ロッテ福浦和也ヘッド兼打撃コーチ(46)が若手に「自分を知れ」と指令を出した。11日まで行われた秋季練習では米国のトレーニング施設「ドライブライン」の関係者も訪れ、選手達が動作解析などを体験。「自分を分かって欲しい。どういうスイングなのか、どういう練習法がいいのか。自分を知るのが絶対に大事だと思っているので」と熱く話した。
特に2軍コーチ時代から熱心に指導してきた藤原恭大外野手(22)には「今年、良かった時ありました?」と報道陣に問いかけるなど、手厳しい。「やっぱり自分を知らないとだめですね。今までは若気の至りで勢いでやってたのが、結局は研究もされますし、相手がいることですし。自分が簡単に崩れてそれをすぐ戻せるようにならないと。そこを分からないと難しい」と続けた。
期待のスター候補も来季はプロ5年目だ。今季はコロナ療養で始まり、脇腹も痛めた。出場はわずか49試合で本塁打も1本のみ。「練習できなかった時期が多く、おのずとこういう成績になったのかなと思いますけど。1年間ちゃんとした体で戦えれば」と期待は高いだけに、「自分を知って、どうやったらスランプを短くできるか、好調を維持できるようになるかを、どんどん分かってもらえるように」と考え方も含めての成長を願っている。
吉井理人新監督(57)は、コーチ陣に「教えすぎない」ことを求める。福浦ヘッドも賛同する。「自分を分かって、自分で練習方法を見つけて。その通りだと思います。若い時はバンバン練習して、レギュラーになっていったらコーチもあまり教えてくれなくなってきますし。そうなっていくためには、自分でやらなきゃいけないですから」。期待の高さゆえの、直球な言葉だ。
ロッテ佐々木朗希投手(21)が12日、故郷岩手でつかの間の“ローキの休日”を過ごした。
10日に侍ジャパン・オーストラリア戦(札幌ドーム)に先発し、11日に空路で岩手に凱旋した。一夜明けた12日は故郷・陸前高田市の高田松原海岸で、自身と同じく3日に誕生日を迎えたばかりのトイプードルの愛犬ラムちゃんと散歩。中華料理店で麻婆ラーメンを食べるなどして過ごした。球団広報を通じて「疲れはないです。昨日は久しぶりに地元でゆっくりしてリフレッシュできました」と振り返った。
侍ジャパンで投手コーチを務めるロッテ吉井理人監督(57)は11日の取材で、佐々木朗について「投げてるボールはすごいので、あれで慣れてくれれば戦力になるなというふうには思って見ていました」と、来年3月のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)本戦を見越したコメントを出している。
佐々木朗は「WBCはプロに入った時点から出たいと思っていた大会ですし、出たいからといって出られる大会ではないので、出場したい思いはもちろんあります。チャンスをもらえたらチームに貢献できるように、しっかりと備えていきたいと思います」と出場への意欲を見せた。
ロッテが78年から91年まで本拠としていた「川崎球場」跡地にある「富士通スタジアム川崎」事務所内に、村田兆治さんを悼む献花台が設置され、12日には500人を超えるファンらが訪れた。
発案者の田中育郎支配人(54)は川崎市出身で、大洋(現DeNA)の本拠として使用していたころから川崎球場を見続けてきた。過去には村田さんが同地での毎年恒例イベントにゲスト参加してくれたこともある。「村田さんが来てくれた時は1番盛り上がった。私も事務所にあるギャラリーを案内した時のことを覚えていないくらい緊張しました。女性スタッフにフォークの握りを教えてくれるなど、本当に優しい方でした」。
その数年前、村田さんが「替わり果てた川崎球場を見たくないから」と、ゴルフ雑誌の取材で同地を訪れることを拒んだ際に「照明灯とフェンスは当時のままで残っているんです」と説得したのも田中支配人だった。1954年(昭29)から現在も使用されている照明灯2基は来年1月10日に、残念ながら撤去されることが決定。同7日にはサヨナラ企画が予定されており「実は村田さんに来ていただきたいと思ってお願いしようと思っていたところなんです」とかなわなかった。
