性格で純粋、誠実な男だった。
私が阪神からロッテへ移籍したのは1964年で兆治は68年入団。ロッテで重なったのは5シーズンだった。プロに入った当時から投げるボール1つ1つがすごくてね。とても速かった。だけど常に全力投球。だからコントロールが悪い。1つのストライクを取るにも苦労していた。
ある時、兆治の投球練習を見ていて『ピッチングは、そういうものではない。制球力が大事。七、八分の力で投げろ。練習から八分くらいまでの力で投げてみろ』と言ったことがある。
真っ直ぐな性格だったから、これと決めたことは、とことん追求していくタイプ。私から『七、八分』という言葉を聞いて、全力投球をやめて制球を意識するようになった。それでピッチングのコツもつかんだんだろうね。コントロールが安定して、1軍で活躍できるようになった。優勝したのは70年。兆治も5勝したシーズンで思い出深い。
グラウンドを離れてもいい男だった。むちゃな遊びはしない。先輩の投手陣からも可愛がられていた。私も兆治とよく一緒に食事をした。そういう場では、ほとんど野球の話はしなかったね。
兆治が引退してからは会う機会は少なかったけれど、マスターズリーグなどで活躍する姿をテレビで見る度に嬉しく思っていた。本当にナイスガイだっただけに、今回の訃報は寂しい。心よりご冥福をお祈りします。
ロッテはZOZOマリンスタジアムでの秋季練習最終日となった11日、村田兆治氏の逝去を悼み、半旗を掲げて練習を行うとともに選手、コーチ、関係者らが黙祷を捧げた。
練習中、マウンド付近に選手、スタッフらが整列。谷保場内アナウンス担当の「黙祷」の声かけに、バックスクリーンに村田氏の画像が映し出される中、1分間目を閉じて祈りを捧げた。球団ホームページにも「訃報」と掲載され「ご冥福をお祈り、謹んでお知らせ申し上げます」と哀悼の意が示された。
現役時代に、アドバイスを受けた経験がある吉井新監督は「外野ポール間を思い切り走らされ、腹筋も1000回ぐらい練習させられた。これくらいやらないと一流にはなれないのかと思った。尊敬する野球人が亡くなられて本当に残念です」と故人をしのんだ。
“サンデー晋吾”とも呼ばれ、背番号29を受け継いだ小野投手コーチは「『とにかく長くやれるように頑張れ』と言葉をいただいてそれを胸にやっていた。本当に言葉がないです」と悲しんでいた。
ロッテのエースとして活躍した村田兆治氏が11日、死去した。72歳。同日午前3時10分頃、東京都世田谷区成城の村田氏宅から出火し、村田氏は2階から意識不明の状態で見つかり、搬送先の病院で死亡が確認された。死因は煙を吸ったことによる一酸化炭素(CO)中毒とみられる。現役時代には215勝を挙げ、名球会のメンバーにも名を連ねた右腕の、衝撃的な最期となった。
あまりに突然の、悲しすぎる別れとなった。警視庁成城署や東京消防庁によると、村田氏の2階建て住宅の2階約40平方メートルが焼け、村田氏は2階から意識不明の状態で見つかり、搬送先の病院で死亡が確認されたという。
死因は煙を吸ったことによる一酸化炭素(CO)中毒とみられている。2階のリビングが激しく燃えており、署は火元とみて、実況見分をするなどして出火の原因を調べている。部屋に油分がまかれていたかどうかも調査中。たばこは部屋の中には見当たらず、最近の喫煙習慣についても不明となっている。
村田氏が発見されたのは2階の別の部屋で、物や衣類がたくさんある中、部屋着姿で床に座った状態だった。火災の通報を受け、ポンプ車など消防車両26台が出動し、消火に当たった。当時、住宅には村田さんだけがいた。目立った外傷や、外部から侵入された形跡は見られないという。
遺書は今のところ発見されておらず、家族に自殺を仄めかした事実も今のところないという。警察は失火、放火(自殺)両面で捜査中で、遺体の解剖は12日以降に行われる。