千葉市在住の40代男性ロッテファンは「小学生の頃に印象に残ったダイナミックな投手」と川崎球場で村田さんが活躍していた時代のユニホーム姿で手を合わせ、「村田さんの心意気を今のマリーンズの選手にも引き継いで欲しい。頑固な人もいた方が…」と期待を寄せた。
巨人原辰徳監督が村田兆治さんを悼んだ。プロ1年目のオープン戦で対戦した際には「ボールが消える。球が速いし、スライダーも切れて、フォークが切れる。プロ野球ってすごいなって」とレベルの高さを痛感させられた。
「すごい律義で真面目。何となく、兆治さんの前に行くと(直立不動に)姿勢が正しくなる。本当に実直なスーパーピッチャーだったね」と突然の別れを惜しんだ。
プロ野球ロッテの投手として活躍し、11日午前に自宅火災により72歳で亡くなった村田兆治さんの弟光英さんが12日、兄への思いを明かした。
遺体と対面し、「別段いつもと変わらず、優しい兄貴の顔をしていました。顔を見た時は、残念でしかなかった。この若さで失って…」と悲痛な胸中を懸命に言葉にした。
2人の上に姉と兄がいる4人兄弟だった。「兄貴にとっては私が唯一の弟で、喧嘩をしたり、言うことを聞かないこともありましたけれど、素直な兄貴でした。兄貴に色々なことを言ってあげられるのも私しかいなかった」と密接な兄弟関係を築いてきたと言う。
兆治さんは野球界、光英さんは会社経営など別々の道を歩んできたが、お互い良き相談相手でもあった。「兄貴はとても頑固で、こうと決めたらやりぬくタイプ。一本気でね。真っ直ぐな人間でウソをつけない男」と生きざまを表現。「私なんかも人生で波乱もありましたけれど、激励され、応援してもらい、今がある。兄貴に習ってやってきましたし、兄貴を目指して頑張ってきた」と包容力にあふれた大きな背中を追い続けてきた。
今年9月下旬に羽田空港で女性検査員の肩を押したとする暴行容疑で逮捕、釈放された際にも「私が身元引受人になったんです」。憔悴した兄に寄り添い、兄を力づけたのも光英さんだった。最後に2人で会って話をしたのは先月中旬。「兄貴は心臓も悪かったので『これから色々とどうしていこうか』なんて相談もしていた。病院の書類をつくったりだとか」。
兆治さんが提唱者となり大会名誉会長として発起した「全国離島交流中学生野球大会」(通称・離島甲子園)は2008年から開催され、今年8月には新潟県佐渡市で第13回大会を開催した。高齢化や過疎化が進む全国の離島地域を対象に、野球を通して島と島の交流を図って青少年育成や地域振興に寄与。光英さんが代表を務めていた企業が事務局として運営に携わってきたが、「兄貴は損得抜きでやってきた。体の続く限り続けていくと言っていまし、国をある程度動かした訳ですから。離島甲子園は続けていきたい」と継続の意向を示した。
兆治さんも8月22日の開会式で「諦めない、夢を持ってという野球以外でもつながっていく」と大会の意義を中学生らに熱く語っていた。野球に限らず、サラリーマンとしての営業職、料理好きの夢を果たした調理師、東大受験に失敗しても次の目標をつかんだ「離島甲子園卒業生」の実例も伝えた。「見る、聞く、考えて行動するということが、これからの時代に皆さまがヒーロー、主役になるために1番大切なことです。常に成功を確信して、自分を信じて、いつまでも頑張って。離島甲子園の経験、体験、志がきっと役に立つ。これを念頭において切り開いてください」と壇上から優しく呼びかけていた。
村田さんは「マサカリ投法」と称された独特のダイナミックな投球フォームから剛速球とフォークで、プロ通算215勝を挙げた。40歳で現役を引退。指導者や解説者を務めてきたが、近年は野球教室など競技普及を中心に活動。11日に東京都世田谷区の自宅で火災が発生し、煙を吸ったことによる一酸化炭素中毒で亡くなったとみられる。
「マサカリ投法」で通算215勝を挙げた元ロッテ投手、村田兆治さん(享年72)の死去から一夜明けた12日、東京・世田谷区成城の自宅前で弟の村田光英さん(69)が取材に応じた。最後に会ったのは10月20日前後。落ち込んだ様子はなく「また頑張るんだ」と話していたという。遺品整理などを行い「彼の残した功績は未来永劫に残っていくと思う」と声を震わせた。
2階建て住宅の2階約40平方メートルが焼けた火災から一夜明けた村田さんの自宅では警視庁、東京消防庁による調べが進められた。弟の光英さんは遺品整理を行った後、悲痛な胸中を明かした。
「最後に先月の事件があって、私にも『すごく残念だ』と言っていた。子供達に対しても誠心誠意を尽くしていたのに、裏切って…」。
村田さんは今年9月、羽田空港の保安検査場で女性検査員の肩を押したとする暴行容疑で警視庁に現行犯逮捕された。光英さんが兄と最後に会ったのは、10月20日前後。「兄は不屈の精神を持っていますから。『また頑張るんだ』という話はしました。離島甲子園を何とか続けて、夢を与えたいと」。落ち込んだ様子は見せず、力を注いできた離島の中学生による野球大会「離島甲子園」の活動継続に意欲を見せていたという。
この日、村田さんの妻と娘も訪れ、自宅前では両手を合わせる知人、ファンの姿もあった。遺体と対面した光英さんは「顔はそんなに傷ついていない。数カ所にやけどがある程度」と話し「まだ実感がない」と死を十分に受け止めきれていない。
村田さんはプロを目指していた中学、高校時代に1日25キロのランニングを欠かさなかったという。「努力のかたまりでここまで積み上げてきた。本当に尊敬しています。彼の残した功績は未来永劫に残っていくと思う」。涙を流して兄の死を悼んだ。
ロッテの佐々木朗希投手が12日、岩手県大船渡市に帰郷して取材に応じ、4月に史上最年少の20歳で完全試合を達成するなど飛躍した今季について「最低限はできたと思うが、もっと上を目指せると思った」と真剣な表情で話した。
地元に戻り、佐々木朗はリラックスした様子だった。
ロッテの佐々木朗希投手が12日、岩手県大船渡市に帰郷して取材に応じ、4月に史上最年少の20歳で完全試合を達成するなど飛躍した今季について「最低限はできたと思うが、もっと上を目指せると思った」と真剣な表情で話した。
岩手県陸前高田市で生まれ、2011年に東日本大震災で被災。大船渡市に移り、大船渡高3年生だった19年4月に球速163キロをマークした。慣れ親しんだ土地に「毎年戻ってくる場所があるのは嬉しいし貴重。いつまでも活気ある街であって欲しい」としみじみと話した。
来年3月のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)は同じ岩手県出身で米大リーグ、エンゼルスの大谷翔平投手と同じユニホームを着る可能性がある。「会ったこともないし、雲の上の存在。みんなが憧れるスーパースターで、まずは僕が選ばれるように頑張らないと」と笑顔で語った。
ロッテの来季2軍監督を大村三郎氏(46)が務めることが12日、分かった。現役時代に「サブロー」の登録名で親しまれた大村氏は2016年にロッテで現役を引退。20年からファームディレクターとして楽天入りし、今季はスカウティングアドバイザーを務めていたが、同日退団した。
ロッテで通算215勝を挙げた村田兆治さんが11日に死去したことを受け、近鉄で3度本塁打王に輝いたラルフ・ブライアントさんが12日、日本プロ野球外国人OB選手会(JRFPA)を通じて「本当に驚いた」と談話を出した。現役時代を振り返り「140キロを超えるスピードボールとフォークはすごかった。記憶に残った名選手だった」と述べた。
村田さんの現役最終年の1990年に日本ハムに所属したマット・ウインタースさんも「彼のキャリアの最後に対戦できたのは光栄だった。グラウンド外でのつきあいも大好きだった。友よ安らかに」とコメントした。