村田氏は広島県出身。ロッテのエースとして215勝を挙げ、豪快な投球フォーム「マサカリ投法」で知られる。野球殿堂入りし、名球会のメンバーにも名を連ねる。
今年の9月には、羽田空港の保安検査場で女性検査員の肩を押したとする暴行容疑で警視庁に現行犯逮捕された。携帯電話を手にしていたため金属探知機が反応し、トラブルになったとみられている。釈放後、報道陣に「たくさんのファンや子供達にお詫びしたい」と謝罪していた。また、昨年まで「沢村賞」の選考委員も務めていたが、今年10月24日の選考会では、委員を辞退することが発表された。
輝かしい球歴を歩んできた村田氏の身にいったい何があったのか。150キロ超の剛速球と不屈の闘志で魅了した名投手は、野球ファンや関係者に大きな衝撃と悲しみを残して、この世を去った。
ロッテのエースとして活躍した村田兆治氏が11日、死去した。72歳。同日午前3時10分頃、東京都世田谷区成城の村田氏宅から出火し、村田氏は2階から意識不明の状態で見つかり、搬送先の病院で死亡が確認された。死因は煙を吸ったことによる一酸化炭素(CO)中毒とみられる。現役時代には215勝を挙げ、名球会のメンバーにも名を連ねた右腕の、衝撃的な最期となった。
村田氏のプロ生活は1968年から始まった。広島・福山電波工高(現近大広島高福山)からドラフト1位で東京(現ロッテ)に入団。頭角を現した2年目以降は先発、救援とフル回転し、「マサカリ投法」と呼ばれた独特のフォームで球界を代表する投手となった。
長身から投げ下ろす速球は150キロを超えた。決め球フォークボールは、“元祖”杉下茂氏も認める強烈な落差を誇った。75年に最多セーブ、81年には最多勝に輝き、最多奪三振は4度、最優秀防御率は3度獲得した。通算148暴投はプロ野球最多記録でもある。
82年に右肘を痛めた。全国各地の名医と呼ばれる元へ足を運んでマッサージや電気治療、はり・きゅうを受けた。しかし、完治には至らず、翌年に当時はまだ珍しかった靱帯再建手術(通称トミー・ジョン手術)を米国で受けた。84年終盤に復帰。85年は日曜日ごとに先発するローテーションで「サンデー兆治」と呼ばれ、17勝を挙げて復活した。
肘にメスを入れた決断は、投手の致命的故障から復活への道標となった。その後、多くの投手が異常の早期に手術をしているのを見て「そういう意味では俺の手術は価値があったということになるかな」と話した。
89年に通算200勝を達成し、90年限りで現役を引退。95〜97年年はダイエー(現ソフトバンク)で1軍のコーチを務めた。引退後も投球練習に励み、OB戦では130キロを投げた。晩年は全国の島を巡り、子供に野球を教えた。華々しい野球人生を歩み、名声を手にしたが、その最期はあまりにも悲しいものとなった。
2部1位の専大は1部6位の駒大に敗れ、1部昇格を逃した。
ロッテからドラフト1位指名された菊地吏玖投手(4年・札幌大谷)は3番手で登板し、5回1/3を4安打2失点。0−6の4回2死一、三塁からマウンドに上がり、7番打者を中飛に抑えてピンチを切り抜けた。
1−7の9回には先頭に四球を与え、失策も絡んで1失点。「イニングの先頭で四球を出してしまったのは最後の最後で力のなさを実感した」と悔しさをにじませ、「修正して次のカテゴリーでもやっていきたい」と前を向いた。
プロ野球ロッテで通算215勝を挙げた大投手、村田兆治さんの訃報に11日、球界は悲しみの声であふれた。村田さんが1995年から97年までダイエー(現ソフトバンク)でコーチとして指導した際に監督を務めたソフトバンクの王貞治球団会長は「3年間随分と苦労をかけてしまった」と振り返り「まさかこんなことになるとは思わなかった」と、突然の知らせに胸を痛めた。
好勝負を何度も演じた張本勲さんは「素晴らしい投手。非常に純粋な男で、頑固一徹な面もあった。惜しい男を亡くした」としのんだ。