元ロッテの投手、村田兆治さんが亡くなってから一夜明けた12日、東京・世田谷区成城の自宅で、弟の村田光英さん(69)が取材に応じ、涙を流して兄の死を悼んだ。
警察、消防関係の火災調査が行われ、遺品の整理などで立ち会った光英さんは「最後、先月の事件があって、私にもすごく残念だ≠ニはいっていました。単純な接触事故が暴力事件に発展するという世の中でね、私も残念だなと…」と目を潤ませながら話した。
今年9月、羽田空港の保安検査場で女性検査員の肩を押したとする暴行容疑で現行犯逮捕。光英さんは「子供たちに対しても生前、誠心誠意を尽くしてね、そんなことで裏切ったっていう…」と全国の離島で指導した子供達を思いやっていた。最後に会ったのは10月20日前後で、落ち込んではいなかったという。
「彼の残した功績っていうのは未来永劫に残っていくと思っています。離島甲子園≠ニいうのを自分で始めて、優秀な選手もいっぱいできて、プロ野球にいけるような子供達ができるようになったことは兄の功績だと思っています」。
自宅前では、両手を合わせる野球ファンや知人の姿もあった。
村田兆治さんの死去を受け、近鉄で3度本塁打王に輝いたラルフ・ブライアント氏が12日、日本プロ野球外国人OB選手会(JRFPA)を通じて「本当に驚いた」とコメント。「140キロを超えるスピードボールとフォークは凄かった。記憶に残った名選手だった」と振り返った。
また、村田さんの現役最終年だった90年に日本ハムに所属したマット・ウインタース氏も「彼のキャリアの最後に対戦できたのは光栄だった。グラウンド外での付き合いも大好きだった。友よ安らかに」とコメントした。
10日のオーストラリア戦で4回無失点と、侍ジャパンで白星デビューを飾ったロッテの佐々木朗は、故郷・岩手でオフを過ごした。
前日に札幌から帰省し、「昨日は久しぶりに地元でゆっくりできました」とリフレッシュ。この日は陸前高田市内の海岸を愛犬ラムちゃんと散歩し、昼食は大船渡時代から通っていた中華料理店でマーボーラーメンに舌鼓を打った。オフも投球を継続する方針で、「WBCはプロに入った時点から出たいと思っていた。チャンスをもらえたら、チームに貢献できるように準備をしたい」と近日中に帰京してトレーニングを再開する。
楽天は12日、大村三郎スカウティングアドバイザー(46)が退団すると発表した。大村氏は来季、ロッテ2軍監督を務めることが決定的になった。
また、社会人のJFE東日本でコーチだった田中雅彦氏(40)が来季の2軍バッテリーコーチに、台湾・楽天でコーチを務めた西村弥氏(39)が2軍内野守備走塁コーチに就任すると発表。佐竹学外野守備走塁兼作戦コーチ(48)の役職は、野手総合兼外野守備走塁コーチに変更になった。
ロッテ・佐々木朗希投手は12日、陸前高田市内の高田松原海岸を愛犬ラムちゃんと散歩し、昼食は大船渡時代から通っていた中華料理店で麻婆ラーメンを食べて、リフレッシュに充てた。
侍ジャパンのメンバーとして10日のオーストラリア戦で無失点デビューを飾った右腕は、前日に札幌から地元・岩手へ移動していた。
元ロッテ投手・村田兆治さん(享年72)が11日早朝に東京・世田谷区成城の自宅で起きた火災で亡くなった。
12日には警視庁や消防が村田さん宅で現場検証を行った。午後0時40分頃に焼失した2階の一室がブルーシートで覆われた。遺体は顔の数か所にやけどはあるが、損傷は少ないという。火元や出火原因はいまだ判明していない。死因は煙を吸ったことによる一酸化炭素(CO)中毒とみられている。
11日早朝に東京・世田谷区成城の自宅で起きた火災で亡くなった元ロッテ投手・村田兆治さん(享年72)の弟・光英さん(69)が12日、遺品整理のため村田さん宅を訪問した。
沈痛な面持ちの光英さんは「本当にご心配やご迷惑をかけて大変申し訳ございませんでした」と声を絞り出した。火災から一夜明けたが、自宅周辺には焼け焦げた匂いが広がり「私もまだ実感がないです」と突然の訃報に動揺を隠しきれなかった。
村田さんは9月23日に羽田空港の保安検査場で女性検査員の肩を手で押したとして、暴行容疑で逮捕されたが、光英さんが最後に会った10月20日前後には「今後も『離島甲子園』を続けて子供達に夢を与えたい」と普段通りの様子だったという。「自分がこうなって夢が与えられるのかなと。体力のこともあって体調は崩していたと思う。それでも兄は不屈の精神を持っていましたから、これを糧に頑張るんだと話していた」と振り返った。
現役引退後も「離島甲子園」を発案するなど野球界への発展に尽力した村田さん。「彼の残した功績は未来永劫に残っていくのかなと思う。離島甲子園も自分で始めて、優秀な選手やプロ野球に行けるような子供達が出てくるようになったのは兄の功績だと思っています」とたたえた。
多くのファンや近隣住民が献花や手を合わせるために村田さん宅を訪れた。光英さんは「(兄は)天の人。努力の塊でここまで積み上げてこれているんですから。いつも尊敬していました」と早すぎる別れを偲んだ。
元ロッテ投手の村田兆治さんが(72)が自宅で発生した火災で亡くなってから一夜明けた12日、弟の光英さん(69)が自宅を訪れた。
遺品の整理を行いながら、村田さんと親交のあった住民から花束を受け取るなど対応。12時50分頃には妻の淑子さんと長女が到着し、遺品整理を行った。
光英さんが村田さんと最後に対面したのは10月20日前後で普段通りの元気な様子だったという。突然の訃報に「まだ実感がない」と話した。火災のあと、村田さんとは2回対面し「彼の残した功績は未来へ残っていくと思いますし。離島甲子園も自分で始めて、優秀な選手がたくさん出てプロ野球に行けるような子供達ができたことは兄の功績だと思っています」と偲んだ。
楽天は12日、今季チーム統括本部スカウト部でスカウティングアドバイザーを務めた大村三郎氏の退団を発表した。大村氏はロッテの2軍監督に就任することが決定的となっている。
11日に自宅の火災により一酸化炭素中毒とみられる状態で死去した元ロッテ投手・村田兆治氏(享年72)の弟光英氏(69)が12日、東京都世田谷区の村田氏宅前で取材に応じ、涙で声を詰まらせながら偉大だった兄への思いを吐露した。現場には多くのファンが訪れ、故人を偲んで両手を合わせる様子なども見られた。
光英氏はこの日午前、警察、消防関係の現場確認に立ち会った。遺品の整理なども行い、村田氏の自宅からは野球用の白いスパイクなどが運び出された。その後、報道陣の前に足を運び、涙ながらに胸の内を語った。
「皆さんに愛されていた村田兆治がしのばれるというか、私もまだ実は実感がなくて…」。あまりにも突然すぎる兄との別れ。やり場のない感情を押し殺すように肩を震わせ、言葉を詰まらせた。
ダイナミックに左足を高く突き上げる“マサカリ投法”でファンに親しまれ、通算215勝を挙げたロッテの大エース。現役引退後も球界の発展に尽くした。同氏の提唱により、2008年から離島の中学生球児による大会“離島甲子園”が開催。全国の野球教室にも参加して、子供達に指導して回った。
しかし、今年の9月に羽田空港の保安検査場で暴行騒動を起こし、現行犯逮捕された。光英氏は10月中旬ごろ同氏と会って話をしたという。「こういう風になって、それで夢を与えられるのかなと言っていた。体力のこともあって、あと何年できるかなと。その件があって、体調をちょっと崩したのかなと思う」と明かした。
「ただ、兄は不屈の精神を持ってますから、これを糧に頑張るとも言っていた。落ち込んでいたということはないです。前向きな人間ですから」と光英氏。名投手が刻んだ輝かしい球歴は色褪せることはない。「彼の残した功績は未来永劫に残っていくのかなと思う」。偉大だった兄への思いがあふれた。