ロッテは秋季練習で半旗を掲げ、球場に村田さんの映像を映し出して黙祷をささげた。
元プロ野球選手の村田兆治さん(72)が11日、東京都世田谷区の住宅火災で死去した。村田氏が活躍したロッテオリオンズなどが本拠とした「川崎球場」の跡地に建てられた富士通スタジアム川崎はこの日、献花台を設置。既に30人ほどが来場しているという。
スタジアムの支配人・川崎フロンターレ田中育郎さんは「朝、一報を知り、急遽、このような品を展示しました。たくさんの功績を残した方。お昼から30名ほど来ています」と説明。村田さんの写真やユニホーム、サイン入りのボールなどが展示されているといい「祭壇、献花台という感じではなく、ゆかりの品を展示しています。10時〜20時、どれだけ来るか分かりませんが、来週の土日まで、このような形を考えています」と話した。
横浜市から訪れた40代会社員男性は「一報を知り、仕事を終えてきました。ロッテの子供会に入っていて球場に通っていました。登板した姿も見ています」。川崎市在住の70代男性は「一報を聞いてびっくり、ショックです。ここで投げるのは1回だけ見たことがあります。すごい投げ方をする人だな、と」としのんだ。
ロッテや大洋などに在籍したレオン・リー氏(69)が11日、この日、死去した村田兆治氏について日本プロ野球外国人OB選手会を通じてコメントし、悼んだ。
「兆治さんは、我々リー兄弟と共にプレーしたチームメート。今日の突然の訃報に大変驚いている。彼とは、5年共にロッテでプレーし数多くの思い出があった、つい最近のように思い出す。今までは、コロナで渡航は難しかった。来年度はロッテの同窓会を企画してもらい、兄弟で来日しようと思っていたので大変残念だ。彼の野球界での経歴は素晴らしい。引退後も野球界への貢献活動を継続されていた事を尊敬する。72歳の生涯は短すぎだ。ご冥福をお祈り致します」。
レオン・リー氏は1978年から1982年までロッテでプレーしている。
11日午前3時頃、東京・世田谷区成城にある元プロ野球選手の村田兆治さん(72)宅から出火し、村田さんは病院に運ばれたが、死亡が確認された。
成城警察署によると、火元は2階のリビングだが、出火原因は現在不明。発見場所はリビングと同じフロアにある小部屋で、床に座った状態だった。タバコは発見されなかった。死因は一酸化炭素中毒の疑いがあるという。
目立った外傷はなく、重度の火傷もなし。発見当時は1人で住んでいたが、施錠はしており、侵入もなかった。また、遺書は発見されなかったという。
ソフトバンクの王貞治会長兼特別チームアドバイザーが11日、球団を通じて、元プロ野球選手の村田兆治さん(72)が火事で亡くなったことに触れ「ホークス監督時代に3年間一緒にやってくれましたが、随分と苦労をかけてしまった。最近でも離島の子供達に元気に野球を指導していたので、まさかこんなことになるとは思わなかった。ご冥福をお祈りします」と、しのんだ。
ロッテは11日、ZOZOマリンスタジアムでの秋季練習を打ち上げた。自主性を重んじ、量より質を求めたトレーニング期間に吉井理人監督は「何をするのか考えてやるのが大切だよとは言っている。(オフに)休んじゃう人は来年痛い目に遭うと思うので、しっかり計画して練習に取り組んで欲しい」と要求した。
日本代表の投手コーチも務めているため、一時チームを離れて代表チームに合流した。10日のオーストラリアとの強化試合で4回無失点にまとめた佐々木朗希については「あんまり良くなかったが、ゼロに抑えられた。投げているボールはすごいので、慣れてくれば戦力になる」と今後に期待した。
ロッテの吉井理人新監督(57)が11日、この日、死去した球団OBの村田兆治氏に哀悼の意を示した。
ZOZOマリンスタジアムでの秋季練習後、未明に火災により亡くなったことについて「本当に残念です。素晴らしい野球人で、尊敬する方だったので、こういう感じでニュースを知るのはすごく残念に思います。心よりご冥福をお祈り申し上げます」と沈痛の表情で話した。
現役時代にはオールスターゲームで、初めてピッチングの極意を聞き伝え、感心させられた。「これくらい練習しないと一流になれないのかなと思った」。通算215勝の実績に敬服。最後まで残念そうに話していた。
「富士通スタジアム川崎」の公式ツイッターが11日、火事で亡くなった元プロ野球選手の村田兆治さん(72)を追悼した。
同スタジアムは、村田氏が在籍したロッテオリオンズなどが本拠とした「川崎球場」の跡地に建てられており「富士通スタジアム川崎の前身『川崎球場』で数々の名シーンを残された村田兆治さんがご逝去されました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます」と追悼。「富士通スタジアム川崎の事務所内にある特設ギャラリーにて、村田兆治さんの追悼献花台を設置しております」と発表した。
また、同スタジアムを指定管理者として運営するサッカーJ1川崎の公式ツイッターは「新体制発表会見、ファン感謝デー、富士通スタジアム川崎でのイベントなど、フロンターレの活動に何度もご協力いただきました。スタッフとのキャッチボール1つでも本気で向き合っていただいた姿、忘れません。村田兆治さん、ありがとうございました」と感謝。「心よりご冥福をお祈りいたします」とし、イベントに参戦した際の写真とともに悼んだ。
元巨人監督の堀内恒夫氏が11日、自身のブログを更新。元プロ野球選手の村田兆治さん(72)が火事で亡くなったことに触れ「言葉にならない」と悼んだ。
堀内氏は「村田兆治の自宅で火災が発生し 村田本人が亡くなったと聞いた。」とし「この歳になっても沢村賞選考委員会やドリームベースボールで顔を合わせていた。」と記載。「心よりご冥福をお祈り申し上げます。合掌」とつづった。
堀内氏は沢村賞の選考委員会委員長を務めており、村田氏も委員の1人。今年の選考委員会で、村田氏の退任が発表されていた。
サンデーの称号を受け継いだロッテ・小野晋吾投手コーチが11日、ZOZOマリンスタジアムでの秋季練習中、村田兆治氏の逝去を悼んだ。
小野コーチは開口一番「言葉がないという感じですね」と沈痛な表情で話した。
215勝を挙げた村田兆治氏はサンデー兆治として周知されたが、小野コーチも2000年に日曜日の連勝を伸ばしサンデー晋吾として称号を受け継いだこともあり「サンデー晋吾と呼ばれるようになって、なかなか自分としては嬉しい半面、偉大な方だったので、成績に見合うような、背番号を汚さないように現役時代はやっていました」としみじみと振り返った。
現役時代は背番号も29を受け継ぎ「ロッテの29番というのは、村田さんが長くつけられた背番号でありましたし、僕としても成績は及ばないまでも長くプレーはできるようにやっていた。そういう思いで必死でした」と振り返り、黙祷をささげていた。
ロッテは11日、ZOZOマリンスタジアムでの秋季練習最終日に、球団OB村田兆治氏の逝去を悼み、選手、コーチ、関係者らがグラウンドで黙祷をささげた。
村田氏は自宅の火災により死去し、この日の秋季練習は半旗を掲げて行われた。生前に親交のあった場内アナウンスを務める谷保恵美さんの放送で「これより、村田兆治さんのご逝去に伴い、黙祷をささげたいと思います。黙祷」のアナウンスで選手、関係者らが約1分間、黙祷を行った。
村田氏はロッテで75年から2年連続最優秀防護率に輝くなど通算215勝を挙げ、プロ野球殿堂入りも果たした。この日は多くの選手が練習に参加した。
その後、球団は公式ホームページを更新。「東京オリオンズ、ロッテオリオンズに在籍、1968年から1990年まで22年間活躍された村田兆治氏が11月11日(金)未明、お亡くなりになりました。(享年72歳) ここに故人のご冥福をお祈りし、謹んでお知らせ申し上げます。村田氏は通算215勝を挙げ、その独特でダイナミックな投球フォームはマサカリ投法と呼ばれ、ファンに愛されました」と追悼した。