ロッテ・佐々木朗が12日、地元岩手でリフレッシュした。
10日のWBC強化試合先発後、11日に帰郷。この日は地元高田松原海岸を散歩し、昼食は行きつけの中華料理店で麻婆(マーボー)ラーメンを食べた。「久しぶりに地元でゆっくりできました。WBCに出場したい思いはあるので、しっかり準備をしていきたい」と来年3月の本戦出場へ意欲。近日中に帰京し自主練習を再開させる。
ロッテの佐々木朗希投手が12日、地元の岩手でリフレッシュした。
10日のWBC強化試合豪州戦に先発後、11日に岩手へ帰郷。この日は陸前高田市内の高田松原海岸を愛犬ラムちゃんと散歩した。昼食は高校時代からの行きつけの中華料理店で麻婆ラーメンを食べた。
佐々木朗は球団を通じ「疲れはないです。昨日は久しぶりに地元でゆっくりしてリフレッシュできました。シーズン終了後にも岩手に戻って休みをとったので、これからオフも継続的に身体を動かしていきます。キャッチボール等も行っていきます」とコメントした。
豪州戦ではWBC球に苦慮しながらも4回を無失点に抑えた佐々木朗。来春のWBC出場へも改めて意欲を示した。「WBCはプロに入った時点から出たいと思っていた大会ですし、出たいからといって出れる大会ではないので出場したい想いはもちろんあります。チャンスをもらえたらチームに貢献できるようにしっかりと準備をして備えていきたいと思っています」と意気込んだ。近日中に帰京する予定。
地元の高田松原海岸の散歩の様子は球団広報公式Twitterにも掲載されている。
ロッテの佐々木朗希投手が12日、岩手県大船渡市に帰郷して取材に応じ、4月に史上最年少の20歳で完全試合を達成するなど飛躍した今季について「最低限はできたと思うが、もっと上を目指せると思った」と真剣な表情で話した。
岩手県陸前高田市で生まれ、2011年に東日本大震災で被災。大船渡市に移り、大船渡高3年生だった19年4月に球速163キロをマークした。慣れ親しんだ土地に「毎年戻ってくる場所があるのは嬉しいし貴重。いつまでも活気ある街であって欲しい」としみじみと話した。
プロ3年目の今季は、20試合に登板して9勝4敗、防御率2.02、173奪三振だった。
火事で亡くなった元プロ野球選手の村田兆治さん(72)の弟、光英さん(69)が12日、東京都世田谷区の村田さんの自宅前で取材に応じた。
涙を浮かべながら「この度はファンの皆さん、ご心配やご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。皆さんに愛されていた村田兆治がしのばれるというか、私もまだ実感がなくて」と、語った。
9月の羽田空港での空港職員への暴行騒動に「思い出す度に子供の時から兄が…野球一筋にかけてやってきた最後に。先月の事件があって、私にもすごく残念だと言っていました。子供達に対しても誠心誠意を尽くしてきて、子供達を裏切ったと悲しんでました」と振り返り「彼の残した功績は未来永劫に残っていくのかなと思う。離島甲子園というのを始めて、優秀な選手も出て来て、プロ野球にもいけるような選手が出てきたのは本当に兄の功績だと思っています」と、うなずいた。
騒動後の兆治さんの様子については「こういう風になって、それで夢を与えられるのかなと言っていた。体力のこともあって、あと何年できるかなと。その件があって、体調をちょっと崩したのかなと思う。ただ、兄は不屈の精神を持ってますから、これを糧に頑張るとも言っていた。落ち込んでいたということはないです。前向きな人間ですから、来年のことどうしようかなと。落ち込んでいることはなかったが、残念がっていた」と、語った。
成城警察署の11日の発表では、火元は2階のリビングだが、出火原因は現在不明。発見場所はリビングと同じフロアにある小部屋で、床に座った状態だった。タバコは発見されず、搬送時には両手に何も持っていなかった。タバコは消防庁も確認していないという。死因は一酸化炭素中毒の疑いがあるという。