ロッテは11日、自宅の火災により死去した球団OB村田兆治氏を悼み、秋季練習を半旗で行った。
また選手、コーチ、関係者らがグラウンドで約1分間、黙祷をささげた。
村田氏はロッテで75年から2年連続最優秀防御率に輝くなど通算215勝を挙げ、プロ野球殿堂入りも果たした。この日は多くの選手が練習に参加した。
元プロ野球選手で野球解説者の江本孟紀氏が11日、フジテレビ系「めざまし8」で、村田兆治氏がこの日未明、自宅の火事で亡くなったことに「驚きました」「まさかこんなことに」と驚きを語った。
この日は突然入ってきた村田さんの死去を報じた。都内の自宅が火事となり、男性が意識不明で搬送され、その後、死亡が確認された。
江本氏は電話で緊急出演。突然の訃報に「驚きました。この前、空港で逮捕されたときも驚きましたが、まさかこんな…」と絶句。どんな人だったかと聞かれ「真面目でとにかく野球一筋。一生懸命やるタイプだった」と振り返った。
最近は村田氏とは会っていなかったといい「パーティーかどっかで会ったと思うが、木訥と喋って、礼儀正しいし、いい人だった」ともコメントし、現役時代に対戦したことに「とにかく速いのとフォーク、これがめちゃめちゃよく落ちる。一緒にバッテリーを組んだ野村克也さんとかは苦手にしていた」とも語った。
現在の村田さんの暮らしぶりについてもよく知らなかったというが、今年9月に村田さんが羽田空港の検査場で女性検査官に暴行を働き逮捕されたことに「偶然とはいえ、羽田で事件があったとき、2時間ほど前にそこの検査場を通ったんです。さっき羽田にいたのにって。会ってはいないがそんなことがあって、気にはしていた」と話していた。
広島OBの北別府学氏が11日、自身のブログを更新。元プロ野球選手の村田兆治さん(72)が火事で亡くなったことに触れ「本当に野球の一本道を歩まれてきた方でした」としのんだ。
北別府氏はこの日午前10時2分、「野球の一本道を歩んで来られた方」とのタイトルでブログを更新。「尊敬する村田兆治先輩 一緒に様々な仕事をさせていただきました」と書き出し「同じ投手出身ということもあり 何かと声をかけて頂きました」と振り返った。
「私の闘病前、最後にお会いした際も 今後も野球の環境が整っていない地域の子供達へ一緒に野球を教えに行って欲しいと頼まれていました」とし「いつお会いしても野球の話しかされない方、一本気であり本当に野球の一本道を歩まれてきた方でした。もう1度お会いして野球の話がしたかった!心よりご冥福をお祈りしています。」と悼んだ。
村田さんは通算215勝、北別府氏は通算213勝を飾った名投手。2人はともに沢村賞の選考委員を務めていたが、村田氏は今季委員を退任。北別府氏は病気療養中のため、文書で選考に加わっていた。
11日午前3時頃、東京・世田谷区成城にある元プロ野球選手の村田兆治さん(72)宅から出火し、村田さんは病院に運ばれたが、死亡が確認された。
村田さんは1949年11月27日生まれ、広島県出身。現役時代は右投げ右打ちの投手で、福山電波工(現近大福山)から67年度ドラフト1位で東京(現ロッテ)に入団した。
「マサカリ投法」と呼ばれた独特の投球フォームで75〜76年に2年連続で最優秀防御率。81年には最多勝とベストナインを獲得している。
83年には痛めた右肘の手術(トミー・ジョン手術)を受けたが、85年に17勝を挙げカムバック賞を受賞。89年には3回目の最優秀防御率に輝くなど活躍し、90年限りで現役を引退した。
通算成績は604試合215勝177敗33セーブ、防御率3.24。最多奪三振4回、最多セーブ1回。148暴投はプロ野球歴代1位。2005年野球殿堂入り。
今年9月23日には羽田空港で、女性検査員の肩を押したとする暴行容疑で現行犯逮捕、送検されていた。
ロッテの得点源といえばレアード、マーティンの長打にかかる比重が大きかった中で、今季は不振に陥りなかなか得点に結びつかなかった。その中で、1番・荻野貴司、2番・部瑛斗はチャンスを作り続けた。
荻野は出遅れたが5月27日に今季初昇格を果たすと、昇格直後は2番や7番を打っていたが、6月12日のDeNA戦以降は慣れ親しんだ1番を打った。荻野は「まずは自分のスイングをすること、追い込まれたらしっかり粘って出塁することを意識しています」とトップバッターとしての心構えを明かす。今季は1番打者として出場した試合に限ると、73試合で打率.315、5本塁打、22打点の成績を残した。
荻野が開幕を出遅れ、オープン戦で12球団トップの打率をマークした部が「消極的にならずに、試合の流れを最初に掴む場所。積極的にいってどうにか流れをもっていきたいなという気持ちで毎試合入っています」と1番を任された。荻野が復帰してからもしばらくは1番を打っていたが、6月18日の日本ハム戦以降は、1番・荻野、2番・部という打順が基本形になった。
2人の共通する持ち味といえば“スピード”。荻野、部の“1、2番コンビ”は出塁して相手投手にプレッシャーを与え、そしてチャンスを広げた。
1、2番コンビを組み始めたばかりの6月19日の日本ハム戦では、0−0の初回、トップバッターの荻野が二塁打、2番・部のセーフティバントを投手と捕手がお見合いし内野安打となって一、三塁とすると、3番・中村奨吾の打席中に部が二塁盗塁。無死二、三塁となり、中村の右飛で三塁走者の荻野が先制のホームを踏み、送球間に二塁走者の部は三塁へ。部は続く山口航輝のセンター前への安打で生還した。2人の出塁、そして足が活きた得点だった。
また、1本の安打、相手の隙やミスを見逃さず、2人で1点を奪うこともあった。7月20日の西武戦では0−0の初回、1番・荻野がショート・山田遥楓(現日本ハム)の悪送球で出塁すると、続く2番・部の打席中に二盗で得点圏に進み、部の左中間を破る安打でホームイン。
同日の西武戦では1−2の3回も先頭の荻野がレフト前に安打を放つと、続く部が三塁へセーフティバント。一塁走者の荻野は西武守備陣が三塁のベースカバーに誰も入っていないのを見て三塁を狙う。慌てて西武の一塁手・山川穂高が三塁へ送球するもこれが悪送球となり、その間に荻野はホームに還ってきた。
9月12日の日本ハム戦では、0−0の初回、先頭の荻野は先発・加藤貴之が投じたスライダーをライトへ放つと、ライトが後ろに逸らす間に俊足を飛ばして一気に三塁を陥れ(記録は三塁打)、続く部のセンター前への安打で先制のホームを踏んだ。
荻野、部は12球団を見渡しても、屈指の“1、2番コンビ”だろう。シーズン最終盤は井上晴哉、中村奨吾、安田尚憲、山口航輝がポイントゲッターとなり得点するケースは増えたが、シーズン通して見れば、1、2番が出塁しても後が続かないことが多かった。来季はクリーンナップがポイントゲッターとしての役割を果たせば、今季以上に荻野、部の存在は際立つはずだ。
話題のアスリートの隠された物語を探る「スポーツアナザーストーリー」。今回は、11月11日に訃報が伝えられた元ロッテオリオンズの名投手・村田兆治さんにまつわるエピソードを紹介する。
11月11日早朝、飛び込んできたニュースに絶句してしまいました。現役時代、「マサカリ投法」で知られたロッテの元エース・村田兆治さんの自宅から未明に出火。村田さんは意識不明の状態で発見され、病院に搬送されましたが死去。72歳でした。
いったいなぜこういう事態になったのか、現場検証を待たないと分かりませんが、球史を彩った昭和の大投手がこういう形で人生を終えるとは、本当に残念でなりません。