遺体に目立った外傷はなく、重度の火傷もなし。発見当時は1人で住んでいたが、施錠はしており、侵入もなかった。また、家族に自殺をほのめかした事実は今のところなく、遺書は発見されなかったという。
日本ハムに在籍したマット・ウィンタース氏、近鉄に在籍したラルフ・ブライアント氏が12日、11日に死去した村田兆治氏について日本プロ野球外国人OB選手会を通じてコメントし、悼んだ。
ともに現役時代に対戦。ウィンタース氏は「村田兆治さんのご逝去の報に接し、心よりお悔やみ申し上げます。彼の家族、友人、そして彼の全てのファンに私の思いと祈りを捧げます。彼のキャリアの最後に対戦できたのは光栄だった。これまで対戦した中で最高の投手の1人だった。グラウンドでの彼との対戦も大好きだったが、グラウンド外での付き合いもさらに大好きだった。友よ安らかに」と思いを綴り、3度の本塁打王に輝いたブライアント氏は「本当に驚いた。村田さんとは僕が入団した時には既に39歳を迎えていたが、幾度も対戦させてもらった。140qを越えるスピードボールとフォークは凄かった。対戦した投手でも記憶に残った名選手だったことに間違いない。野球界での功績と貢献。ご冥福をお祈り致します」と、偲んだ。
まさに「豪快」という2文字が似合う俊英は、チームが長年にわたって待望した和製大砲に成長を遂げるか。ロッテの山口航輝外野手は今季、チーム最多の16本塁打を記録。前年の課題だった確実性も着実に改善した。今回は「月別成績」や「球種別成績」などのデータをもとに、若き主砲候補を掘り下げる。
山口の年度別成績は下記の通り。
明桜高(現ノースアジア大明桜高)から2018年のドラフト4位でプロ入り。プロ2年目の2020年には2軍で4番を務め、チーム最多の70試合に出場して藤原恭大外野手と並んで最多タイの本塁打数を記録した。続く2021年はシーズン前の対外試合で1軍の4番を任されるなど、開幕前から大きな期待がかけられていた。
2021年は5番打者として開幕スタメン入りを果たしたが、3月から5月まで3ヶ月連続で打率1割台と確実性を欠き、1軍定着はならず。それでも、8月の再昇格後は確実性が向上し、8月と10月には月間打率2割8分台を記録。最後の3ヶ月で5本塁打を記録しただけでなく、クライマックスシリーズでも本塁打を放つなど、今後の活躍に期待を持たせた。
2022年はシーズン初打席となった3月27日の試合で代打逆転3ランを放つ最高の滑り出しを見せ、その後も新型コロナウイルス感染で離脱した期間を除き、シーズンを通じて1軍に。8月中旬からおよそ1ヶ月にわたって4番を務め、打線の迫力不足に悩まされたチームの中で大いに存在感を発揮した。
続いて、山口が残した2022年の月別成績を紹介したい。
3月にOPS1.133と好スタートを切り、4月も打率.318、OPS.833と優秀な成績を記録。このまま不動のレギュラーとなりたいところだったが、5月は打率.167、0本塁打と大不振に陥ってしまい、6月も打率.222、OPS.663と満足のいく数字は残せなかった。
だが、7月は打率.286、OPS.890と再び状態を上げると、8月には試合数を上回る安打数を記録し、月間打率も.306と躍動。この活躍によって打順も4番へと上がったが、9月は打率.178と調子を落とし、シーズン最後まで4番の座を守ることはかなわなかった。
しかし、その9月は打率の面では苦しんだものの、月別最多の6本塁打を記録。10月の最終戦で放った逆方向への鮮やかな本塁打も含め、長距離砲としての成長も示した。好調時のバッティングは目を見張るものがあるだけに、調子の波を減らすことができればさらなる好成績も期待できそうだ。
また、2021年と2022年の球種別成績は次の通りとなっている。