なぜ高齢になってもそんな球が投げられたのかというと、村田さんは引退後もトレーニングを欠かさなかったからです。晩年は、2008年から始めた「全国離島交流中学生野球大会」をライフワークにしていた村田さん。今年(2022年)も8月に新潟県佐渡市で大会を行い、中学生の前でフォークを披露してみせました。少年達のお手本であるためには、体を鍛えておかないといけない…その生き様はまさに、座右の銘である「人生先発完投」そのものでした。
広島出身の村田さんは、1967年のドラフト会議で、福山電波工業高(現・近大福山高)から東京オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)にドラフト1位で入団。1990年まで23年間プレーし、通算成績は604試合登板、215勝177敗33セーブ、防御率3.24でした。
1970年、1974年と、ロッテの2度のリーグ優勝に貢献し、1974年、中日との日本シリーズでは抑えに回って活躍。日本一に王手を掛けた第6戦では一転先発登板。完投勝利を挙げ、胴上げ投手になっています。
このときのロッテの監督が、村田さんが師と仰いだ400勝投手・金田正一さんでした。金田監督のもとで、翌1975年にセーブ王を獲得。この年と1976年に2年連続で最優秀防御率のタイトルも獲得しています。1976年は18完投・5完封を記録し21勝。1981年には19勝を挙げ、初の最多勝に輝きました。
村田さんの武器は、大木を真っ二つに割るような「マサカリ投法」から投げ下ろす剛速球と、落差のあるフォークでした。このフォークは、元々の指の長さを活かしたもので、ボールを挟む人差し指と中指の間を拡げるためにナイフで切ったという逸話も残っています。あの野村克也さんですら「村田のフォークは、分かっていても打てない」と言ったほど。
その武器を駆使して、ロッテのエースとして君臨した村田さんでしたが、15年目の1982年に右ヒジを痛めてしまいます。国内では治療法が見つからず、治す方法を必死で探した村田さんは、米国のスポーツ医学の権威・ジョーブ博士の存在を知り渡米。「左ヒジのじん帯が切れている。手術以外に治療法はない」と告げられ「トミー・ジョン手術」を受けることになりました。
左手首の腱を取り出して、右ヒジを切り開いて腱を移植、再建する手術で、今ではポピュラーなものになりましたが、当時の日本ではヒジにメスを入れることはタブーとされていた時代でした。また、成功するという保証もありません。それでも、村田さんがメスを入れる決断をしたのは、こう考えたからです。
『手術に失敗しても、ほかの日本の選手にとって先例になる。やる価値はある。少しでも可能性があれば、やってみよう』
〜『週刊ベースボールONLINE』2019年6月29日配信記事より
技術が進んだいまでは術後の負担も軽くなりましたが、村田さんが手術を受けた当時はしばらく高熱が出て、小指が腫れ上がったそうです。さらに、辛いリハビリも待ち受けていました。その辛さを乗り越えることができたのは「もう1度マウンドに立って勝ちたい」という強い思いがあったからです。
手術を受けた1983年は、プロ入りして初めて登板なしに終わりましたが、1984年、1軍に復帰。5試合に登板し0勝1敗でしたが、再びマウンドに立つことができました。
そしてヒジの状態が戻った1985年、村田さんはいよいよ本格復帰を果たします。4月14日の西武戦で先発した村田さんは「100球以上投げないように」というジョーブ博士の指示をあえて無視。9回まで155球を投げきり、待ちに待った完投勝利を挙げたのです。人に見られないよう、ベンチ裏に駆け込み、大粒の涙を流した村田さん。
実に1073日ぶりの勝利でしたが、さらに7月7日の南海戦まで何と11連勝。中6日で日曜日の登板がしばらく続いたので「サンデー兆治」の異名を取りました。村田さんはこの年、17勝5敗の成績で「カムバック賞」を受賞しています。同時に「10完投」を記録したことも見逃せません。
この復活劇は当時、プロ野球の枠を超え、一般のニュースとしても大きく報道されたのでご記憶の方も多いでしょう。村田さん観たさに球場に足を運んだ人も多く、普段は観客がまばらなロッテの本拠地・川崎球場も、村田さんの登板日は盛況になりました。
村田さんが凄かったのは、ヒジをかばって技巧派に転向するのではなく、復帰後も以前と変わらぬ豪快なマサカリ投法を続け、投手としてのスタイルを変えなかったことです。あくまで自分が理想とする「先発完投」を目指した村田さん。「昭和生まれの明治男」と呼ばれた、いい意味での頑固さがここにも窺えます。
そんな村田さんにも、ユニフォームを脱ぐ日がやってきました。プロ23年目の1990年、40歳になった村田さんは、10月13日の西武戦に先発。川崎球場には大投手の最後の勇姿を観ようと、2万2000人の観衆が詰めかけました。
あいにくの雨でしたが、清原やデストラーデら強打者が並ぶ西武打線を相手に、5回を無失点に抑えます。この試合は5回コールドとなり、村田さんは記録上「完封勝利」で最後のマウンドを締めくくることができました。
試合後の挨拶で、村田さんはこう語っています。
『私は今日をもってマウンドを降りることになりました。私の人生の喜びも悲しみも、全てこのマウンドの上にありました』
『自分のイメージする球が投げられなくなった。とにかくプロとして恥ずかしくない終わり方ができました。それができたことに悔いはないと思います』
〜『週刊ベースボールONLINE』2017年10月13日配信記事より
「人生先発完投」の言葉通り、まさに全てを全うした上での引退でした。
この引退試合での勝利で、村田さんはシーズン10勝に到達。「10勝8敗2セーブ」が引退した年の成績です。8月には1-0の完封勝利を挙げていますし、前年の1989年には13年ぶり3度目となる最優秀防御率のタイトルを獲得。「まだまだやれるのに」と惜しむ声もありましたが、自信を持って投げた球を若手に打ち込まれるようになり、潔く引退を決意したのも村田さんらしいところです。
村田さんの何よりの功績は、ヒジにメスを入れたあと59勝を挙げて、同じくヒジを痛めた多くの投手達に「自分も復活できるかも知れない」という希望を与えたことです。また野球選手のみならず、逆境に置かれた人達に勇気を与えたことも忘れてはなりません。
村田さん、豪快なピッチングをありがとうございました。あなたこそ、力と力の勝負で魅せるパ・リーグの象徴だったと思います。ご冥福を祈ります。
10日からテストのためロッテの秋季練習に参加している吉田一将投手と高野圭佑投手が11日、シート打撃に登板した。
吉田と高野は全体練習前にマウンドをチェックし、それぞれシート打撃に向けてウォーミングアップ、ショートダッシュ、キャッチボールなど体を動かし準備。
前日まで『侍ジャパンシリーズ2022』で侍ジャパンの投手コーチを務めていた吉井理人監督、来季から1軍で投手コーチを務める黒木知宏コーチ、小野晋吾投手コーチが捕手の後ろから見つめ(ネット越し)、練習中に流れていた音楽も消え、球場全体が無音で緊張感が包まれる中、シート打撃がはじまった。
まずマウンドに向かったのは吉田。山本大斗に右中間フェンス直撃の当たりを打たれるも、松川虎生を外角の143キロのストレートで見逃し三振に仕留めた。
高野は捕手役の育成・谷川唯人に「お願いします」と挨拶し、マウンド上で球種などを確認。5球の投球練習を終えたあと、最初の打者・山本に対して初球142キロ、2球目149キロと2球連続インコース攻めで連続ストライク。
藤原恭大に対しては1ストライクからの2球目にボールとなったがクイックで投じ、3球目の152キロストレートで空振りを奪った。2度目の対戦となった山本には150キロのストレートで見逃し三振。シート打撃後には「ありがとうございました」と帽子を取って一礼した。