2年続けてシュートに対して高打率を残し、2021年にはシンカー・ツーシームに対しても打率.429を記録。また、カットボールに対しても2021年は3本塁打、2022年は4本塁打と強い打球を放つことができており、速い変化球への対応力は総じて高いといえる。
その一方で、対ストレートの打率はやや低い。2021年は4本塁打、2022年は6本塁打と力負けはしていないものの、多く投じられる球種なだけに確実性を高めたいところだ。また、フォークとカーブに対してはいずれも2年続けて打率1割台とかなり苦手としている。
しかし、2021年に苦戦していたチェンジアップとスライダーの2球種に関して2022年に打率を向上させ、前年は打てなかった本塁打も2本ずつ記録。こうした対応力をフォークやカーブに対しても発揮することができるかが、今後の成長におけるカギを握りそうだ。
2022年のロッテが苦戦を強いられた要因の1つとして、近年のチームを牽引してきたレオネス・マーティン外野手とブランドン・レアード内野手の不振により、チーム全体の長打力が大きく落ちたことが挙げられる。若くしてチーム最多の本塁打数を記録した山口にかかる期待が大きくなるのは、状況を考えても必然と言えよう。
球種・投球コース別の数字を見てもまだ粗削りな部分は多いが、昨季からの着実な進歩も垣間見せている。大きな伸びしろを残す22歳の若き大砲は、今季の経験を糧にしてさらなる飛躍を遂げることができるか。本塁打後に要所で詠む俳句からも確かな知性を感じさせる「球界の俳人」がこのまま本格開花なるか、来シーズンの打撃には要注目だ。
ロッテの小島和哉投手はプロ4年目の今季、24試合に先発して3勝11敗と大きく負け越した。しかし防御率はリーグ6位の3.14。この数字を見ると試合をつくっていることが分かる。データを見てみると、援護に恵まれなかった“不運”が浮かび上がる。
セイバーメトリクスの指標を用いてプロ野球のデータを分析などを行う株式会社DELTA(https://1point02.jp/)によると、9イニング当たりの援護点(援護率)を示す「RS/9」は、規定投球回に到達した投手の中では日本ハム・加藤貴之投手(2.50)に次ぐワースト2位の「2.57」。6回自責点3以下でクオリティスタート(QS)と呼ばれ最低限の役目とされるが、小島はたとえ3点に抑えても白星は得られないことになる。
防御率が小島とほぼ同じでリーグ7位3.16のオリックス・宮城大弥投手は2桁11勝をマーク。援護率を見てみると2位の「4.55」と高く、大きな差となって表れていることがわかる。
なお小島は昨季の防御率は3.76と今季より悪かったが、援護率は3位の「4.62」と高く、2桁10勝をマークしている。一方で今季はQS率62.5%の安定感でも遠かった白星。今季はチームで唯一の規定投球回到達と先発陣の柱となりつつあるだけに、来季も粘り強く投げ続けることが求められそうだ。
順位 | 選手名 | 1試合当たりの援護点 | 順位 |
---|---|---|---|
1 | 森下暢仁 | 5.59 | 1 |
2 | 宮城大弥 | 4.55 | 2 |
3 | 田中将大 | 4.47 | 3 |
4 | 伊藤大海 | 4.34 | 4 |
5 | 青柳晃洋 | 4.27 | 5 |
6 | 菅野智之 | 4.04 | 6 |
7 | 千賀滉大 | 3.75 | 7 |
8 | 山本由伸 | 3.64 | 8 |
9 | 今永昇太 | 3.63 | 9 |
10 | 戸郷翔征 | 3.62 | 10 |
11 | 上沢直之 | 3.43 | 11 |
12 | 小川泰弘 | 3.17 | 12 |
13 | 西勇輝 | 3.16 | 13 |
14 | 橋光成 | 3.02 | 14 |
15 | 柳裕也 | 2.88 | 15 |
16 | 大野雄大 | 2.87 | 16 |
17 | 小笠原慎之介 | 2.7 | 17 |
18 | 小島和哉 | 2.57 | 18 |
19 | 加藤貴之 | 2.5 | 19 |